第2話
アンナ・ギボンズは二十八歳。二十歳前後が結婚適齢期とされるこの国の基準では、完全なる行き遅れだ。子爵家の生まれで当初は「結婚どうする?」と余裕だった親も、やがて「結婚だけはしておきなさい」と慌てだし、やがて「どうしても結婚はしないの?」と様子をうかがわれる年齢をも通り過ぎた。
いまや侍女として勤務しているモリス公爵家ではもっぱら「えっ、既婚者でしたよね?」という誤解が浸透している。
誤解の発端は、さかのぼること八年前。
モリス夫人の子たちがアンナによく懐いたことだった。「ニコルお嬢様は火がついたように泣いていても、アンナが抱き上げるとすぐに泣き止む」と、夫人の侍女であったアンナがにわかに乳児のお世話係として注目を集める一件があったのだ。
ニコルお嬢様はモリス夫人の最初の子で、公爵家の長女。本来であれば経験豊富な乳母やメイドの出番であったが、時勢が悪く流行り病で体調不良者が続出していた年であった。普段なら使用人を多数抱えていてどんな不便もない公爵家も、このときばかりはどうにもならず、余力のある者同士でできる仕事をできるだけこなすという危機的状況にあった。その中にあって「子育て」は、後回しも省略もできるものではなく、誰かが絶対にしなければならないことだった。
乳母も倒れ、貴族の奥様としては例外的にモリス夫人自らニコルお嬢様に授乳した。アンナは授乳以外の大体すべてのことをした。乳児育児のエキスパートとなった。
乳母だ、という誤解が生まれ育まれ確固たるものとなった。
モリス夫人はさらに三人の子を生み、アンナは公爵家きっての子育て要員として奮闘した。乳母の中の乳母と呼ばれ、誰もがその仕事ぶりから乳母であることを信じて疑わなくなった。
本来なら年齢的にも子爵家出身の家柄からしても、公爵夫人の社交に付き添う若くておしゃれな侍女として活躍する時期に、アンナは「お子様に大人気」「アンナさんがいれば大丈夫」「公爵邸の子ども部屋はアンナさんで成り立っている」という絶大な信頼のもと、公爵邸からわずかの外出も難しい生活を送ることとなったのである。
アンナが「花の盛り」を仕事に明け暮れて過ごしたことに、モリス公爵夫妻は絶大な申し訳なさと恩義を感じているようだった。
公爵は「アンナがあれにすると誰か指をさしてくれれば、すぐに夫として手配する」などと言い出した。まるで競走馬の競りのような話であった。金銭と権力ですべてを解決する。
夫人はといえば毎回トランプができるくらいの絵姿と身上書を揃えてきては裏返して並べて「どれにする? 全部当たりよ?」とアンナに選ばせようとしてきた。他人の人生をギャンブルにしすぎである。
「子育てが楽しすぎて。どうしても結婚は必要なのでしょうか?」
アンナは常日頃、洗いやすさと頑丈さと動きやすさを優先した地味なドレスを身に着けており、髪型も子どもに引っ張られたりスープの皿に毛が落ちるなどないような目の固い編み込みで、物事をしっかりはっきり見るために度の合ったメガネをしていた。
いつも子どもを一人ないし二人小脇に抱え、歌を歌い、物語を語って聞かせながら「坊ちゃま! 急に走り出さない!」「お嬢様はカーテンにのぼらない!」と声の限りに叫んでいる。他の侍女やメイドが誰一人として追随できない八面六臂の活躍であり、自分の適性と能力の高さに自信を持って仕事人として生きてきたつもりだった。
公爵夫妻になんと言われても、自分はこの仕事を続けたいという強い願いを抱いていた。
そのアンナに、夫人は冷静に言い放ったのである。
「子どもたちはいずれ大人になり、あなたの手を必要としなくなるわよ?」
「奥様があと何人か産んでくだされば解決では?」
「名案みたいに言わないで。あなたが私の元で勤め始めた頃、本当なら毎晩夜会に連れて行ってあげるつもりだったのに、あの流行病で何もできないままの数年を過ごすことになったわ。その間あなたは、自分の幸せもかえりみず子どもの世話ばかりで」
「授乳以外のことはなんでもしてきましたから、いまでは立派な産婆としても独り立ちできそうです。三番目のトーマス様と四番目のステファニー様を取り上げたのはこの私ですからね!」
胸を張って言うアンナに対し、夫人は遠い目をした。
「あのときは、助かったなんてものじゃなかったわ。初産はともかく二人目以降は陣痛が来たらすぐって本当なのよね。ステファニーなんて、陣痛に気づいてベッドに向かって歩いている途中にすぽんって出てきて、床に落とすところだったもの」
「間一髪でしたよねえ。トーマス様を取り上げたときの経験が生きました。ここまできたら五人目も私が」
アンナ、と名を呼んで夫人は真顔になった。
「そんなに子どもが好きなら自分でも産んでみたらどうかしら」
「未婚の女に言ってはいけない言葉ランキング上位すぎますよ」
二人で少しの間見つめ合う。やがて、夫人がため息をついた。折れたわけではない。
説教の前触れだ。アンナと年齢はさほど変わらないのだが、そこは公爵夫人の貫禄である。
「あなたは隣国に留学していて二十歳で帰国、その段階ですでに社交界デビューには出遅れていたけれど、私の侍女として働く傍ら文句のつけようがないデビューをする予定だった。あの流行病で社交場が閉鎖され国内外の景気が一気に停滞し、何もかもままならなくなった数年がなければ」
「あの当時は確かに大変でしたが、私だけではなく皆が大変でした。デビューが数年遅れ、婚活も遅れたご令嬢も多かったことでしょう。結婚平均年齢という統計があるなら、今は少し上がっているのではないでしょうか?」
留学先ではのびのびと勉強に励んでいたアンナは、ときどき俯瞰で物事をとらえたような話し方をする。
ここで夫人はぴんときたように顔を上げ、真剣なまなざしでアンナを見た。
「お付き合いのある奥様たちから、そういった話を聞いたことはあるわ。あの時期デビューがままならなず、世が世なら社交界の華となれたはずのご令嬢たちが『行き遅れ』として扱われた。親に用意されたつまらない結婚に身を投じた方も多いのですって」
「強気に選ぶ側に回れたはずの美姫たちが、余り物のように片付けられたと? もしかしたら、家側の事情もあったかもしれませんね。流行り病で、どこの家も大きく傾くほどの打撃を受けたはず。さらに、領地で扱う特産品でずいぶん明暗を分けたかと思います。たくさんの薬師を擁し、薬草を扱うミッドフォード侯爵領などがその代表例で、流行り病への画期的な薬を開発したとして伯爵からの陞爵がありましたよね。逆に、風光明媚な保養地として名高かったオースチン子爵領は集客がまったくできずにいくつもの事業が撤退し」
すらすらと何も見ることなく貴族たちの事業や趨勢について当たり前のように話し始めたアンナを見て、夫人はため息をついた。
「あなたは乳母として大変優秀であるけれど、きっと違う仕事をしても輝けると思うの。もう十分に、うちの子たちのおしめを洗ってもらったわ。留学までした才を生かしてみない?」
「……興味はありますけど……それならぜひここモリス公爵邸で配置換えを」
アンナの申し出に対して夫人は「十年後ならともかく、今は子どもたちがあなたを見つけるとついて回るから仕事にならないわよ」と首を振った。
「転職がてら、同時に結婚して妊娠出産もしておくと、仕事しながらあなたの大好きな子育ても継続できて一挙両得だと思うの」
「一挙両得ってその使い方で合ってます? 私にとってはお得でも、さすがに夫となる男性に失礼ではないですか?」
「どこが?」
「目的が仕事と子どもだなんて。そんな打算的な妻を迎えたら大変ですよ。私絶対に、初夜に宣言してしまいますもの。『私を愛する必要はありません。私の目的はこの家の仕事と子どもだけです』って。これでは完全に、家を乗っ取りにきただけの
あらぁ、と言って夫人はやわらかく微笑んだ。
「働き者で子沢山な嫁なんて、どこの家でも最高のお嫁様ではなくて? 私を見ればわかるでしょう?」
モリス公爵夫人は、世情が不安定な混乱期に自ら授乳して子育てをした。しかも、続けて総勢四人も産んだのだ。一人目で慣れていると言って、二人目以降も自分で授乳し、結果的に子ども部屋にいる時間が長かったことから、自ら子どもたちに教育を施していた。働き者で子沢山の自称に偽りなしである。
ここで初めてアンナは狼狽し、視線を泳がせた。
「私は、決してたくさん産みたいわけでは……」
産むにあたり、公爵夫妻が仲睦まじく過ごしていたのは知っているのである。「あのような相思相愛を自分が」と考え始めると急に落ち着かなくなってきたのだ。たくさん産みたいわけではなくとも、さしあたり産みたいと考えているならまずは初夜を乗り越えなければならない。
(初夜を? 乗り越える? 私が? 「愛していただく必要はございません」と初夜で口走るであろう女なのに?)
すでに千の夜も乗り越えた夫人が「ほほほほほほほ」と笑い出した。
「往生際の悪い真似はよしなさい。あまり出歩く機会もなく興味もなくて気にしていなかったかもしれないけれど、あなたの言う通りこの国の結婚平均年齢というものはここ数年で上がっているはずよ。かつてなら行き遅れと言われたご令嬢方が遅れてデビューしている例もたくさんあるの。あなたも今からだって全然平気よ」
「私はこの八年仕事しかしていませんでして……子育て仕事に特化した服装と髪型をしているために『クソダサイ』と若いメイドたちに言われているのも気づいています」
「今すぐクビにするわ。名前は教えてくれなくて結構よ。私の権限で調べ上げるから」
「一回目は指導くらいでお願いします。ひとを育てるとは信じることで、誰だって変われる、大人になっても成長できるものだと真心を持って接する必要があると思います」
「さすが当家の子どもたちを育てているだけあるわ。本当はね、私だってあなたを手放したくないの」
でしたら、とアンナは前のめりになりかけたが、夫人はここで話は終えるとばかりにさっと席を立ってしまった。
アンナを見下ろして、笑いながら言う。
「優秀であると知っているからこそ、私の元にずっと留め置いて年を取っていくだけのあなたを見ていたくないのよ。子どもを産みたい気持ちがあるなら、産んでよ。私の子どもたちの同世代にあなたの子がいる未来はとても素敵。そうやって私たちは未来を作っていくのよ。今ならまだ間に合うわ」
年齢が行き過ぎると、結婚するのも子どもを産むのも難しいと夫人は言いたいのだろう。「私は行き遅れですから」と言っているくらいなら、まず行動しろと。
それはアンナにもよくわかった。
(奥様の描く未来は私にとってもきっと素敵……)
子どもたち同士で交流を……と未来を思い描いたところで、アンナは気を引き締めた。「たとえ公爵夫妻は気にしなくても」公爵家と交流を持つのであれば結婚相手は誰でもいいとは言えないのだ。
人品卑しからぬ人物にして、公爵家と付き合っていける身分や財力がなければならない。
考えるまでもなく、そんな人物が売れ残っているわけがない。もしいたとしても、アンナを妻に迎えたいとは絶対に考えないはずだ。クソダサイ行き遅れなのだから。
もちろん「夜会に行きます」と公爵夫妻に申し出れば、金に糸目をつけずに用立ててくれるのは目に見えている。しかし、アンナはその「魔法」を望まない。
いまのややくたびれたアンナの姿が、八年の現実なのだ。この姿を隠して見初めてもらっても、優良誤認を企てたとして後に揉め事の原因となることだろう。
クソダサイ疲れた行き遅れで、社交界における自慢やお飾りすら務まらない女。
それでも良いと言う相手と、交際期間はごく短めで結婚を決めてしまいたい。なぜ短期決戦を希望しているかといえば、さらなる加齢を気にしてのことではない。単純に、アンナは公爵夫妻の夫婦生活を間近に見ていたので、結婚に関してのイメージはあるがそれ以外のことは何もわからないからだ。デートなどしたこともない。できればその過程はスキップしてしまいたいのである。まずは結婚。仕事。出産。
「……絶対、相手は見つからないわね……」
そんな都合の良い男などいるものか。
早々とその結論に達したアンナは、次に大変後ろ向きながら「できるだけ後腐れ無く振ってくれそうな相手」を探すことに専念した。
婚活はした――それも破れかぶれで「誰でも良い」ではなく「誰もが憧れて好きになってしまう」相手に自分も恋をした。しかし、実らなかった……。さすがの公爵夫人でも「嘘でしょ」とも言い切れずに「それは大変だったわね」と認めざるを得ない相手に「一発プロポーズをかましてこよう」と思い立ったのである。
そうして目星をつけたのが、ウォーレン・ミッドフォード侯爵であった。
* * *
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます