彼女持ちの親友が女になって転がり込んできた話
日ノ 九鳥
見知らぬ女性
いつもより少し遅めに目が覚めた土曜日の朝。カーテンの隙間から差し込んだ光の弱さを見るに今日は曇りのようだ。少しの葛藤を挟み、ベッドから這い出して洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の顔に特に変化は無い。二十五歳の平凡な社会人がそこには映っていた。
リビングに向かうとテーブルの上にはつけっぱなしにされていたノートパソコン。昨夜に業務のメールを確認したまま閉じ忘れていた。最近はリモートも多くなり、休日でもちょっとした仕事をしてしまうことがある。便利ではあるのだがオンとオフの境が曖昧になってしまっている気がする。
せっかくの土曜日。仕事の事は忘れよう。コーヒーを淹れて、ソファに身体をあずける。見たい番組などない癖に少しの雑音を求めてテレビをつける。そのままチャンネルも変えずにスマホでSNSをチェックする。友人たちの投稿が流れてくる。誰かが旅行に行ったらしい。誰かに新しい彼女が出来たらしい。適当にリアクションを残しつつスクロールを繰り返す。
ありきたりだが悪くない時間だ。……そう思っていた矢先にインターホンが鳴った。チラと時計を見ると十時を回ったところだった。宅配便でも来たのだろうか。少なくとも誰かが訪問する予定は無かったはず。
「はい」
インターホンを覗くと若い女性の姿が映った。飾り気の無い白いTシャツにジーンズ、肩までの茶髪。年齢は自分と同じくらいだろうか。少なくとも見覚えは無い。訪問販売……あるいは近所に越してきて挨拶にでも来たのだろうか。
「えっと……どちら様でしょうか?」
モニター越しに尋ねると、女性は困ったような表情を浮かべて言葉を探す。そして意を決した様子で、妙に馴れ馴れしい口調で言った。
「よう、藤堂」
俺の名前を知っている?……いや表札にあるからおかしくはないが。実は知り合いだったか?
「はい、藤堂ですが……何の御用でしょうか?」
そう尋ねると女性は先ほどのように困った様子を見せる。視線を泳がせて口をムニムニとしていたが少しして意を決したように口を開いた。
「信じてもらえないかもしれないけど……俺、遥だ」
遥……。遥なら知り合いに一人いる。しかし目の前の人物とは一致しないだろう。何故なら――
「確かに知り合いに遥はいますが……男ですよ」
俺の知る遥は男性だ。学生時代からの親友。百七十八センチの長身で、バスケが得意なスポーツマン。明るくて社交的で誰とでもすぐに仲良くなれる奴だ。目の前の女性とはシルエットから違う。
「いや……、本当なんだよ。俺が遥、相沢遥なんだよ!信じてくれ、誠」
誠――下の名前で俺を呼ぶ。確かに遥は昔から俺をそう呼ぶ数少ない人間だった。とはいえそれだけで信じられるはずもない。詐欺か何かだろうか。それとも遥と俺の共通の知り合いが何かの悪ふざけでもしているのか。
警戒しながらも、一応話を聞くことにした。ドアを開けて、チェーンは外さずに顔を出す。
「えっと……どういうことでしょうか?」
どうにも目の前の人間を遥と認識できていないので自然と敬語で尋ねる。
ようやく話を聞く体勢となった俺に女性は必死の表情で言葉を続ける。
「俺が遥だって証明させてくれ。二人しかわからないことを話す」
そして女性は次々とエピソードを語り始めた。
大学時代にサークルの飲み会をサボって見に行った映画のタイトル。その時に俺が隣の人にジュースをこぼされた話。
俺が失恋した時に朝までの遥が付き合ってくれて飲み明かしてくれた話。
そして俺が遥に相談した時以外、誰にも話したことのない秘密。高校時代に好きだった、告白もせずに卒業してしまった先輩の名前まで正確に言い当てられた。
彼女が言葉を続けるにつれて俺の心臓が早鐘を打ち始めていた。……これは本当に遥なのか?
「信じてくれよぉ誠。俺、本当に遥なんだ」
女性――いや遥の声が震えている。チェーン越しに見えるその顔には涙が浮かんでいた。
科学的にはあり得ない……。だが目の前の女性は確かに遥以外に知らないことを知っていた。
「……とりあえず、入ってくれ」
チェーンを外してドアを開けると、遥――もう認めるしかないだろう。俺の親友は安堵したような表情を浮かべて入ってくる。
「ありがとう、誠」
部屋に入ってきた遥をソファに座らせる。俺はキッチンでコーヒーを淹れながら、頭の中で状況を整理しようとしていた。しかし未知の状況を前に俺の脳は解答を出しきれないままコーヒーを淹れ終わり、それを置きつつ彼女の向かいに座る。しばらく気まずい沈黙が流れる。
コーヒーに口をつける遥をまじまじと見る。声は完全に女性だった。見てくれも完全に女性のそれだ。身長も体の特徴も元の遥とか似ても似つかない。とはいえ座り方やラフな服装には男性の面影を感じないこともない。
「で……何があったんだ?」
とりあえず話を進めたいのでそう切り出す。
「一週間前の朝、目が覚めたら……こうなってた」
「こう……って」
「女の体になってた。最初は夢かと思った。……その日は休みだったから二度寝してみたけど……何度起きてもこうだったよ」
遥の声は震えていた。
「……パニックになって、どういたらいいかわからなかった。声も違うから会社にも行けない。実家にも連絡できない。美月……彼女にも連絡できてない」
美月――遥の彼女だったか。半年前に紹介されたことがある。清楚で優しそうな女性だった。
「誰にも言えなかった。……けど誠なら家も知ってたし、信じてくれるかもしれないって」
遥は俯いて、カップを握る手には力が入っている。
俺は深く息を吸った。正直これが現実なのかまだ半信半疑だ。けれど目の前で震えている人は確かに俺の親友だと直感は告げていた。
「原因は……わかるのか?」
「わからない。心当たりは何も」
「医者は?」
「どう説明したらいいか……。そもそも何科なんだろうな」
少し笑いながら言う遥。……まぁこの状況をどう医者に説明すればいいのかという話だな。
「今どうしてんだ?……家とか」
前に話した時、寮住みと言っていたのでこの姿では帰れないだろう。
「ネットカフェ。……鍵はあるから一度帰って必要なものは持ち出してきた」
俺は考えた。親友に起きている非現実な状況。それを解決する術を現状俺は持ち合わせていない。しかし姿が変わり、弱り切った状態で助けを求めるように訪ねてきた親友を見捨てる選択肢は俺には無かった。
「とりあえず遥……しばらくここにいろ」
遥が驚いたように顔を上げる。
「え……」
「一人じゃ厳しいだろ。俺も手伝うからさ、一緒に原因を探そう」
「でも……」
「いいよ。友達だろ。……むしろここまで聞かされて帰せないよ」
そう言うと遥は今日初めての心からの笑顔を見せた。女性の顔だったが確かに遥の笑顔だった気がした。
「……ありがとう」
俺は寝室を遥に貸すことにした。自分はリビングのソファで寝ることにする。元よりしょっちゅう寝落ちしているし問題は無い。
一度ネットカフェに戻ってきた遥の荷物はリュック1つだけだった。一週間ネカフェを転々としていたらしいし当然だろう。
「本当にいいのか?迷惑じゃないか?」
遥が何度も確認してくる。
「大丈夫だって。それより着替えとか必要だろ。明日買いにいこうぜ」
「……ああ」
遥は少し戸惑った様子で頷いた。女性の服を買いに行くなんて本人も想像していなかったのだろう。
昼はあり合わせで済ませたが、夕方になってからは二人で近所のスーパーに買い物に行った。遥は帽子を深くかぶって周囲を気にしている様子だった。基本的にネカフェに籠っていたらしいし、姿が変わってからの外出にあまり慣れていないのだろう。
買い物かごをもって店内を歩く。すれ違う人々が遥を見ても誰も気にも留めない。当たり前だ。彼らにとって遥はただの若い女性だ。俺だけがその中身を知っている。
「何食べたい?」
「んー、思いつかない」
「じゃあカレーにしよう。簡単だし」
「いいね」
野菜に肉、カレールーを買い物カゴに入れ、レジで会計を済ます。
アパートに戻りもろもろの下ごしらえをして鍋でカレーを煮込んでいる間遥と少し話をした。やはり会社のことや彼女のことを心配している様子だった。俺は相槌打ちながら、どう力になったものかと考えていた。
そうこうしているとカレーが完成し、二人でテーブルを囲む。
「うまい……」
遥が感慨深げに呟いた。
「普通にカレーだけど」
「一週間まともな物食べてなかったから」
……俺はおかわりを要求した遥に気持ち多めによそった。
その夜、寝室に入った遥へ「何かあったら呼んでくれ」と声をかけてリビングのソファに横になった。
天井を見つめて今日一日の事を振り返る。朝はいつもと変わらない土曜日だった。それが今、親友が女性になって俺の部屋にいる。未だに信じがたい。
これからどうなるのだろうか。遥を元に戻すことはできるのだろうか。不安と疑問が頭の中をぐるぐると回る。けれど確かなことが1つある。
俺は遥を助けたい。あいつを元の生活に戻してやりたい。
窓の外では雨が降り始めていた。朝は曇り空だったがついに雨が落ちてきたらしい。俺は雨音を聞きながらゆっくりと目を閉じた。
この先どんなことが待ち受けているのかわからない。けれど二人ならきっと乗り越えられる。
そう信じながら、俺は眠りについた。
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