第3話 扉の向こうへ

 契約書に名前を書き入れたボールペンの先が、微かに震えていた。担当者が書類を丁寧に揃え、「おめでとうございます」と深く頭を下げる。防音タワーマンション、最上階の一角。数億という金額が数字として紙の上に記されているのを見つめながら、聖士は静かに息を吐いた。


 この鍵を受け取った瞬間から、もう後戻りはできない。


 手渡された銀色のキーが手のひらの上で冷たく光る。その感触を何度も確かめるように握り締め、聖士はエントランスを抜けた。ガラス張りの自動ドアが静かに開く。吹き抜けのホールは、ホテルのロビーのような静謐さを湛えていた。大理石の床、柔らかな照明、遠くで流れる控えめな音楽。だが耳に届く音は、驚くほど少ない。


「……静かだな」


 口の中で小さく呟き、エレベーターに乗り込む。ボタンを押すと、滑るように上昇していく。耳がわずかに塞がれ、数秒後、扉が開いた。


 長い廊下。厚いカーペットが足音を吸い込み、空調の音さえほとんど感じられない。鍵を差し込み、静かに回す。わずかなクリック音を合図に扉を押し開いた。


 そこに広がっていたのは、別世界のような静寂だった。


 リビングの大きな窓いっぱいに東京の街が広がっている。昼の光が淡く床を照らし、高所特有の澄んだ景色が遠くまで続く。壁は重厚で厚く、床も天井も吸音材で覆われているのが分かる。手を叩いてみても、音はほとんど反響せず、空気の奥に沈んで消えていった。


「……すごい」


 言葉というより、息に混ざった感嘆だった。


 誰にも邪魔されない場所。怒鳴り声も物音も、届かない。自分だけの空間。


 その実感が胸の奥へゆっくり染み込んでいく。


 荷物といってもわずかなスーツケース一つだけだ。ホテル暮らしの数日で、持ち物は極端に減っていた。リビングの隅にそれを置き、窓際に歩み寄る。眼下には道路があり、車が小さな光の粒となって流れている。しかし、音は一切届かない。まるで世界そのものが遠ざかったようだった。


 ソファに腰を下ろすと、背中に疲労がにじみ出てくる。これまで張り詰め続けていた何かが、少しずつ解けていく。ポケットからスマートフォンを取り出し、電源を落とした。誰とも繋がらない時間を、今だけは選びたかった。


「ここから、始めるんだ」


 ゆっくりと言葉にして、天井を仰ぐ。


 午後。宅配業者が次々と荷物を運び込んでくる。巨大な段ボール箱が部屋に積まれ、封を切るたびに新しい機材が姿を現した。業務用マイク、オーディオインターフェース、スタジオ用の吸音パネル、四台並べる予定のモニター。どれも、以前の自分なら手を伸ばすことすら考えなかったものだ。


 設置作業の手伝いに来た業者が配線図を広げ、手際よくケーブルをまとめていく。聖士は横で説明を聞きながら、必要な位置を一つずつ指示した。床に張り巡らされたコード、静かに回転を始める冷却ファンの低い音。それらが、不思議と心地よく感じられる。


「こちらのPCは、レンダリング用と配信用で分けています。負荷分散は自動で行えますので」


「問題ありません。ありがとうございます」


 声に、久しぶりに確かな実感が宿った。


 設置が一通り終わった頃には、日が傾き始めていた。壁一面を覆う吸音パネルが淡い影を落とし、新しいスタジオルームはまだ無機質ながらも、どこか凛としている。椅子に腰を下ろし、机に手を置いた瞬間、胸の奥で小さな震えが走った。


「……ここが、俺の場所か」


 マイクアームを軽く動かし、ポップガードを触る。キーボードのキーを叩く音でさえ、優しく包み込まれて消えていく。


 この空間は、これまで自分を締め付けていたものとは、まるで逆の存在だった。


 夕食は簡単に済ませ、机にノートパソコンを置く。昨日編集したアバターデータを開き、照明環境と表情の調整を続けた。髪の揺れ、瞬きの速度、唇の動き方。細かい数値をいじるたび、画面の中の少女は少しずつ「生きている存在」に近づいていく。


 かつて押し殺してきた「好きなこと」が、今、堂々とこの部屋の真ん中に置かれている。


 胸の奥に、遅れてやってきた熱が静かに溶けた。


 ――あの頃、こんな時間は罪悪感だった。


 ――今は違う。


 つい微笑んでしまう自分に気づき、ふと目を閉じた。


 すると、薄暗い過去の記憶が、不意に脳裏へ浮かび上がった。


 休日の夜。居間のテーブルでパソコンを開き、モデリングをしていた時のこと。彩花に言われた言葉が、耳の奥でよみがえる。


「いい年して、そんな趣味に時間使うの? 家族のこと、もっと考えてよ」


 その一言で、パソコンを閉じた夜。机の引き出しにデータをしまい込み、それきり触れなくなった時間。胸の奥に重い蓋をして、鍵を投げ捨てたつもりだった。


 だが今、その蓋は静かに外されている。


「……戻らない」


 小さく呟き、画面へ視線を戻す。


 過去ではなく、これからの顔を見つめる。


 時計を見ると、すでに深夜を過ぎていた。椅子から立ち上がり、窓辺へ歩く。夜の街はまるで光の海のようで、遠くに伸びる道路が銀色に輝いている。防音ガラスに指先を当てると、外の世界は静寂のまま、ただ光だけを届けていた。


「静かだな……」


 その静けさは、孤独ではなかった。


 自分の内側と向き合うための余白だった。


 寝室に入り、ベッドの端に腰を下ろす。数日間の緊張と慌ただしさが一気に押し寄せ、全身に重さが広がる。天井の淡い照明が視界でぼやけた。


 思考が途切れる直前、心の奥底で小さな声がした。


 ――まだ終わっていない。ここからだ。


 翌朝。目を覚ますと、体の芯まで眠れた感覚があった。カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋を柔らかく照らし、静かな空気の中に心地よい緊張が漂っている。


 キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。湯気の向こうで、昨日のスタジオルームが静かに佇んでいた。カップを持ったまま椅子に座り、しばらくその光景を見つめる。


「この部屋を、俺の居場所にする」


 その言葉は宣言ではなく、祈りでもなく、確かな約束だった。


 スイッチを入れる。モニターが灯り、PCのファンが微かに回転を始める。マイクのランプが淡く光る。何かが、静かに起動していく音が部屋の奥に溶けていく。


 聖士はキーボードの上で指を止め、息を整えた。


 これから踏み出す一歩が、どこへ辿り着くのかはまだ分からない。


 だが、少なくともこの場所から始まる。


 後戻りはしない。


 視線の先には、まだ名を持たない新しい自分が、静かに待っている気がした。


 ――ここからだ。


 そして、彼はゆっくりと最初のキーを叩いた。


 

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