第12話 祭りの後
夜が終わり、世界が“何もなかったふり”を始める朝。
街路のアスファルトの冷たさすら、まだ夜の気配を纏っている時間帯だ。
この切り替わりの瞬間を、九郎は嫌いではなかった。
表の街は、何も知らない顔でいつも通り動き出す。
駅へ急ぐサラリーマン、コンビニの搬入口で怒鳴り合うトラック運転手、早朝営業のカフェから溢れ出すコーヒーの匂い。
昨日の“現実”を引きずっているのは、裏の連中だけだ。
血と金と、夜の声で出来た現実を。
そして今日、“潰れる番”なのは――
鷹宮迅花を“商品”として扱った、不良チーム「ロットナンバー」。
◇ ◇ ◇
闇試合の主催者のひとりがいる、都内某所。
表向きはただのBarだが、地下に降りる階段の光だけが不自然に暖かい。
一般客が寄り付かない時間帯。
シャッターが半分だけ降りた入口を抜け、九郎はいつものように、何でもなさそうな足取りで入っていく。
裏専用のBarの奥。
VIP席と呼ばれるスペースは、照明の角度まで計算された“暗さ”だった。
光量は十分なのに、顔の半分は必ず影に沈む。
誰が笑い、誰が怒り、誰が睨んでいるのか――一拍遅れないと読み切れない、そんな空間だ。
九郎は、その中のひとつのソファ席に、いつもと変わらない気だるい顔で座っていた。
脚を組み、肘を片側の背もたれに預ける。
そこだけ“仕事前の休憩所”みたいな空気をしているのが、逆に異物だ。
カウンター越しに、主催者側の幹部がグラスを弄びながら渋い顔で言う。
「お前……また面倒なのを起こしたな。あの試合は完全に予定外だったんだぞ」
声は冷静だが、指先は落ち着きなくグラスの縁をなぞっていた。
数千万単位の金の流れを抱えている人間の“苛立ち”が、その仕草に滲む。
九郎は肩を竦める。
申し訳なさも、開き直りもない、ただの事実だけを返す顔。
「助けただけだ。――女のな」
幹部は額を指で押さえる。
脈打つ血管を押さえ込むみたいな仕草だった。
「問題はそこじゃねぇ。“損害”だ。賭けは崩壊、会場は壊滅、客の信用は落ちる。文句言う連中が山ほど出る」
語る内容は冷徹だが、“客の信用”という言葉だけは、妙に生々しく重い。
この世界で信用を失えば、次に失うのは血だ。
それを分かっているからこそ、声が低くなる。
九郎は、短く息を吐いて笑った。
「だから“代わりの見世物”を置いてくる。それで手打ちだろ?」
「は?」
幹部の目が鋭く細まる。
そこに“興味”と“警戒”が同時に宿る。
九郎はテーブルに一枚の紙を滑らせた。
インクの匂いがまだ新しい紙。
そこには、ロットナンバーの幹部名簿、拠点所在地、金の流れ、どこからどこに流しているか、そのルートの脆い箇所まで――必要なものだけが過不足なく記されている。
幹部は紙から視線を外さないまま沈黙した。
数秒後、小さく息を吐く。
「……お前、もう潰す準備できてんのか」
九郎はソファの背もたれから身体を起こすと、面倒くさそうに立ち上がる。
「俺は“仕事の残り香”が嫌いなんだよ。邪魔だから掃除するだけ」
血や呻き声だけが残る“後始末の甘い仕事”は、戦場の匂いを長引かせる。
それが九郎にとって、何より鬱陶しい。
幹部は鼻で笑い、諦め半分、期待半分の声で言った。
「いいぜ。“潰した後の見世物”なら受け取ろう」
契約成立。
裏社会式の、“合法”。
紙も判子もいらない。
ここで交わされるのは、名前と結果だけだ。
◇ ◇ ◇
雑居ビル三階。
昼間はどこにでもあるテナントのひとつにしか見えないそのフロアが、ロットナンバーの拠点だった。
昨夜の大失態のあと。
幹部たちは、薄暗い蛍光灯の下で苛立ちながら会議を続けていた。
散らばったコンビニ弁当の空き容器。
吸い殻でいっぱいになった灰皿。
床には投げ散らされた雑誌や体育座りで寝た部下のジャージ。
空気が、既に“負け犬の匂い”をしている。
「鉄腕がやられたとか聞いたぞ!? 誰だよ、そのチビ!」
テーブルを叩く音が短く響く。
怒鳴っている男の声には、怒りよりも焦りが混ざっていた。
「知らねぇよ! ただ――“鴉”って名が出てる」
その単語が部屋の空気を凍らせた。
裏で仕事していれば、誰でも一度は耳にする名前。
“レイヴン”。
生存率の低い仕事を請け負って、ちゃんと帰ってくる化け物。
幹部の一人が、半ば自分に言い聞かせるように怒鳴る。
「ビビんな! あいつ個人だろ!? 俺らは“チーム”だ!!」
――その瞬間。
「そう。チームだな」
背後から、乾いた声が落ちた。
ゾクリ、と背骨を撫でる寒気。
反射的に振り返ろうとした瞬間――
ドン、と鈍い音を立ててドアが吹き飛び、そのまま壁に縫い止められた。
木片と金具が飛び散る。
最初に振り返りかけた幹部の肩が、吹き飛んだ扉と壁の間に挟まれ、完全に動きを封じられる。
呻き声も出ない。
何が起きたのか理解が追いつかない。
――ただ一つ分かる。
部屋の入口に、“あの男”が立っている。
小柄な身体。
地味な顔。
黒いジャケット。
なのに、“場の空気だけが異様”だった。
そこにいるだけで、数秒前までこの部屋を支配していた“チンピラの空気”が、ひとかけらも残らず塗りつぶされていく。
九郎は、部屋全体を一度だけ見渡し、淡々と言った。
「話は全部聞こえた。“ビビるな”って言ってただろ」
視線が幹部たち一人ひとりを刺す。
逃げ場のない、射抜くような目。
「じゃあ――証明してみろよ」
幹部たちの喉が、揃って鳴った。
誰も言葉を選べない。
立ち上がるタイミングを間違えたら、“次の瞬間”が来ると本能が告げていた。
数時間後。
ロットナンバーの連中は、裏の運搬車にまとめて放り込まれていた。
両手を縛られ、口を塞がれ、目隠しされている者もいる。
暴れる声は、布越しにくぐもった呻きにしかならない。
行き先は――闇試合の主催者の管理下。
彼らの誰もが、そこが“地獄の入口”だと知っている。
“生きているが、自由ではない”。
彼らはこれから、「見世物にすらなれない最下層の労働」に落とされる。
リングに立つ華やかな怪物にもなれず、客を沸かせる暴力にもなれない。
ひたすら裏方で、血と汗と排泄物の処理だけをする“使い潰される物”。
金も無い。
仲間も無い。
未来も無い。
ただ、“潰された”という結果だけが、確かに残った。
ーーーーーーー
処理が終わった報告が一本の電話で届き、九郎はBarを出る。
朝と昼の境目みたいな時間。
ビル街の間を抜ける風は、夜よりも冷たいのに、どこか薄い。
タバコに火をつける。
肺の奥に煙を溜め、ゆっくり吐き出した。
その煙は、夜の仕事の匂いと混ざって、あっけなく空に散っていく。
「……これでいい」
誰に聞かせるでもない独り言。
“戦闘屋”でも、“傭兵”でも、“スカウト”でもいい。
肩書きはどうでもいい。
ただ――女と子どもを“商品”にする奴だけは、絶対に見逃さない。
それが、レイヴンという男の“最低限の矜持”だった。
ーーーーーーーーーーー
夜。
住宅街は、昼とは別の顔をしていた。
街灯の間隔が少し広く感じる。
暗がりのほうが多くて、そこに“普通の生活”が隠れている。
その中で一軒だけ――
カーテンの隙間から、小さく暖色の光が漏れている家があった。
迅花の家。
呼び鈴を鳴らす前から、中で人の気配がするのが分かる。
落ち着きのない足音。
同じ場所を何度も行き来している、床を擦るような歩き方。
――待たせていた。
九郎は一度、短く息を吐き、ドアベルに指を掛けた。
チリン――。
澄んだ音が、静かな住宅街に小さく響く。
家の中で足音が止まり、慌てて駆け寄ってくる音に変わる。
チェーンの外れる音。
玄関の鍵が回る音。
それから、戸が開くわずかな隙間から外気が漏れてくる。
扉が開き、女が立っていた。
迅花の母。
第一印象は「強い人」ではなかった。
“娘のために無理やり立っている普通の母親”――それが似合う姿だった。
化粧はしているが完璧ではない。
仕事帰りに塗り直す余裕もなく、そのまま夜を越えた顔。
目の下には、泣けない人間が積み重ねた疲れが、薄い隈となって残っている。
それでも視線は真っ直ぐで――そこで、かすかに震えていた。
「……あなたが、迅花を……?」
喉が乾いているのか、声は少し掠れていた。
九郎は、小さく、しかしはっきりと頷く。
「中で話しましょう。ここで済む話じゃない」
リビングには、湯気の無くなったマグカップが机に三つ並んでいた。
中身はほとんど残っていない。
飲み干されたわけでもなく、途中で放り出されたような飲み跡。
落ち着こうとして、淹れては冷まし、淹れては冷まし――その回数の分だけ、カップが増えたのだろう。
母親は九郎の前に座るが、姿勢が定まらない。
背筋を伸ばそうとして、途中で力が抜ける。
握りしめた両手が、テーブルの下で小刻みに震えていた。
「迅花は……生きてるんですね……?」
九郎は、一拍も置かずに答えた。
「生きてる。怪我はしてるが、命に関わるもんじゃない」
その瞬間、母の肩から、空気がごっそり抜けた。
喉が何度も震える。
声にならない息だけが、繰り返し零れる。
泣きはしない。
泣いたら壊れるのを知っている母親の顔だった。
「……ありがとう、ございます……本当に……」
九郎は頭を下げない。
礼を言われるために動いたわけではないし、
礼で済まされるほど軽い話でもない。
その代わりに――残酷な現実を、はっきりと口にした。
「ただ――“助かった”で終わる話じゃありません」
母の視線が、九郎に縫いつくように向けられる。
逃げ場を探す目だった。
けれど、それでも現実から目を逸らさない目でもあった。
九郎は淡々と話す。
第三者の感情を挟まない。
必要以上に脚色しない。
だが、「誤魔化さない」。
不良チームの存在。
迅花がロックオンされ、“商品”として扱われ始めたこと。
見世物として、“徹底的に壊される予定だった”こと。
逃げ場を奪われ、
心理を折られ、
身体を痛めつけられ――
最後は人として扱われなくなる未来が、“確実に”あったこと。
母は、息をするのも忘れたみたいに黙って聞いていた。
テーブルの下で握りしめた拳が、血の気を失っていく。
やがて――言われる前から知っていたように、唇を震わせて呟く。
「……あの子は……強いから……ね」
それは、誇らしげな褒め言葉ではなかった。
娘を護るはずの“強さ”が、
娘を連れて行った現実を知っている母の言葉。
ぽたり、と音を立てて、涙が落ちる。
ようやく、泣いた。
声を殺しながら、弱い母親の顔で泣く。
「どうして止めてやれなかったんだろう……
どうして気づいてやれなかったんだろう……
あの子はずっと――走る場所を無くして……それでも、笑って……!」
泣きながら、言葉が崩れていく。
九郎は目を逸らさず聞いていた。
慰めない。
同情を、安い言葉に変えない。
その代わりに――紛れもない「約束」だけを口にする。
涙を落とす母の前で、九郎は静かに言った。
「迅花は、また“走れる場所”を見つけられます」
母が顔を上げる。
その視線の先で、九郎はただ、嘘のない目をしていた。
厳しく、鋭く、
だが――嘘を嫌う戦場の目。
「今回は、俺が勝手に首を突っ込んだ。だけど……
これからもあいつが“間違った方向”に走るなら――
ぶん殴ってでも止める。筋を叩き直す。
それが“弟子”にするってことだ」
乱暴な言い方なのに、不思議と真っ直ぐ届く言葉だった。
母親は、涙と一緒に小さく笑った。泣き笑いの顔。
「優しく言えないんですね……本当に」
九郎は肩を竦める。
「俺は優しい人間じゃない。
でも――“守りたいと思ったもん”は、必ず守る」
母親は、深く頭を下げた。
泣きながら、それでもきちんと礼を尽くす仕草で。
「……どうか……あの子を……
――生きる方へ連れていってください」
九郎は長々とは答えない。
ただひとつだけ、短い言葉で返す。
「任せろ」
それ以上、説明はいらない。
ーーーーーーーー
夜の街は冷えていた。
由衣の部屋の窓だけが、外から柔らかく滲む灯を漏らしている。
暖色の明かりなのに、そこにいる人間の心が暖かいとは限らない、そんな時間。
コンコン――。
ドアを叩く、控えめなノック。
キッチンから顔を出した由衣は、その音に反射的に息を呑んだ。
「……来た」
心の中で何度もシミュレーションしていたはずの瞬間が、あまりにも唐突に現実として訪れる。
取っ手を握る手に、微かな緊張が走る。
爪が白くなるほど、指先に力が入っているのが自分でも分かった。
扉を開けた瞬間、まず目に入ったのは――
疲れ切った顔で立っている、九郎。
そして、その横に立つ少女。
制服姿。
季節に合ったパーカーを羽織っているが、その袖口を握りしめる手が、小さく震えている。
背筋は意地で真っ直ぐ伸ばしているのに、肩だけがほんの少し強張っていた。
鷹宮迅花。
由衣と目が合うと、一瞬だけ視線を落とす。
“覚悟を決めた顔”。
“覚悟したのに、まだ震えている顔”。
由衣は静かに笑って言った。
「……いらっしゃい。まず、入って。寒いから」
玄関の空気ごと、その二人を中へ招き入れる。
その一歩が、この家の空気を変える一歩になると分かっていた。
テーブルの上には、救急用具が一式揃っている。
消毒液、包帯、湿布、テーピング、冷却パック。
その並び方には、慣れた手付きと焦りが同居していた。
九郎のシャツが、床に落ちる。
――由衣の表情が、一瞬だけ歪んだ。
血は出ていない。
だが、肋骨、肩、胸に広がる深い打撲痕。
拳だけじゃない。体重を乗せた衝突の痕。
鉄の塊か、分厚い壁に押し潰されたような、重量の衝撃痕。
迅花は息を止めた。
喉が鳴る。目が逸らせない。
あの檻の中で見た光景が、そのまま皮膚の上に残っていた。
鉄腕の巨大な拳。
砕け散る視界。
その間に割り込んだ黒い背中。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
由衣は、その動揺を飲みこんで、
いつもの穏やかな声色を崩さない。
「……痛いところ、言って」
「言っても治んねぇよ。貼っときゃ治る。大丈夫だ」
「黙って」
短い言葉で封じる。
その声には、医療知識でも職業意識でもなく、“個人的な怒り”が微かに混ざっていた。
言葉より手が動く。
冷却剤を当て、皮膚の感触で腫れの範囲を確かめ、
骨のラインをなぞりながら、危険な場所をチェックする。
包帯が胸の周りに巻かれるたび、九郎の息が僅かに詰まる。
迅花は見ていられなくなり、俯いた。
そのまま、ぽつりと声が落ちる。
「……私の、せいですよね」
由衣はすぐには答えない。
何を言われたくて、何を言われたくないのか――その境界を探るように、そこだけは慎重になる。
九郎が代わりに吐き捨てるように言う。
「違ぇよ。お前は“連れ去られた側”だ。
悪いのは、女やガキを商品扱いする連中だ」
それでも迅花の拳は震える。
「でも……あの場所にいたの、私です。
知らなかったじゃ済まない世界だって、あの檻で分かった。
私、自分の力が怖い。
でも――
“何も出来ないまま壊される”のは、もっと怖い……」
呼吸が乱れる。
瞳の奥で、まだ檻の鉄格子が揺れている。
「だから、逃げたくない。……九郎さんが、母に話してくれた。
“俺が面倒見る”って。だから……ここに来た。
私、ここから外れたら、もう戻れない気がするから」
由衣はようやく、迅花の方を見る。
優しいが、甘くはない目。
「覚悟の言葉は、軽いと折れるよ」
迅花は、少しだけ息を吸い込み、頷いた。
「折れても立ち上がります。……あの檻で、そう決めました」
リビングに短い沈黙が落ちる。
逃げ場がないけれど、責めるためでもない時間。
由衣は、息をひとつ吐いてから、静かに微笑んだ。
「なら――ようこそ。
“帰ってくる場所”は、ちゃんと開けておく」
その瞬間。
迅花の視界がにじんだ。
涙は零れない。
だが、胸の内側で何かが確かに溶けていく。
九郎は何も言わない。
ただ椅子にもたれ、黙って息を吐く。
由衣が続ける。その声に、今度は明確な柔らかさが宿っていた。
「ここは止まり木。
でも――止まり木だからこそ、甘えすぎないでね」
「……はい」
迅花は、深く頭を下げた。
こうして――
鴉の止まり木と、“嘴”になる少女は、正式に同じ屋根の下へ入った。
“弟子”と“守る者”、
そして“止まり木”。
関係性が、静かに形を持ち始めた夜だった。
ーーーーーーーーーーーーー
部屋は静かだった。
テレビもついていない。
音楽もかけていない。
スマホはテーブルの上に伏せられているが、通知は鳴らない。
鳴ってくれない。
さっきまで人の体温で満たされていた部屋は、
洗ったカップと乾いた空気だけを残して、あっさりと“ただの箱”に戻っていた。
シーツには、まだ微かに匂いが残っている。
その匂いに包まれて眠った夜も、何度もあったはずなのに――
今日は、どうしても眠れなかった。
「……強い人だと思ってたのに」
由衣は、ソファに丸く座りながら呟く。
情事のあと、無防備に眠る彼の横顔を思い出す。
戦場に立つ人間じゃないみたいに静かで、安らかで。
でも、翌朝には――あの背中は、また戦いの世界へ戻ってしまう。
止める資格なんて無いことくらい、とっくに理解している。
命を張る男を、日常に縛り付けようなんて。
そんな浅ましい願いは、あの背中に対する侮辱だ。
わかっている。
わかっているのに――
静寂は、残酷だ。
時計の針が、やけに大きな音で刻む。
カチ、カチ、と、その規則正しさが逆に神経を逆撫でする。
キッチンの冷蔵庫が小さく唸る音が、妙に耳に残る。
外を走る車のテールランプが、カーテン越しに壁を赤く撫でるたび、
「帰ってきた足音じゃない」と胸が沈む。
『もし帰ってこなかったら』
『もし連絡が途切れたら』
裏社会の現実を知ってしまった今、その想像は“ただの妄想”では済まない。
普通の恋人みたいに、
「遅くなるね」とか、「今日は帰れない」とか、
そんな言葉ひとつ期待することすら、きっと間違いなんだろう。
それでも。
カップを両手で包み、冷め切ったコーヒーの表面をぼんやり見つめながら思う。
――戻ってきてほしい。
強がりも、理屈も、
全部置き去りにして、残るのはその一言だけ。
そんな自分に、苦い笑いがこぼれる。
「私、止まり木なんだから……ちゃんと待たなきゃ、だよね」
声に出してみる。
そうすると、ほんの少しだけ胸の重さが軽くなる。
ベッドライトを落とし、部屋がゆっくり暗闇に沈む。
その瞬間、横にいない空白だけが、鋭利な刃みたいに突き刺さる。
布団を抱きしめる。
まるで、失う前に縋るみたいに。
静寂は、夜明けまで続く。
だからこそ――帰ってきた時、笑って迎えたい。
涙を指先で拭い、深く息を吸って、目を閉じた。
ドアベルは鳴らない。
チャイムも押されない。
ーーーーーーー
ただ――鍵が静かに回る音だけが、部屋の空気を震わせた。
心臓が跳ねる。
手にしていたカップを、危うく落としかける。
こんな時間に、勝手に鍵を回す人間なんて一人しかいない。
それなのに、何度も何度も裏切られてきた不安が、
“違ったらどうしよう”と指先を冷たくする。
ため息みたいな、軽い息遣い。
靴を脱ぐ、少し乱暴な音。
コートの布が擦れる音。
視線を扉に向けた瞬間、彼がそこに立っていた。
「……ただいま」
言葉は簡素だった。
いつも通りの、何気ない調子で。
けれど、その顔だけは――“帰ってきた人間の顔”をしていた。
由衣は、しばらく何も言えなかった。
安心と、怒りと、泣きたさと、
ただ触れたい気持ちが、まとめて喉に詰まってしまう。
九郎は、気まずそうに顎をかいた。
照れ隠しなんて似合わない男が、少しだけ視線を逸らす。
「……生きて帰ってきた。ほら、ちゃんと」
軽口みたいな言い方が、余計に胸にくる。
涙が出るほど怒る理由はない。
泣きながらすがる資格もない。
ただ、ただ――
由衣は歩み寄り、言葉の代わりに、胸に顔を押しつけた。
九郎の胸板は、相変わらず固くて、あたたかい。
汗と煙草と鉄の匂いが、ほんの少しだけ混ざっている。
“遠い場所から帰ってきた匂い”。
「遅い、です……」
かろうじて絞り出せたのは、それだけだった。
九郎は何も言わず、短く息を吐いて、
静かに腕を回してくる。
強く抱きしめるわけじゃない。
壊れ物を扱うわけでもない。
ただ、“帰る場所だと分かっている腕”。
由衣は目を閉じた。
さっきまで残酷だった静寂が、ようやく静かな安心に変わっていく。
時計の針の音も、冷蔵庫の唸りも、
もう何も怖くない。
部屋が、また――“ふたりの空間”に戻った。
――――――――――抱きしめた身体が、すこし震えていた。
泣くほど弱い女じゃない。
けれど、張り詰めていた強さが緩んだ瞬間、
肩が静かに落ちる。
「……帰ってきましたね」
胸元で押し殺すように呟くその声が、
あまりにも愛おしくて、少しだけ苦しい。
九郎は「ただいま」と短く返す。
言葉は多くいらない。
その代わりに、腕に少しだけ力を込め、そっと髪に指を通した。
長い旅路の埃を、一呼吸ずつ払っていくみたいに。
戦いの匂いを、この部屋の匂いで上書きしていくみたいに。
由衣が顔を上げる。
少し赤くなった目元。それでも“自分を保とう”とする意地が残っている表情。
「もう……何も言わずに消えるのは、なしです」
叱るような声だった。
でも、掴んでいる九郎の服の布は、離そうとしない。
九郎は喉の奥で小さく笑い、
ゆっくり額を合わせるように顔を近づけた。
互いの息が触れ合う距離。
まつ毛にかかる温度。
目を逸らせない近さ。
距離が近づき、肌が触れ合うたびに、
“生きて、ここにいる”という現実が、静かに胸に広がる。
言葉よりも、確かめるように触れる回数が増えていく。
唇が触れた瞬間、堰を切るように空気が変わった。
無理に求め合うわけじゃない。
焦りも、衝動だけでもない。
「ここにいてほしかった」。
たったそれだけの想いが、じわじわと熱に変わっていく。
由衣の指先が、そっと九郎の服の裾に触れる。
躊躇いと、それでも受け入れる覚悟が同じ場所に宿る。
その手が、少しだけ力を込めて布地を引いた。
拒まないこと。
それがそのまま、答えになる。
部屋の灯りが落とされる。
カーテンの隙間から入り込む街明かりだけが、
柔らかく二人の輪郭を浮かび上がらせる。
薄明かりの中で、影と影が近づく。
呼吸が重なり、視線が絡まり、もう逸らせなくなる。
乱暴に服を剥がすわけじゃない。
ボタンに触れた指が、ひとつひとつ外していく。
布が肌から離れるたび、冷たい空気と、相手の体温の差がはっきり分かる。
指先が、鎖骨のあたりをなぞる。
そこから胸元へ。
硬い筋肉と、その下に流れる鼓動を確かめるように。
頬に触れる手のひらは、まだ少し震えている。
それでも、逃げる気配はない。
「……怪我、残ってないですか」
囁くような声が、距離の近さを一層意識させる。
「残ってたら、今頃もう少し大人しくしてる」
九郎の返事は軽いが、その手つきはいつもより慎重だった。
由衣の身体に触れる時、
壊さないために、
甘やかしすぎないために、
ぎりぎりの線を自分で引いている。
ベッドに倒れ込むほどの勢いではない。
そっと背中を押して、柔らかなシーツの上に腰を下ろさせる。
視線が絡む。
指先が互いの輪郭をなぞる。
体重が少しずつ重なっていく。
吐息が近い。
耳元で落ちる息が、熱い。
由衣の指が九郎の背に回る。
引き寄せるというよりは、確かめるように。
“ここにいる”ことから、逃さないように。
シーツが、静かに乱れていく。
擦れる布の音。
身体が動くたびに、小さくきしむベッドフレーム。
声をあげれば、きっと泣いてしまう気がして、
由衣は唇を噛む。
代わりに、九郎の肩口にそっと額を押しつけた。
九郎の指先が、髪を梳き、うなじに触れる。
背中をなぞり、腰にかけて、ゆっくりと体温を確かめていく。
互いの呼吸が少しずつ乱れていく。
早くなる鼓動が、触れ合った肌越しに伝わる。
どこまで踏み込むか、どこで止めるか。
その線引きは、ふたりだけの暗黙の了解で決まっている。
激しい衝動に任せて、何もかも流される夜ではない。
離れていた時間を、ひとつずつ埋め直すような――
ゆっくりと、確かに求め合う夜だった。
カーテンの向こうで、街の灯りが遠く瞬く。
その世界から切り離されたような、小さなベッドの上。
長い空白を埋めるみたいに、
触れ合う温度と、交わされる息と、
重なり合う影だけが、静かに夜を深くしていく。
どれだけ時間が経ったのか、正確には分からない。
ただ、互いの熱がようやく落ち着いた頃――
部屋の空気は、戦場の匂いではなく、“暮らしの匂い”に変わっていた。
由衣は九郎の胸に頬を寄せたまま、
まだ整いきらない呼吸を整えようとしていた。
九郎の心音が、規則正しく耳元で鳴っている。
「……帰ってきましたね」
さっきよりも落ち着いた声で、もう一度、小さく呟く。
九郎は「ただいま」と、さっきと同じ言葉を返した。
言葉は同じでも、そこに含まれる温度は、少しだけ増えている。
腕に力を少しこめて、由衣の身体を包み込む。
指先が、まだ汗で少し湿った髪を梳いていく。
長い旅路の埃も、戦場の匂いも、
ひとつひとつ撫でるように、夜に溶かしていく。
由衣が顔を上げる。
頬は少し赤い。
目元には疲れと満足と、もう会えないかもしれない時間を一晩越えた安堵が混ざっている。
「もう……何も言わずに消えるのは、本当になしですからね」
今度は、きちんとした叱責の声だった。
でも、触れている手は離れない。
指先は、まだ彼の体温を確かめていたいと正直に訴えている。
九郎は小さく笑い、
額と額を軽く合わせる。
「検討しとく」
満額の約束ではない。
けれど、“ここへ帰る気はある”と伝えるには十分な返事だった。
距離が近い。
肌が重なるたび、“生きて帰ってきた”現実が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。
言葉よりも、触れ方と、そこに込められた力加減が、
何よりの答えになっていた。
窓の外では、新しい夜と、新しい危険と、新しい仕事の気配が、
また静かに動き出している。
それでも――今この瞬間だけは。
この部屋は、“戦場から帰ってきた男”と、
“その背中を待ち続けた止まり木”のためだけに存在していた。
長い空白を埋めるような、静かで確かな夜が、
そこでようやくひとつ、完結した。
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