ふたりふわり

@futarifuwari

第1話

この家は朝になると

味噌汁と洗剤の匂いが混ざる。

昼は静かで、夜になると床が少し冷える。

私はだいたい台所と居間のあいだ、

人の声が落ちてくる場所にいる。


拾われた日のことはあまり覚えていない。

覚えているのは冷たかったことと、

小さな手が震えていたことだけ。

その手は、いまもこの家のいちばん静かな人のものだ。


彼女は、よく私と同じ高さにいた。

私の背中に顔をうずめて、

何も言わない時間をつくる。


言葉がないほうが、

この家では安全なことを

私は知っている。


父は毎朝決まった時間に

玄関で靴を履いた。

そして頭を一度だけ撫でる。

力加減はいつも同じで、

私はそれが好きだった。


夜には外の匂いを運んでくる人だった。

風と、鉄の匂い。


ある夜からその匂いが途切れた。


それから、

母の足音が変わった。

速くなったり、止まったり、

家の中を迷っているようだった。



弟は父に似ている。

声や笑うときの目の形。

私を撫でる力加減。


母はそれをじっと見ていた。


そのとき、私は廊下の影からそれを見ていた。

人たちの空気の重さ。

物が落ちる前の鳴き声。


彼女はいつもより強く私を撫でた。


弟は声を出さなくなった。

肩をすくめるように

私の横に座る時間が長くなった。


そのときの匂いは

少し酸っぱかった。


父がいた頃の母は、

夕方になると洗濯物を取り込み、

鼻歌を歌っていた。

今は、同じ場所で長く立ち止まる。




あの日


居間、台所、押し入れの前。

弟がよく隠れた場所を

彼女は順番に見た。


母は台所の椅子に座っていた。

動かなかった。

匂いが、人の形をしていなかった。


彼女は私の首に

顔をうずめた。


これから冬が来る。

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