08 いま優先すべきは

 右手親指と右手首の腱鞘炎が併発していた。引き籠もりのなまった身体を、いきなり重労働の現場に投入したのだから無理もないのだろう。しかし、例え満身創痍であっても、そんなものは、小説執筆を妨げるほどの障害にはならない。


 燦々と輝く太陽の光を全身に受け、青く突き抜けた大空へと舞い上がる。前回の夜間飛行が私の創作意欲を解き放ったのなら、今回はその意欲をさらに大爆発させる。もう誰にも止められない。どんなリスクが待ち構えようとも、やるしかないのだ。


 無謀を超えた、自滅に等しい大計画。次なるステップは、日中飛行である。


 これは、私にとっても危険すぎる挑戦だ。目撃される可能性は、というより、必然にして必至の九分九厘。浮かんだ姿を見てください、と世に躍り出るようなものだ。


 策を練る。思案を巡らせる。コウキも悩みに悩んだに違いない。


 このまま引き籠もり、誰とも会話せずに一生を過ごすのか。もしくは、姿を晒してでも、外界への一歩を踏む出すのか。


 命を大切に。昔のロールプレイングゲームにあった選択肢のコマンドだ。いまは頻繁にニュース記事の末尾にも記載されている。


 動かす指から手首へと、右手のすべてが鈍痛から激痛へと沈む。医師の見解はこうだった。まず右手親指の腫れが酷いです。ステロイド剤の注射をして、腫れが引かないようでしたら、鞘の切開手術を行いましょう。いずれにしても、手を動かさない安静が絶対的に必要です、とも言っていた。


 ため息が出る。手が痛いからといって、仕事を休むのは、まあいいだろう。だが、小説執筆の中断は絶対にダメだ。


 なんの因果か、実生活と創作世界の進退問題が同調しつつある。


 アパートに帰ると、私は机に向かった。ノートパソコンを起動し、ワープロ画面に文字を打ち込む。


 苦肉の策であっても、やるしかない。進むしかない。ひとけの少ない田舎方面へ出向き、誰もいない田園地帯で離陸をする、田園地帯離陸計画の決行だ。


 宙に浮き上がってしまう身体を制御し、道中にある店舗の個室トイレを客を装って使用する。そこで休憩を繰り返し、歩行を繋いでいく。ホームセンター、パチンコ屋、ドラッグストアを経由し、コウキは一時間近く歩いていた。


 見えた。やっと望むべき地点に到達した。目撃者が存在しないであろう、田園地帯に。


 そこからの描写は必死だった。いつ止まるかわからない指を懸命に走らせる。コウキだって、目撃を避けるための決死の上昇だったに違いない。


 霧が晴れ、一気に視界が開けた。上層雲のない、完全なる紺碧の世界が爆発的に広がる。


 眩しかった。近くに感じるはずもなかった、すべての光源である太陽という天体が、いまだかつてないほどに接近していた。


 コウキは奇声とも思える歓喜の声をあげた。私も声を押し殺し、天井の遥か頭上の上空を仰ぎ、両手を広げた。


 コウキはそこで、最大の目的である空での弁当、空弁の試食を開始する。垂涎の念で割り箸を割る。だが、しかし、そこに一陣の風が吹いて……。


 ふと、右手の甲に違和感を感じ、私は現実に戻った。画面から視線を移し、それを一瞥する。なにかが滴下していた。思わずぎょっとして、目を剥き、凝視をする。赤い液体の玉がポタポタと落ち始めていた。


 鼻の穴をすぐさま指で塞ぎ、慌てて卓上のティッシュ箱に手を伸ばす。


 やばい。興奮しすぎて、鼻血が出た。

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