第3話:解体される人生

一月の空は、抜けるように青い。しかし、その輝きは氷のように冷たく、佐々木健二の頬を容赦なく刺した。


銀行の窓口で、健二は受話器を握りしめるような力で通帳を握りしめていた。 「ですから、私は息子なんです。父の入院費や光熱費を立て替えている分を、父の口座から引き出したいだけなんです」


窓口の女性は、申し訳なさそうに、だが鉄の壁のような固い声で答えた。 「申し訳ございません。佐々木嘉男様の口座は、成年後見人の九条先生によって管理が一本化されており、ご家族であっても一切の入出金は停止させていただいております。先生の承諾書がなければ、一円たりとも……」


健二の頭の中で、パチンと何かが弾ける音がした。 父が汗水垂らして働いて貯めた金だ。健二が子供の頃、野球のグローブを買ってくれた金だ。それが今、見ず知らずの弁護士の指先一つで、家族から遮断された「数字の塊」に成り下がっている。


「……勝手にしろ」


吐き捨てるように言い、健二は銀行を飛び出した。向かう先は実家だ。せめて父の冬物のコートや、大切にしていた古いカメラだけでも持ち出さなければならない。九条に鍵を替えられたが、縁側の雨戸の隙間からなら入れるかもしれない——そんな、泥棒のような思考が頭をよぎる。


だが、実家の角を曲がった瞬間、健二の視界に飛び込んできたのは、無機質な白いトラックと、数人の作業員の姿だった。


「な……なんだ、これは」


実家の門扉は無造作に開け放たれ、玄関からは見慣れた家具が次々と運び出されていた。 ガリガリと、木材が擦れる嫌な音が静かな住宅街に響く。


「おい! やめろ! 何をやってるんだ!」


健二はトラックへ駆け寄った。荷台には、父が毎朝座っていた年季の入った座椅子が、他のゴミと一緒に積み上げられていた。その上には、母の遺影が飾られていたサイドボードが、無造作に逆さまに置かれている。


「ちょっと、あんた! 止まれって言ってるんだ!」


作業員の一人を突き飛ばすようにして家の中へ踏み込む。そこには、軍手をはめて書類をチェックしている九条の事務員の姿があった。


「あ、佐々木さん。困りますよ、勝手に入られては」


事務員は顔色一つ変えず、淡々と言った。 「九条先生の指示です。この物件は維持費がかさむ割に収益性が低い。お父様の今後の施設費用を捻出するため、更地にして売却することが決まりました。今日はその『残置物撤去』の日です」


「売却……? 親父は、ここは俺に継がせるって言ってたんだ! 親父が生きてるのに、なんで勝手に家を売るんだよ!」


「お父様の意思よりも、財産の保全が優先されるんです。今の彼には管理能力がない。放置して資産価値を落とすのは、後見人としての善管注意義務に違反しますから」


事務員がそう言い放った直後、奥の部屋からバリバリという破壊音が聞こえた。 健二が駆けつけると、作業員が父の書斎にあった古い本棚を、バールでこじ開けていた。床には、父が大切にしていた山岳写真のアルバムがバラバラに散らばり、泥のついた靴で踏みつけられている。


「やめろぉぉぉ!」


健二は叫び、作業員の腕を掴んだ。 「これはゴミじゃない! 親父の人生なんだよ! 触るな、汚い手で触るな!」


「佐々木さん、落ち着いてください。警察を呼びますよ」 事務員の冷ややかな声が背中に突き刺さる。


「警察? 呼べよ! 泥棒はどっちだ!」 健二は床に膝をつき、バラバラになった写真をかき集めた。 そこには、若かりし頃の父と、幼い自分、そして亡くなった母が笑っている。指先に触れる写真の冷たさと、埃の匂い。鼻の奥がツンと痛む。この家には、家族が確かに生きていた証が、空気の粒子一つ一つに刻まれていた。


それを、九条たちは「負動産」と呼び、「残置物」として処理している。


「これ……これも捨てるのか?」 健二が震える手で指さしたのは、庭の隅にある小さな物置だった。そこには、健二が小学生の時に父と作った工作や、使い古したバットが眠っているはずだ。


「ええ、すべてです。明後日には重機が入りますから」


健二の喉の奥から、言葉にならない獣のような咆哮が漏れた。 「ふざけるな……ふざけるなよ! 金さえ守ればいいのか? 預金を取り上げ、面会を禁じ、思い出までシュレッダーにかける。それがお前たちの言う『保護』なのか!」


怒り狂う健二の肩を、作業員が数人がかりで押さえつける。 「離せ! 触るな!」


「佐々木さん、これが現実です」 事務員は、感情の欠落した目で健二を見下ろした。 「あなたはもう、この家の主ではない。お父様の代理人は九条先生です。あなたは、法的になんの権限も持たない『第三者』なんです」


第三者。 その言葉が、健二の心臓を鋭く抉った。 三十年以上、この場所で「家族」として生きてきた。共に飯を食い、笑い、喧嘩をしてきた。その積み重ねてきた月日が、たった数枚の契約書と「成年後見」という法制度の前に、一瞬で無に帰した。


健二はトラックの荷台に積まれた父の座椅子を見上げた。 座面に染み付いた、父の背中の丸み。長年愛用して薄くなった生地。 それが、冬の薄い光の中で、まるで処刑を待つ罪人のように惨めに見えた。


「……絶対、許さない」


健二は、握りしめた写真の束を胸に抱き、地面に伏したまま低く唸った。 涙で視界が歪む。 だが、その涙の奥で、健二の瞳にはかつてない暗い炎が宿っていた。 悲しみは、今、明確な「殺意」にも似た激しい怒りへと変質した。


「奪われたもの、全部……全部返してもらう。親父の人生も、俺たちの家族も、一秒たりともお前たちの好きにはさせない」


遠くで、解体業者のトラックがエンジンを吹かす音が聞こえた。 それは、佐々木健二が、孤独で巨大な国家のシステムに対して、宣戦布告をした瞬間だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る