地味で料理下手な嫁(嘘)が、おふくろの味を信奉する義家族を「究極の肉じゃが」で黙らせた話

@jnkjnk

第1話:屈辱の挑戦状

「ねえ美咲、今日の夕飯、母さんがすき焼きだって。楽しみだな」


助手席でスマホをいじりながら、夫の悠斗が弾んだ声で言った。週末の恒例行事となりつつある、義実家での夕食会。都心から一時間ほどの距離にある夫の実家へ向かう車内で、私の心はハンドルと同じくらい重かった。フロントガラスの向こうには灰色の高速道路がどこまでも続いている。


「そうね、楽しみね」


口ではそう返しながらも、胃のあたりが小さく軋むのを感じる。楽しみなわけがない。私にとって義実家での食事会は、二時間一本勝負の我慢大会のようなものだ。結婚して二年。物静かで自己主張が苦手な私は、いつの間にか夫の母である佳代子さんと、姉の沙織さんにとって、格好の的になっていた。


「美咲は本当に料理が苦手だから、悠斗がかわいそう」

「今どきの子はみんなそうなのよ。外で買ってきた方が美味しいものねぇ」


そんな言葉のナイフが、会うたびに私の心をチクチクと刺す。私が何か料理を手伝おうとすれば、大げさに眉をひそめられ、結局はキッチンから追いやられる。そして、私が唯一食卓に出すことを許された、申し訳程度の副菜を前に、品評会が始まるのだ。


きっかけは、結婚してすぐの頃に遡る。新婚生活に胸を躍らせていた私は、悠斗のためにと毎日腕によりをかけて食事を作っていた。彼が「美味しい」と喜んでくれるのが嬉しくて、仕事で疲れていてもキッチンに立つのは苦ではなかった。ある日、初めて義両親を新居に招いた時、私は張り切って何品も手料理を振る舞った。その中に、祖母から受け継いだレシピで作った筑前煮があった。


「あら、美咲さん。この煮物、ずいぶん薄味なのね。うちの悠斗はもっと、こう、ガツンと甘辛い味が好きなのよ」


佳代子さんはそう言って、私の筑前煮にはほとんど手をつけず、代わりに持ってきてくれた「おふくろの味」だというきんぴらごぼうを悠斗の皿に取り分けた。悠斗は「やっぱり母さんの味は落ち着くなあ」と無邪気に笑う。その日からだった。私に「料理が下手な嫁」というレッテルが、くっきりと貼り付けられたのは。


本当は、料理が好きだ。祖母に手ずから教わった丁寧な和食の基本と、仕事で培ったマーケティング思考を応用したロジカルなレシピ開発が、私の密かな趣味であり、得意なことだった。でも、家庭の平和を乱したくなかった。愛する悠斗を、母と妻との板挟みで困らせたくなかった。だから私は、得意な料理の腕をそっと隠し、「料理が苦手な、地味で物静かな嫁」を演じ続けることにしたのだ。


義実家の玄関を開けると、甘辛い醤油の香りがふわりと鼻をくすぐった。すき焼きではなく、肉じゃがの匂いだ。


「あら、いらっしゃい。悠斗、美咲さん」


エプロン姿の佳代子さんが、勝ち誇ったような笑顔で出迎える。リビングのソファでは、義姉の沙織さんがスマホを片手にごろりと寝転がっていたが、私たちが顔を出すと億劫そうに身体を起こした。


「お邪魔します。お義母さん、これ、皆さんで召し上がってください」

「まあ、いつもすまないわねぇ」


デパ地下で買ってきた有名店のフルーツゼリーの紙袋を受け取りながら、佳代子さんの視線は私の顔を値踏みするように一瞥し、すぐに息子の悠斗へと移る。


「悠斗、お腹すいたでしょう。今日はあなたの好きな肉じゃが、たくさん作ったからね」

「本当!? やった! やっぱり母さんの肉じゃがが世界一だよ」


母親に甘えるように笑う悠斗。三十歳になる夫のその姿を見るたびに、私の心には小さなさざ波が立つ。微笑ましい親子の光景。そう思うように努めてはいるけれど、その輪の中に、私の居場所はどこにもないように感じられた。


「美咲さん、突っ立ってないで手伝ったらどうなの? いつもお客様気分なんだから」


沙織さんが、リビングから聞こえよがしに言う。


「さ、沙織さん! 美咲は客なんだからいいのよ」


悠斗が慌てて私を庇うが、その言葉こそが、私がこの家の「内側」の人間ではないことを証明しているようで、かえって胸が痛んだ。


「いえ、何か手伝わせてください」


私は無理に笑顔を作って、佳代子さんの後を追ってキッチンへ向かった。広々としたシステムキッチンは綺麗に磨き上げられているが、調理台の上にはすでに完成した料理がずらりと並んでいる。ポテトサラダ、ほうれん草の胡麻和え、そして大鍋にたっぷりと作られた肉じゃが。私の出る幕など、最初からどこにもないのだ。


「じゃあ、美咲さんには……そうね、このきゅうりを切ってもらえるかしら。塩もみにしてちょうだい」


まな板の隅に追いやられた一本のきゅうり。それが、今日の私に与えられた役割だった。まな板と包丁を受け取り、慣れた手つきで小口切りにしていく。トントントン、と小気味のいい音が響くと、隣で盛り付けをしていた佳代子さんが、ちらりとこちらに視線を寄越した。


「あら、意外と手際はいいのね。でも、味が伴わないと意味がないものねぇ」


まただ。私はぐっと奥歯を噛みしめ、湧き上がる感情を飲み込んだ。大丈夫。いつものこと。あと二時間耐えれば、この息苦しい空間から解放される。


食卓には、佳代子さんの手料理がこれみよがしに並べられた。その中央に鎮座するのは、主役である肉じゃがだ。醤油と砂糖で濃い茶色に染まったじゃがいもと人参、そしてたっぷりの豚バラ肉。見るからに「おふくろの味」を体現したような、こってりとした一皿だった。私の作ったきゅうりの塩もみは、テーブルの隅にひっそりと置かれている。


「さあ、みんなたくさん食べて。悠斗、あなたのために作ったんだから」

「ありがとう、母さん。いただきます!」


悠斗が真っ先に肉じゃがを口に運び、途端に恍惚とした表情を浮かべた。


「んー、うまい! やっぱりこれだよ、この味! 甘くてしょっぱくて、ご飯が何杯でもいける!」

「そうでしょう? 悠斗の好物は、お母さんが一番よく分かってるんだから」


佳代子さんは満足そうに目を細め、沙織さんも「本当、お母さんの肉じゃがは絶品よね。そこらのお店のよりずっと美味しい」と追従する。橘家の食卓は、佳代子さんの料理を賛美する声で満たされていた。


私は黙って、自分の小皿に盛られた肉じゃがを見つめた。確かに、一般的に美味しいと言われる味付けだ。けれど、砂糖とみりんの強い甘さと濃口醤油の塩辛さが、素材本来の味をすべて覆い隠してしまっている。じゃがいもは煮崩れしかけ、人参の香りも牛肉の旨味も、すべてが「甘辛いタレ」という一つの味に支配されていた。これが、悠斗が本当に一番好きな味なのだろうか。私の作る、出汁を丁寧にひき、素材の味を活かした薄味の煮物では、彼の心は満たされないのだろうか。


「あら、美咲さん、どうしたの? 口に合わない?」


私の箸が進んでいないことに気づいた佳代子さんが、探るような視線を向けてくる。


「いえ、そんなことないです。美味しいです」


慌てて肉じゃがを口に運ぶと、舌の上に暴力的なまでの甘さが広がった。


「あら、そう? でも美咲さんが作るのとは全然違うでしょう。料理はね、愛情なのよ。悠斗を想う愛情が、この味を作るの」


まるで私には息子への愛情が足りない、とでも言いたげな口ぶりだった。


「そういえば美咲さん、このきゅうり、ちょっと塩辛くないかしら?」


今度は沙織さんが、箸で塩もみを突きながら言った。


「味がぼやけてるか、しょっぱすぎるかのどっちかなのよね、美咲さんの料理って。極端なんだから」

「ごめんなさい。少し塩が多かったかもしれません」


私が頭を下げると、悠斗が「そんなことないよ。美味しいよ、美咲」とフォローを入れてくれる。だが、その声には先ほどの肉じゃがを食べた時のような熱量はなく、明らかに社交辞令であることが透けて見えた。彼の優しさが、今はむしろ私を惨めにさせた。


「しょうがないわよ、沙織。美咲さんはお勤めしてて忙しいんだから。私たちみたいに、料理にばかり時間をかけていられないのよ」


佳代子さんの言葉は一見、私を庇っているように聞こえる。だが、その実、「仕事にかまけて家庭を疎かにする嫁」という烙印を押しているのと同じことだ。じわり、じわりと真綿で首を絞められるような息苦しさに、私は目の前が暗くなるのを感じた。


もう、やめて。

心の叫びは声にならず、唇の隙間から漏れたのはか細い息だけだった。

俯いた私の視界の端で、佳代子さんと沙織さんが目配せをして、にやりと笑ったのが見えた。ああ、この人たちは楽しんでいるのだ。私を追い詰め、支配することに、快感を覚えている。その事実に気づいた瞬間、長年心の奥底に押し込めてきた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


「ねえ、悠斗」


佳代子さんの声が、妙に大きく響いた。


「あなたはやっぱり、お母さんの料理が一番よね?」

「うん、それはもちろんそうだよ」


悠斗は悪気なく、即答した。その答えに満足した佳代子さんは、決定的な一撃を放つために、私へと向き直った。


「美咲さん。そんなに悠斗のことが心配なら、私が料理を教えてあげましょうか?橘家の味を、一から」


それは、親切な提案の仮面を被った、最大限の侮辱だった。私が断れば「せっかくの親切を無にする可愛げのない嫁」、受ければ「料理下手を認めた惨めな嫁」というわけだ。どちらに転んでも、私のプライドは傷つけられる。


「……ありがとうございます。でも、自分で少しずつ勉強しますので、お気持ちだけで」


精一杯の虚勢を張って、そう答えるのがやっとだった。


「あら、残念。まあ、変なプライドが邪魔するのかもしれないわね」


沙織さんがケラケラと笑う。もう、限界だった。早くこの場から立ち去りたい。その一心で食器を片付けようと腰を浮かせかけた、その時だった。


「じゃあ、こうしましょうよ」


佳代子さんが、ポンと手を叩いた。その目は、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いている。


「次の家族の集まりで、私と料理対決しない?」


シン、と食卓が静まり返った。悠斗も沙織さんも、さすがに予想外の提案だったのか、目を丸くして母の顔を見ている。


「りょ、料理対決って……母さん、何を……」


戸惑う悠斗を制するように、佳代子さんは続けた。


「いいじゃない。テーマは、悠斗が一番好きなこの『肉じゃが』で。お互いに作って、どっちの肉じゃがが悠斗を本当に幸せにするのか、みんなの前ではっきりさせましょうよ。そうすれば、美咲さんも自分の料理の何が足りないのか、よく分かるでしょう?」


それは、もはや「いびり」の範疇を超えた、公開処刑の宣告だった。私を打ち負かし、橘家における序列を、嫁としての価値を、決定的に知らしめようというのだ。沙織さんは面白そうに目を輝かせ、悠斗は「そんな、大げさだよ」と困惑しながらも、本気で母を止めようとはしない。誰も、私の味方はいない。四方八方を敵に囲まれた、完全なアウェー。


視線が、痛い。佳代子さんの侮蔑を含んだ挑戦的な眼差し。沙織さんの好奇心に満ちた意地の悪い眼差し。そして、悠斗の「どうしてこうなっちゃうんだろう」という困惑した眼差し。


逃げられない。ここで断れば、私は「戦わずして負けを認めた臆病者」として、未来永劫この人たちに笑われ続けることになるだろう。今まで、ずっと耐えてきた。悠斗を愛しているから。家庭の平和が大事だから。でも、もう無理だ。私の尊厳は、もうこれ以上、一ミリだって削らせない。


二年間、私の心に降り積もってきた雪が、怒りの炎で一瞬にして溶けていく。冷たく澄み渡った静かな覚悟が、腹の底から湧き上がってきた。


「……わかりました」


私が発した声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「その挑戦、お受けします」


私の返事に、今度は佳代子さんの方が一瞬、虚を突かれた顔をした。まさか、この地味で反抗することを知らない嫁が、正面から挑戦を受けて立つとは思ってもみなかったのだろう。だが、彼女はすぐに勝ち誇った笑みを取り戻した。


「あら、やっとやる気になったのね。いい心がけだわ。楽しみにしてるわね、美咲さんの『肉じゃが』とやらを」


その日の帰り道、車内の空気は重く沈んでいた。気まずい沈黙を破ったのは、悠斗だった。


「ごめん、美咲。母さんたち、ちょっと言い過ぎだよな……」

「……」

「でも、まあ、なんだ。ある意味、良かったんじゃないかな」


私は耳を疑った。良かった? 今の状況のどこに、良いことなどあるというのだろう。


「これで、母さんにちゃんと料理を教わる良い機会ができたじゃないか。俺も母さんの肉じゃがのレシピ、知りたかったんだ。楽しみだよ」


その、あまりにも無神経な一言が、私の心に最後の杭を打ち込んだ。ああ、この人は、何も分かっていない。私がどれだけ傷つき、屈辱的な思いをしているのか。母と姉がしていることが、どれだけ悪意に満ちた「いじめ」であるのか。彼は、私の心の痛みなど、何一つ理解していないのだ。


失望が、怒りを通り越して、冷え冷えとした感情へと変わっていく。


「ええ、そうね」


私は、フロントガラスの向こうの暗闇を見つめたまま、静かに微笑んだ。


「本当に、楽しみだわ」


その微笑みに込められた本当の意味を、隣でハンドルを握る夫はまだ知らない。私の静かなる反撃の火蓋は、今、切って落とされたのだ。

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