欲望の徒花 〜嘘をつき続けた末に世界をも騙し、英雄になってしまった件〜
キロ
第1話 はじまりはじまり
今日の母さんは、いつもより機嫌が良さそうだった。
朝、俺が「おはよう」と言ったとき、スマホから顔を上げて「おはよう」と返してくれた。普段なら「はいはい」で終わるのに。
アパートの共用廊下を歩いて、うちのドアの前に立つ。201号室。鍵穴に鍵を差し込んだ瞬間、鼻にひっかかる匂いがした。湿った土と、洗ってない水槽の水を混ぜたみたいな匂い。外は晴れてて、雨は降ってない。ドアの上の玄関灯は黄色い光を放っている。表札も、ドア横の傘立ても、いつも通りだ。
でも、匂いだけが違う。
《なあ昴。この匂い、なんだろうな?》
肩の上でポン吉が鼻をひくつかせている。少し小ぶりの狸で、首に巻いた赤いスカーフが小さく揺れた。
(……うん。なんか、嫌な感じ)
《クッセェからな。鼻つまんで入ろうぜ。んで掃除しようぜ。多分母ちゃん生ゴミ掃除忘れて疲れて寝てんだよ》
(そうかもね。たまには手伝いもしなきゃね)
言葉とは裏腹に心臓が早鐘を打っている。何か良くない事が起こっているのではないか、漠然とした不安が湧いてくる。
鍵を回して、ドアノブを押す。重い。いつもより重い。
「……ただいま」
声が少しかすれた。咳払いして、もう一度。
「ただいま!」
今度は完璧。いつもの俺の声だ。母さんが心配しないように。
返事はない。いつもならあるはずの返事が。玄関にある鏡に映った自分の顔は、思ったより青ざめてた。
靴を脱いで、右足を廊下の床に置いた瞬間、冷たさが足裏に貼り付いた。フローリングが濡れてる。薄い水の膜がぺたっとまとわりつく。左足を置く。ぴちゃ、と小さな音がする。
「あー、水道管でも壊れたかな。まったく、この家も古いからなぁ」
わざと大きな声で独り言を言う。誰かに聞かせる訳でもないのに。
(なんかめっちゃ嫌な予感するんだけど)
《そりゃそうだ。水浸しなのに母ちゃんから連絡来てない時点で、何かおかしい》
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の奥——リビングがある方角から、ぽた、ぽた、と水滴の落ちる音がする。
そして、耳の内側で鳴っているみたいな、不快な泣き声が、リビングの奥キッチンあたりから聞こえてくる。
(どう言うこと? 母さん……泣いてる?)
自分を落ち着かせるために深呼吸。息を吐く途中で、背中に汗がにじむのがわかった。
(俺、思ってる以上にびびってるかも)
《オレの毛触ってみろよ。めっちゃ逆立ってる》
(ビビりなのはポン吉も一緒か。良かった。良かった?)
《ナカーマ》
廊下の天井についた蛍光灯は白いのに、光がどこか灰色っぽい気がした。
濡れた靴下は脱ぎ捨て、裸足で歩く。足音を殺そうとしたけど、濡れた床でぺち、ぺちと音が立つ。廊下の突き当たりで左に曲がる。
リビング、奥にキッチン。キッチンへ通じる引き戸は半分開いていて、十センチほどの隙間から冷気が漏れていて、向こう側がよく見えない。
「母さん?」
キッチンに向かって声をかける。声が薄く、壁に吸われた感じ。返事はない。返事の代わりに、隙間の向こうで黒い何かがゆらりと揺れた。髪か何かか?
引き戸の木枠を掴んで、そっと横にずらす。きい、と小さく鳴いた。
キッチンに踏み込む。
六畳ほどのキッチン。奥の壁際にシンク、その手前に小さなダイニングテーブル。その上にはおかずが並べられていて、ついさっきまで料理をしていたことが見て取れる。
でも……今は、床全体が水浸しだった。
さっきより少し水位が上がっていた。足の裏が完全に水に埋まっている。どこから湧いてるのかわからないけど、じわじわと増え続けてる。
そして——テーブルの向こう側、シンクの前に、母さんらしき人がいた。
それは、背中を向けて立っている。人の形だけど、人じゃない。
髪が床まで濡れて垂れ下がっている。黒髪のストレート。でも量が異常で、まるで海藻みたいに水の中を漂ってる。背中も肩も、腰も、すべて髪に覆われて、人間の輪郭が見えない。
肩から下——腰のあたりから下が、人間じゃなくなってる。脚がない。腰から下が魚の尻尾みたいに繋がって、最後は大きな尾びれになってる。鱗が一枚一枚、ぬめぬめと光を反射してる。
尾びれが床を擦るたび、ずり、ずりと音が立って、黒い水が波紋を描く。
チラリと見えた左手首には、安い銀のブレスレット。三つの小さなハートが連なってるやつ。母さんの誕生日に、ポン吉と原宿まで行って選んだやつだ。
間違えようがない。
(……母さん)
喉がきゅっと縮む。声の出口がなくなる。泣き声——母さんから人とは思えない低い泣き声が聞こえてくる。それを聞いていると、胸の中に重石が落ちたみたいに呼吸が重くなる。膝がかくかくと震える。
《昴》
(ぽぽぽぽ、ポン吉)
《おうおうおうどうしたよ。いったい母ちゃんどうなっちまったんだ?》
「ねぇ、母さん……?」
呼びかける声は自分のものに聞こえない。
母さんの髪がゆっくり持ち上がった。まるで水中にいるみたいに、ふわりと宙に浮く。そして——鞭のようにしなって、俺に向かって飛んできた。
反射で、顔の前に両腕を上げる。
パン! と空気が弾ける様な音が目の前で鳴る。俺の腕の前——三十センチほど前の空中に、透明な何かが現れた。まっ平らな壁。ガラスみたいに透明で、けれども確かにそこにある。
髪のむちがその透明な壁にぶつかって、ぺし、と音を立てて左右に弾け、水しぶきが横に散る。
(……え、なに、今の)
《今、腕を上げた瞬間に前に壁が出た! なんだこれ、なんだこれ》
(うおおお、まじだこれなんだこれ。壁? バリアじゃん!?)
《やっべえ、よくわかんねぇけどまたなんか来るぞ!》
右を見ると、足元の水がむくむくと盛り上がってる。まるで下から誰かが押し上げてるみたいに。水の塊が拳ぐらいの大きさになって、俺の膝を狙って跳ね上がった。
考えるより先に、体が左にひねられた。透明な壁も一緒に動いて、水の塊をぺし、とはじいた。
(どうなってる。なにが起きてる。このバリア動かせないの? 体と一緒に動く奴? もうわけわかんない!)
《わからなくていいから、とにかく動け! 殺されちまう》
(母さんが、俺を殺す? なんで? 俺なんか悪いことしたかな?)
《悪事は、してないな確かに! でも親不孝なことしてるだろ!? ってかうごけー!》
母さんがゆっくりと振り返った。
髪の隙間から、顔が見えた。母さんの顔。目、鼻、口。でも目は真っ白で濁ってるし、口は人間の倍ぐらい大きく裂けて、中に白い牙みたいなのがぎっしり並んでる。
ひゅー、ひゅー、と息を吸う音。吐く音じゃなくて、吸う音。まるで溺れてるみたいな。
冷たい空気が喉に刺さる。呼吸のたびに胸が痛い。
《昴、下がるぞ。壁背負え、壁。逃げる経路を作らないとやばいぞ》
(逃げ……いや、でも)
《でもじゃない。逃げるかどうか今決めなくていいから。経路だけでも確保しとけって!》
言われるまま、足を半歩引く。背中に引き戸の木枠がぶつかった。冷たい。手で触ると、木が濡れてる。
(後で決めるって言っても、母さんを置いて逃げるなんて)
《母ちゃん助けるにしてもなんにしても、お前じゃどうにも出来ないだろ?》
髪のむちが二本、三本、同時に飛んでくる。透明な壁で受ける。ぱし、ぱし、ぱし、と連続で弾く音。壁にひびが入った。そう何度も耐えられそうもない。
(ヤバい。このままじゃ——)
「そこの君! こっちに下がって! はやく!」
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