痛かったら手をあげて

山原水鶏

第1話 歯磨き

小児歯科の内装は、患者を怯えさせないように楽しげにしている。一番広い診療ブースの壁には、子どもたちに人気のキャラクターがラミネートされて壁に貼られ、口をすすぐ紙コップにも可愛らしいカバが描かれている。

このカバとは長年の付き合いだ。私が物心ついたときからコップはこのデザインで、歯科衛生士になった今も、楽しげに大きな口を開けて口からいくつかのあぶくを飛ばしている。


 午後8時半。

「芝先生、よろしくお願いします」診察室に入ってきたスーツ姿の男は、ブースに響くような声で、挨拶をした。

私は先生ではないが否定しない。そういう決まりだ。

「椅子にどうぞ。口を濯いでください」男の首にペーパーエプロンを付ける。

「はい」

男は勝手知ったるという様子で椅子に座り、コップの水がなくなるまで口を濯ぎ、コップを台に戻す。水は自動で出て、コップを満たした。

「椅子倒します」

椅子が倒れ、ライトが付く。

「今日はいつもの歯磨きですね。口を開けてください。よく磨けてます。歯並びもとてもいい」

ごく普通の歯ブラシに歯磨き粉をつけ、スーツ男の歯を磨く。

きっちりと並んだ白い歯。歯茎も引き締まり、すべて『健全』。

フロスをして、隅から隅まで磨き、また椅子を起こす。

「すすいでください。今日はこれで終わりです」

「芝先生、ありがとうございました」

男は口をすすぎ、紙エプロンで拭った。私は彼のエプロンを外して捨て、歯科ユニットを消毒した。早く帰りたい。


 手袋を外して手を洗っていると、後ろから抱きつかれた。

「由紀子、この後部屋に行っていい?」

私は彼の愛人で、ノーという選択肢はない。

「はい」

「疲れてる?」

「それなりに。今週は土曜日も出たので」

今日は日曜日で、歯科医院は休みだ。

「由紀子は頑張り屋だ。さみしい思いをさせて済まないと思ってる。今日無理して帰ってきたんだ」

「私は大丈夫なので、無理はなさらないでください」

「じゃあ部屋で待ってる」小児歯科の出口から、仕立てのいいスーツ姿で出ていく男を見送る。


 スーツ男はこの小児歯科と歯科の入っている6階建てのビルのオーナーで、国会議員だ。彼の父親も県知事だった。私の父より20歳ほど年上だったが、駅前で歯科医院をやっていた父と、同じ商店街で幼稚園を営む知事とは兄弟のように仲が良かった。


 大学2年の春に、父は学会に行く途中、50歳で心筋梗塞で死んだ。家族は誰一人、死に目には間に合わなかった。

父の死後は医院を閉めて、患者は市内の他の歯科にお願いした。

県知事は駅前商店街にあったうちの歯科医院や周りの土地を買って、そこにビルを建てて二階に新たに歯科医院を開院した。


 名前を、元の「芝歯科医院」から「シバ小児歯科医院」に変え、女性の歯科医を何人も雇った。

一階には保育園と小児科と薬局が入り、二階は歯科医院の他は知事のオフィスと不動産屋が入っていた。

ビルの三階から上はマンションで、最上階には知事が住む予定になっていた。しかし、ビルが建った翌年、知事は最上階に引っ越す前に亡くなった。


 母は、新しい歯科医院で父が生きていた頃のように、受付の仕事をしていた。淋しいから由紀子は地元で働いてといわれて、決まっていた就職を蹴り実家に戻った。

シバ小児歯科医院で歯科助手のパートタイムで働きながら、夜間に歯科衛生士の専門学校へ通う日々。だが淋しいと言って私を呼び戻した母は、私が地元に戻って半年後に再婚して出ていった。


 医院の明かりを消し、鍵をかける。この時間このフロアには鍵を持つものしか出入りできない。薄暗い階段を上がり、3階のマンションフロアに出る。

母が出ていくときに、母と共同名義だった実家は売って、私は一人ここに入居した。五年前の事だ。


「ただいま」

玄関を開け、飾ってある父の写真に声を掛ける。私がここに置いたわけではない。憲児が置いた。

萬田憲児。完璧な歯が自慢の国会議員。彼が好きなのは私ではなくて、父だ。芝先生、と私を呼び、歯を磨かせる。大人のごっこ遊び。つかの間の彼にとっての癒しは、私にとっては無だった。

玄関にはきっちり揃えられた、彼のピカピカの革靴がある。

どうにもきっちりしすぎている。

「おかえり、由紀子」パンツとアンダーシャツに靴下、という珍妙なスタイルで、憲児が部屋の奥から出てきた。

「来てたんですね」

「行くって行っただろ?」

抱きついてくる43歳。既婚。このビルの6階に妻と白い犬、おそらくトイプードルと住んでいる。犬には詳しくない。

白い犬を抱いた妻とはよく、2階ですれ違う。彼女は不動産屋と議員事務所に用があるようだった。


 さっき、磨いたばかりの彼の口とキスする。唇が離れ、彼が嬉しそうにこちらを見下ろす。

「やっと会えた。いいかげん赤坂の宿舎に来てよ」先週も群馬に帰ってきただろう、という言葉を飲み込む。

「都内の運転は怖いから。練習して、行けるようになったら行きます」そのつもりはない。

「毎日、由紀子に歯を磨いてほしい」

「『自分できちんと磨けるようになったらお兄さん』」父が子供の患者さんに言うセリフ。優しかった父。

「ハハ、芝先生によく言われた。ねぇ、俺がどれだけ由紀子が好きかわかる?」

私は曖昧な愛想笑いを彼に向けた。


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