異世界転生者は平穏に暮らしたい
風
第1話:一年生、面倒係に任命される
私は平穏が好きだ。
できれば、ずっと寝ていたい。
寝て、起きて、食べて、また寝て。
たまに本を読んで、面倒な人間関係とは距離を取って。
「えらい」と言われることも、「すごい」と言われることも、いらない。
そういうのは、主人公キャラが勝手に背負えばいい。
……なのに。
どうして私は、こういう場所に立っているのだろう。
王立アステリア学園。
貴族の子どもたちが集められ、礼儀作法と政治と、ついでに剣と魔法まで叩き込まれる場所。
未来の官僚、未来の騎士、未来の王妃候補。
未来の面倒の塊。
入学式当日。
私は鏡の前で、自分の顔を見た。
金色の髪。
青い瞳。
整った顔立ち。
上流貴族の令嬢、イレイン・ソレイユ。
中身は、現代日本の陰キャ女子高生。
休み時間は机に突っ伏し、帰宅したら布団に突っ伏し、人生の目標は「目立たず生きる」だった。
転生して貴族令嬢になった今も、その目標は変わらない。
変わるはずがない。
目立ったら、面倒が増える。
「お嬢様。本当に、地味なお召し物でよろしいのですか」
侍女のミュリエルが、困ったように言う。
彼女はとても優秀で、とても真面目で、とても、私の理想と反対側にいる人だ。
「いいの。入学式で目立つと、その後も目立つの。目立つと、挨拶が増える。挨拶が増えると、会話が増える。会話が増えると、責任が増える」
「お嬢様は、いつも責任という言葉を嫌がりますね」
「嫌がってるんじゃないよ。避けてるの」
責任は、持つと重い。
落とすともっと面倒になる。
だから私は最初から持たない。
それが平穏への最短距離だ。
……平穏への最短距離。
そう、最短距離のはずだった。
「本当に、何もしないつもり?」
頭の中で、気の抜けた声がする。
私がこの世界に来た時から、ずっといる声。
神様。
送り込んだ当人。
そして、私の最悪の共犯者。
(何もしない。絶対に)
「それ、毎回言うよね」
(毎回言う必要があるから言ってるの。神様、あなたも面倒が嫌いでしょ)
「嫌い。大嫌い。だから君、最高なんだよね」
(褒めないで。褒められると、調子に乗る人が寄ってくる)
「でもさ。学園って、イベントの匂いがするよ」
(知ってる。だから行きたくないの)
「でも行くんだよね」
(……貴族だからね)
逃げられない面倒というものは、確かに存在する。
そして、その代表例が――「上流貴族の体面」だ。
それがなければ、私は田舎で畑でも耕して眠っていただろう。
いや、畑も面倒だ。
きっと木陰で寝ている。
馬車の窓から、学園の尖塔が見えた。
大きい。
立派。
そして、面倒の象徴みたいに威圧的だ。
入学式の広間は、すでに人の海だった。
色とりどりのドレスと制服、香水と緊張と、未来の政治的打算が混ざった匂いがする。
私は息を浅くして、端へ、端へ、と意識を滑らせる。
端っこにいれば、平穏に近い。
私はそう信じている。
ところが。
「ソレイユ侯爵家のご令嬢。イレイン様でいらっしゃいますね」
聞き覚えのある声に呼び止められて、私は心の中で膝から崩れ落ちた。
学園の運営側。
つまり、逃げられない種類の大人。
制服の上級生が、背筋を伸ばして私に一礼する。
胸元の徽章は、式典係の印。
「はい。イレイン・ソレイユです」
「本日はご入学、誠におめでとうございます。実は……侯爵家のお立場ですので、式典の雑務を少々」
雑務。
その言葉は、私の平穏を削る刃の音がする。
(神様。聞いてる?)
「うん。聞いてる」
(助けて)
「面倒だねぇ」
(同意じゃなくて、助けて)
「無理。僕、干渉しないタイプの神だから」
(最低)
「最高って言って」
(最低)
逃げられない。
私は顔に笑みを貼り付けたまま、内心の悲鳴を飲み込んだ。
案内された控室は、広間の裏側。
式典の進行表、名簿、席順、献花の順番、来賓の動線。
紙と石板の山。
これを仕切るのが式典係。
そして、私は今日だけ、その補助に回されるらしい。
「イレイン様。こちらの来賓控室の確認をお願いできますか。何かございましたら、すぐに」
「はい。確認いたします」
返事は礼儀正しく。
心は死んでいる。
そういう顔の作り方は、陰キャ女子高生時代に覚えた。
控室の扉を開ける前に、深呼吸をひとつ。
中には、すでに何人かが待機していた。
空気が、冷たい。
ひとりの少女が、窓辺に立っている。
背筋がまっすぐで、姿勢だけで周囲を制圧しているような人。
黒に近い深紅の髪。
鋭い銀色の瞳。
無駄な装飾のない制服。
それなのに、なぜか「豪奢」だと感じる。
存在感が、そうさせるのだろう。
周囲の令嬢たちは、彼女から少し距離を取っている。
恐れているというより、勝手に壁を作っている感じ。
本人は、気にしていない。
いや、気にしていないように見える。
それがまた、周囲を苛立たせるのだろう。
(あ、これ……)
「うん。あれだね」
(悪役令嬢枠っぽいね)
「っぽいね」
私はひそかに頷いた。
こういうのは、王道だ。
気高く、完璧で、少し冷たい令嬢。
それを疎む取り巻き。
そして、後からやってくる“正義のヒロイン”。
やがて婚約破棄。
断罪。
ざまぁ。
拍手。
そういう流れ。
私はそれを、遠くの席から眺めていたい。
視線を合わせない。
近づかない。
関わらない。
平穏の三原則だ。
私は壁際に立ち、控室の配置を目で確認するふりをした。
式典係としての“仕事をしている感”を出しつつ、心を透明にする。
透明になれば、誰にも見つからない。
……はずだった。
「あなた」
声が、すぐ近くから落ちてきた。
私はゆっくりと顔を向けた。
窓辺の少女が、こちらを見ている。
銀の瞳が、真っ直ぐ。
刺すみたいに真っ直ぐで、逃げ道がない。
「はい」
「式典係?」
「本日は補助として」
「そう」
それだけ言って、彼女はまた窓の外へ視線を戻した。
会話は終わり。
質問は必要最低限。
余計な感情はない。
……なのに、なぜか私は、ほっとしてしまった。
(怖くないね)
「うん。怖いのは周りの方だね」
周りの令嬢たちの目が、こちらに集まっている。
『なぜ話しかけられたの?』
『媚びたの?』
『目立ってるわよ』
そういう音のない声。
私の平穏を削る視線。
(やめて。見ないで。私はモブ)
「いや、今ちょっとモブじゃなかったよ」
(うるさい)
控室の確認を終え、私は廊下に出た。
廊下の空気は、まだましだ。
人の匂いが薄い。
式典の進行は、滞りなく進む――はずだった。
はずだったのに。
世の中はいつだって、面倒が好きらしい。
「第二王子殿下が、こちらに向かわれます」
式典係の上級生が小声で言った。
第二王子。
王道の中心。
事件の中心。
面倒の中心。
(中心に近づきたくない)
「でも近づいちゃうんだよねぇ」
(黙って)
廊下の先が少し騒がしくなる。
護衛の足音、侍従の声、周囲の空気が張り詰める感じ。
私は反射的に、壁際へ寄った。
見えないふり。
石像のふり。
石像は責任を取らない。
第二王子は、思ったよりも若かった。
同い年か、少し上か。
金髪で、整った顔。
笑みを浮かべているのに、目が笑っていない。
その目は「自分が中心だ」と当然のように思っている目だった。
(あ、これは……裏切りそう)
「言い方」
(だって、雰囲気がそういう雰囲気)
王子は控室の方向へ歩く。
そこは、さっきの少女――悪役令嬢枠のいる控室。
王道の導線が、敷かれようとしている。
私はその瞬間、理解した。
今このまま行けば、廊下で誰かがぶつかって、声が荒がって、噂が生まれて、面倒が増える。
面倒は連鎖する。
最初の一滴が、後の洪水を作る。
(……嫌だ)
私は、歩き出していた。
自分でも嫌になるくらい、自然に。
面倒を避けるために、面倒へ踏み込む。
私の人生はいつもそうだ。
「殿下」
私は式典係の札を見せ、頭を下げた。
上流貴族らしい所作で。
学園という舞台で浮かない程度に、完璧に。
完璧は目立つが、ここで失礼をするともっと目立つ。
「控室のご案内をいたします。こちらへ」
王子が私を見る。
評価する目。
値踏みする目。
嫌な種類の目。
それでも、笑って見せる。
私は布団のためなら何でもする。
「君は?」
「イレイン・ソレイユ。ソレイユ侯爵家の者です」
「ソレイユか。なるほど」
なるほど、って何。
納得しないで。
関心を持たないで。
私はただの案内係。
私は王子を、悪役令嬢の控室“手前”の別室へ誘導した。
本来は来賓用の小さな待機室。
今は空いている。
動線を分ければ、衝突は減る。
衝突が減れば、面倒も減る。
私は正しい。
私の平穏のために正しい。
扉を開け、王子を中へ通す。
侍従が続き、護衛が外に立つ。
私は一礼して、扉を閉めようとした。
――その時。
「まあ! 殿下ぁ!」
甘く、明るく、しかし計算された声が、廊下の向こうから弾けた。
花が咲くみたいに派手で、香りが強い。
私は、嫌な予感がした。
嫌な予感はだいたい当たる。
当たるから嫌だ。
声の主は、走ってきた。
淡い色のドレスを制服の上にまとっている。
髪は艶やかで、笑顔は完璧で、目はきらきらしている。
そして、距離感が近い。
近すぎる。
(来た)
「来たね」
(横恋慕令嬢枠だ)
神様が楽しそうなのが腹立たしい。
私は、胸の奥でため息をついた。
彼女は王子を見つけると、迷いなく近づいた。
護衛が止めようとしても、止められない絶妙な立場の令嬢。
そして、止めたら「無礼」になる。
面倒な種類の正しさを持っている。
「殿下、今日という日を、ずっと楽しみにしておりましたの!」
王子が微笑む。
さっきより自然な笑み。
ああ、王道だ。
この“肯定してくれる女”に惹かれるやつだ。
私は、扉の影に半歩下がった。
本当は消えたい。
だが、ここで消えると“放置した式典係”になる。
それはそれで面倒だ。
面倒には種類がある。
私はより軽い面倒を選ぶしかない。
「君は……確か」
王子が令嬢の名前を呼ぶ。
彼女は嬉しそうに頷く。
会話が弾む。
視線が絡む。
運命の糸が結ばれていく音がする。
私はその音を、遠い場所のことのように聞いた。
この場で一番危ないのは、さっきの控室にいる少女だ。
悪役令嬢枠。
彼女がここに来たら、衝突が起きる。
衝突が起きたら、噂が増える。
噂が増えたら、面倒が増える。
私は素早く、式典係の上級生を呼び止めた。
小声で、要件だけ。
「すみません。第一控室の確認をお願いできますか。『念のため』」
『念のため』は便利な言葉だ。
誰も責められない。
誰も責任を取らない。
私の好きな言葉だ。
上級生は頷いて走っていく。
これで、控室の少女が不用意に出てこない確率が上がる。
私は平穏のために働いている。
働きたくないのに。
廊下の隅に立ち、私は心の中で呟いた。
(……これ、私が導線作ってない?)
「うん。作ってるね」
(やめたい)
「でもさ、騒ぎが起きたらもっと面倒だよ?」
(それはそう)
私は、負けた気分になった。
いつだってそうだ。
面倒を避けるための行動が、次の面倒を呼ぶ。
それでも、今はこの場を穏便に終わらせることが最優先。
王子と令嬢の会話は、外から聞いていても甘い。
彼女は殿下を褒める。
殿下は受け取る。
彼女はさらに褒める。
殿下はさらに笑う。
褒め言葉は、麻薬みたいに人を溶かす。
私は知っている。
私が褒められたら、布団に戻りたくなるから。
「……君は、よくわかっている」
王子が言った。
令嬢が頬を染める。
ああ。
イベントが進行している。
私は視線を落とし、呼吸を整えた。
ここでの役目は、事故を起こさないこと。
誰かの恋を応援することではない。
私は善人ではない。
ただ、面倒が嫌いなだけだ。
廊下の向こうで、鐘が鳴る。
入学式の開始を告げる合図。
人々が動く。
動けば、また面倒が生まれる。
私は制服の袖口をそっと整えた。
自分の顔に、いつもの無害な笑みを貼り直す。
平穏に生きたい。
だから私は、今日も少しだけ動く。
何もしないために。
そして、心のどこかで思ってしまう。
……これ、最初の一章だよね。
たぶん。
間違いなく。
面倒な物語の、最初の一章だ。
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