第8話 時の狭間
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幕をくぐった瞬間、空気の匂いが変わった。
善之が最初に感じたのは、甘く焦げたような匂いだった。綿菓子でも、屋台でもない。もっと古く、油と埃が混じった、街そのものの匂いだ。
「……ここ、どこ?」
声に出した瞬間、足元の感触が変わっていることに気づく。土ではなく、固く踏み固められた道。見上げると、提灯も神社もない。代わりに、低い木造家屋が並び、電線が異様に低く垂れ下がっていた。
――新開地。
善之は、なぜかその名前を知っていた。しかも、少し昔の。映画館がいくつも並び、芝居小屋と酒場と安宿が密集していた頃の、新開地だ。
その一角に、見覚えのある建物があった。
水木荘。
二階建ての古い下宿。色あせた看板。格子戸の向こうに、裸電球の光。
「……おかしい」
善之が呟くと、四人も黙って周囲を見回していた。直子の耳が、無意識にぴくりと動く。小雪の吐く息が、かすかに白い。珠緒は口元を引き結び、恵子は地面を見つめている。
「ここ……“前”の水木荘ね」
珠緒が言った。
「前?」
「時間が、少しズレてる」
そのときだった。
水木荘の玄関が、ぎい、と音を立てて開いた。
出てきたのは――四人だった。
前田直子、遠野小雪、白川珠緒、織田恵子。
間違いない。顔も、背格好も、声も。だが、決定的におかしい点がひとつあった。
年齢が、今と同じだった。
昭和の街並みの中に、現代のままの彼女たちが立っている。その違和感が、視界を歪ませる。
向こうの直子が、猫のように首を傾げた。
「……誰?」
善之の喉が、ひくりと鳴った。
向こうの小雪は、こちらの小雪をじっと見つめ、ゆっくりと微笑んだ。その吐息は、冷たいのに、音がなかった。
向こうの珠緒が言う。
「へえ……ちゃんと、連れてきたんだ」
その言葉に、こちらの珠緒が一歩前に出る。
「……やっぱり、そういうことか」
向こうの恵子が、視線を善之に向けた。その影が、足元で不自然に揺れる。糸のようなものが、地面に溶けて消えた。
「帰りなさい」
向こうの恵子が言った。
「ここは、“残ったもの”の場所よ」
水木荘の奥で、ラジオの音が鳴り始める。昭和の流行歌。だが、音程が少しずつ狂っていく。
善之は、理解した。
ここは過去ではない。
過去に取り残された可能性の集積だ。
選ばなかった道。戻らなかった時間。人であることを続けなかった未来。
直子が、善之の袖を掴んだ。
「……見ちゃだめ」
その瞬間、向こうの直子の瞳が、完全に縦に裂けた。猫又のそれだった。
空気がひび割れる。
善之は、目を閉じた。
次に目を開けたとき、夜店のざわめきが戻ってきた。提灯の光。神社の境内。お化け屋敷の出口。
「……出た?」
珠緒の声に、全員が息を整える。
誰も、さっきの話をしなかった。
だが、善之だけは知っている。
水木荘は、まだ“あちら側”にある。
そして、あの四人は――まだ、そこに住んでいる。
時間と選択の、狭間で。
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