雨粒の向こう
ひらひら
前編
六月の終わり。梅雨の雨は、ただ濡らすだけではなく、世界の匂いまで塗り替えていく。アスファルトの熱を冷まし、紫陽花の青を、わずかに深くする。
「——止まないね」
私は傘もささずに濡れた前髪を指で払った。
高めのポニーテールは雨を吸って重くなり、首の後ろに張りつく。白く、やわらかな曲線の夏の装いは、肩や裾に雨粒をまとって、淡く透けるほどに湿ってしまっていた。
わざとじゃない。——そう言い訳したくなる程度には、彼の視線が気になってしまう。
「止むまで待ってもいいけど」
そう言いながら、
「待ってたら日が暮れるよ。撮ろ」
私は言い切って、足元の水たまりを一歩避けた。彼が写したいと言ったのは、雨の日の“夏”。透明で、冷たくて、触れたら消えてしまいそうなやつ。
「こっち、
指示は静かで、優しい。
“紗季”。呼ばれるたび、胸の奥で何かが小さく鳴る。
「はいはーい」
すぐ隣で、身長一五四センチの小柄な影が、ぴょこんと跳ねる。
「私も撮る?撮る?雨の天使みたいな感じで!」
「天使は雨の日、飛べないだろ」
悠斗が笑いながら言う。結菜はむっと頬をふくらませた。
「飛べるもん。ほら、ほらっ」
結菜はお揃いの白の裾を指先で摘まんで、くるりと回った。レースがふわっと揺れて、雨粒が散る。私はその横で立っているだけなのに、妙に意識してしまう。
——結菜も、同じなんだ。悠斗のことが、好き。
子どもの頃から分かっていた。結菜は隠すのが下手で、私が隠すのが上手いだけ。だけど、この気持ちを上手く隠せるほど、私は器用じゃなかった。
「結菜、もうちょっと寄って」
悠斗が言った。
結菜は嬉しそうに、私の肩にくっつく。濡れた肌が触れ合って、ひやりとした。
「紗季ちゃん、冷たい」
「結菜も冷たいよ」
「ねえ悠斗、私たち、姉妹みたいに見える?」
悠斗はスマートフォンから目を離さないまま、静かに言葉を置くように答えた。
「……ちょっと違う」
「え?」
結菜が目を丸くする。私も、胸の奥がほんの少しざわつく。悠斗はようやくスマートフォンを下ろして、雨の向こうの空を見上げた。
「姉妹っていうより……俺たち三人が一緒に過ごしてきた時間が、そのまま見える」
その言葉が、静かに胸へ染み込んでいった。時間が見える。——それって、私たちが悠斗に向けてきた“想い”のこと?
悠斗がまたスマートフォンを構える。
「紗季、目線こっち。結菜は少し上向いて笑って」
言われた通りにする。私は悠斗を見つめ、結菜は少し上目遣いで笑う。
雨は止まない。けれど、その場の空気が透明に澄んでいく。シャッター音が、雨音に混じって聞こえる。
その瞬間、私は気づく。
悠斗のレンズに写っているのは、私や結菜の姿形ではない。降りしきる雨の情景でもない。
——私たちが彼に向けてきた視線、その奥にあるものだ。
それが分かった途端、顔が熱くなる。結菜の笑顔が、少しだけ硬くなる。
ライバル。だけど姉妹みたいな関係。
その曖昧な境界を、悠斗だけが知らないまま、フレームの向こうに残していく。
⸻
十二月。街の灯りは、寒さを誤魔化すためにあるみたいだった。駅前のツリーは毎年同じ場所に立つのに、私たちの立ち位置は少しずつ変わっていく。
「今年も三人で会うの、なんか変な感じだね」
結菜がマフラーに口元を埋めて言った。白くなった息が、冬の空気へと溶け込む。
「変じゃないよ。昔からそうだし」
私はそう返しながらも、胸の奥が落ち着かない。悠斗は紙袋を持っていた。中身は、たぶん私たちへのプレゼント。
「じゃ、これ」
悠斗は順番に渡してくる。結菜には、ころんとした丸いアクセサリーケース。私には、落ち着いた色の革のキーホルダー。
「紗季っぽい」
結菜が言った。
「結菜は、丸っこいのが似合う」
結菜は嬉しそうに頷いたが、その後、悠斗の顔をじっと見た。
「悠斗は?自分のはないの?」
「俺は——二人といられれば、それで十分」
そう言って悠斗は肩をすくめた。結菜は少しだけ寂しそうに笑う。
ツリーの前で立ち止まる。
三人で並び、肩が触れるか触れないかの距離で立つ。
腕を伸ばして、三人で顔を寄せる。撮り終えて、悠斗が画面を覗き込んでいる間に、結菜が私の袖を引いた。
「ねえ紗季ちゃん」
「なに?」
結菜は、まっすぐ私を見た。普段の“妹っぽさ”が、ふっと薄れる。
「私、悠斗のこと、好き」
呼吸が止まる。分かっていたのに、言葉になると重い。
「……うん」
「紗季ちゃんも、好きでしょ」
その直球。心臓が痛い。
「……好き」
私は答えた。逃げなかった。
結菜は少しだけ笑って、それから、泣きそうな顔をした。
「じゃあ、ライバルだ」
「……だね」
「でもさ」
結菜が私の手を握る。小さな手。細い指。
「紗季ちゃんのことも、好き。ずっと姉妹みたいだったし。……壊したくない」
「私も」
私は握り返した。凍えるほど冷たいのに、その手は、確かに温かかった。
画面から顔を上げた悠斗がこちらに向き直った。
「なにしてんの、二人で」
「秘密ー」
結菜が笑って言う。悠斗は怪訝そうに眉を上げたが、すぐに笑った。
「じゃ、帰るか。寒いし」
三人で歩き出す。
ツリーの光が背中を照らす。
影は三つ、並ぶ。
でも、影の間の距離だけは、ほんの少しだけ変わってしまった気がした。
⸻
年が明けた。雪は降らなかったけれど、空気は澄んでいて、ひと息ごとに体の内側が冷たくなる。
三人で初詣に行くのは、昔からの習慣だった。幼い頃は、手をつないで歩いた。今は、少しだけ距離を取る。
「おみくじ引く!」
結菜が真っ先に走り出す。私は悠斗の隣を歩きながら、境内の灯りを見上げた。
「去年、結菜が大吉引いて、騒いでたよね」
「今年も相変わらずだな」
悠斗は笑った。その横顔を見ると、胸の奥が熱くなる。
——告白したら、どうなるんだろう。
結菜との関係は? 三人の関係は?考えれば考えるほど、足が止まりそうになる。
「紗季」
悠斗が名前を呼ぶ。
私は顔を上げた。
「今年も、初詣に付き合わせちゃって……悪いな」
「それは……私も楽しいし」
「うん。……紗季が隣にいるのが、もう当たり前みたいになっててさ」
「え?」
悠斗の言葉に、胸が一瞬だけ跳ねる。ちょうどそのとき、結菜が戻ってきた。
「見て見て!末吉!微妙!」
悠斗が吹き出す。私は笑う。結菜が頬を膨らませる。
いつものやり取り。
安心する。
けれど、その安心は、薄氷みたいだった。
私たちは絵馬を書いた。
結菜は“健康”と“恋愛成就”を並べて書き、恋愛成就の文字だけ少し濃い。私は、何を書くか迷った。
結局、こう書いた。
——“みんなで笑って過ごせる時間が、これからも続きますように”。
それが何を意味するのか、自分でも分かっている。
悠斗を好きでいる気持ち。
結菜を大事にしたい気持ち。
三人でいたい気持ち。
全部を守ろうとするなんて、欲張りだ。
だけど、欲張りでもいいと、今だけは思いたかった。
⸻
夏はあっという間に戻ってきた。梅雨が明けると、空の色は急に力を帯びる。けれど、私のスマートフォンの奥に残る去年の写真は、まだ雨の中に取り残されたままだった。
「プール行こう!」
結菜が言い出したのは、七月の初め。
私と悠斗は目を合わせて笑った。
「結菜、好きだよね。そういうの」
「だって楽しいもん。ね、悠斗も来るでしょ?」
「行くよ。……もちろん」
悠斗がさらっと言う。結菜が弾むように笑った。
陽を受けてきらめくプールの水面、濡れた床の熱気、売店から聞こえてくる、はじける炭酸の音。夏はいつも過剰だ。
私たちは更衣室を出て、プールサイドで落ち合った。
結菜の水着は、彼女の性格そのものみたいに屈託がない。私は、線の細い体つきが水着になると余計に目についてしまう気がして、どうにも落ち着かなかった。
悠斗は、いつものように少し照れくさそうに笑った。
「……どうしたの?」
「ん。……こうして二人と同じ時間の中にいられるのが、なんだか嬉しくて」
その言い方はずるい。
“二人”と言われた瞬間、私は結菜と同じ枠に入れられた安心と、そこから抜け出せない焦りを同時に覚える。
水に入ると、体が軽くなる。結菜は浮き輪を抱えて、私の周りをくるくる回った。
「紗季ちゃん、プールに遊びに来たのに、なんでそんな真面目な顔してるの」
「真面目じゃないよ」
「真面目だよー。悠斗の前だと特に」
結菜が小声で言う。私は水面を見て誤魔化す。
「結菜だって、悠斗の前だとテンション変だよ」
「えっ、変じゃないし!」
「変だよ」
二人で言い合っていると、悠斗がプールサイドから声をかけてきた。
「はい、こっち見て」
そう言って、悠斗は指でフレームを作る真似をする。私たちは顔を見合わせて、くすっと笑った。
——結菜が、じゃれるように私の腕に絡んできた。
「紗季ちゃん、好き」
冗談みたいな声。でも、目は真剣だった。
「……私も、結菜、好きだよ」
私はそう返す。
結菜は笑った。けれど、その笑顔の奥に、少しだけ“覚悟”が見えた。
「ねえ、紗季ちゃん。私、ちゃんと戦うから」
「……うん」
“戦う”。
その言葉が、水の中で重く沈んでいく。
悠斗は、私たちを眺めながら、変わらない笑顔を向けている。
でも本当は、悠斗に気づかれてしまったのかもしれない。私たちの視線の温度差を。触れた瞬間の硬さを。笑顔の裏に潜む緊張を。
プールから上がって、三人でアイスを食べた。結菜は溶ける前に勢いよく頬張って、口の端に白いのがついたままになっている。
「落ち着けって」
悠斗がティッシュを差し出す。結菜は手を伸ばしかけて——ふっと動きを止めた。
私のほうを見て、にこっと笑う。
「紗季ちゃん、取って」
私は小さく息をつき、ティッシュを受け取って結菜の口元をそっと拭ってあげた。
結菜の肌は日差しで少し温かい。
「ありがと、紗季ちゃん」
結菜が言う。
悠斗はその様子を見て、何も言わずにアイスの棒を噛んだ。
——この関係の形を、私たちは選び直し始めている。
そのことだけは、確かだった。
⸻
夏の終わり、また雨の日が来た。去年のあの写真と同じ場所に、私たちは立っていた。結菜が言ったのだ。「もう一回撮ろうよ。去年の続き」って。
悠斗は笑って頷き、私は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
白く柔らかな曲線が、風を受けてやさしく揺れる。濡れて、肌に張りつく。雨粒がレースに溜まって、きらきらして見える。
悠斗はレンズをこちらに向けた。
結菜は私の隣で、いつもより静かだった。
「結菜、今日は笑わないの?」
悠斗が言う。
結菜は肩をすくめ、私を見た。
「今日は……紗季ちゃんの番にする」
「え?」
私の声が裏返る。
結菜は小さく笑って、雨に濡れた編み込みを指で押さえた。
「私、ね。紗季ちゃんのこと、ほんとに好き。だから、壊したくない。……だから今日は、譲る」
「譲るって……」
「譲るじゃなくて、選ぶ。私が選ぶの」
結菜の目は、泣きそうで、でも強かった。
悠斗は状況が分からないまま、スマートフォンを下ろしかける。
「……なんか、空気変じゃない?」
私は息を吸った。雨が冷たい。胸の奥が熱い。
「悠斗」
名前を呼ぶと、悠斗が真剣な顔になる。
結菜が、私の背中を小さく押した。いつもは妹みたいに甘えてくるのに、そのときだけは姉みたいに、私を前へ送り出した。
「悠斗」
もう一度、彼の名前を呼ぶ。
悠斗の目が、私をまっすぐ捉える。
雨音が、少し遠くなる。
⸻
「……私、悠斗のことが好き」
言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった大切なものを手放してしまった気がした。けれど同時に、長いあいだ溜め込んでいたものがほどけて、どこかほっとしている自分がいた。
「小さい頃からずっと。たぶん、ずっと前から。……結菜も、同じだって分かってた。だから言えなかった」
悠斗は言葉を失ったまま、雨の中で立ち尽くす。スマートフォンは手の中に残されたままで、レンズに雨粒が当たる。
「でも——」
私は続けた。声が震える。だけど止めない。
「好きって気持ちだけは、なかったことにできない」
結菜は少し離れた場所で、黙って聞いていた。雨の中、身を守るかのように両腕で小さな体を抱き寄せ、今にも泣き出しそうに震えている。
悠斗はゆっくりと息を吐き、私を見た。
「紗季」
その呼び方だけで、心臓が跳ねる。
「俺、……二人のこと、同じくらい大切だと思ってた」
結菜が小さく息をのみ、私はその言葉に、苦く笑うことしかできなかった。それは“幼馴染”の答えだ。正しいけど、残酷なやつ。
「でも」
悠斗が続けた。
その“でも”に、私は全身で縋りついた。
「さっき、ようやく分かった。
三人の時間を写しているつもりでいても、
俺の視線は、いつも紗季に向いてた」
雨粒が、頬を伝う。
嬉しさでこぼれた涙を、混ぜてごまかすみたいに、私は笑った。
「それ、告白っぽいね」
悠斗は困ったように眉を寄せ、それから少し照れた様子で答えた。
「……告白だよ。たぶん」
結菜が、一歩前に出た。小さな足が水たまりを踏む音がする。
「悠斗」
悠斗が結菜を見る。
結菜は笑った。泣きそうなのに、ちゃんと笑った。
「私、悔しい。めちゃくちゃ悔しい。でも——紗季ちゃんの言葉、眩しいくらいにまっすぐだった」
「結菜……」
「だから、負けるのも、まあ……許す」
結菜は肩をすくめた。いつもの軽さを装う。でもその目の奥には、ちゃんと傷があった。ちゃんと強さもあった。
悠斗が言った。
「結菜、ごめん」
結菜は首を振った。
「謝らないで。謝られたら、私が可哀想になる。……これ、私が選んだんだもん」
その言葉に、私は涙が出そうになって、ぐっと堪えた。
「紗季ちゃん、悠斗」
結菜が言う。
「約束して。絶対に幸せになるって。私、悔しいけど、二人が不幸になるのはもっと嫌」
私は結菜の手を取った。小さくて冷たい手。去年のクリスマスと同じ。
「結菜だって、ちゃんと幸せになるんだから」
結菜は鼻をすすって、笑った。
「当然でしょ。私、可愛いし」
悠斗が吹き出す。私も笑う。
雨の中で、笑う。
それは、去年の写真の“続き”としては、悪くない結末だと思った。
⸻
後日、悠斗が現像してくれた写真を見た。
雨粒を気にせずはしゃぎ回る私たち。
プールサイドでアイスを食べる三人。
ツリーの前の笑顔。
初詣の境内の灯り。
そこには確かに、“三人の時間”が写っていた。
結菜が言った。
「紗季ちゃん、さ。悠斗の隣にいると、少しだけ表情が柔らかくなるね」
「そうかな」
「うん。ずるい」
「結菜も、ずるいよ」
「え?」
「結菜が強いから、私は言えた」
結菜は一瞬黙って、それから、ふっと笑った。
「じゃあさ。次の夏も、三人で撮ろ」
「……うん」
悠斗が、何も言わずに頷いた。その頷きが、未来の形を少しだけ保証してくれる気がした。
恋は、勝ち負けだけのものじゃない。
けれど、勝ち負けがあるからこそ、ちゃんと大事にしようと思える。
雨はいつか止む。
でも、写真の中では止まない。
あの日の雨粒は、今もレンズの前で光っている。
そして私は——ようやく言えた“好き”を胸に抱きながら、
少しずつ、ほんの少しずつ、前へ。
一歩、踏み出せた気がした。
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