『仕立て上げられたぼけ老人』
春秋花壇
第1話:日常の崩壊
十二月の湿った冷気が、コンクリートの隙間から這い上がってくるような夕暮れだった。
佐々木健二が実家の古びた玄関を開けると、鼻を突いたのは、煮込みすぎたカボチャの甘ったるい匂いと、微かな埃の混じった「老い」の気配だった。
「親父、またかよ」
居間の畳の上で、父・嘉男が情けない格好で尻餅をついていた。傍らにはひっくり返った座卓と、散乱した新聞紙。嘉男は擦りむいた肘をさすりながら、バツが悪そうに目を細めた。その瞳は、冬の曇り空のように少しだけ濁っている。
「……健二か。いや、なんでもない。ちょっと足がもつれただけだ」 「何でもなくないだろ。八十なんだぞ」
健二は父の脇に手を差し入れた。セーター越しに触れる父の体は、記憶にあるよりもずっと軽く、まるで中身の抜けた枯れ木のようにカサカサと頼りなかった。その感触が、健二の胸に冷たい澱のような不安を沈殿させる。
翌日、健二のスマホに聞き慣れない名前の女から電話が入った。地域包括支援センターの「相談員」を名乗る、河野という女だった。
数時間後、実家の茶の間で向かい合った河野は、いかにも「善意の塊」といった風情の、隙のない微笑みを浮かべていた。彼女が持参したお茶のペットボトルが、カチリと乾いた音を立てて机に置かれる。
「佐々木さん、お父様お一人ではもう限界かもしれませんね。昨日の転倒も、もし頭を打っていたら……と思うと、私共も胸が痛みます」
河野の声は、真綿のように柔らかく耳に滑り込んでくる。
「息子さんもお忙しいでしょう? 私たちが責任を持って、お父様が安心して暮らせる公的な仕組みを整えます。これは、お父様の財産と安全を守るための『お守り』のような手続きなんです」
健二は仕事のメールが気になり、何度もポケットの振動を気にしていた。 「お守り……。具体的には何をすればいいんですか?」
「ここに署名をいただくだけで結構です。あとの煩わしい手続きは、すべてこちらで代行いたします。行政が関わりますから、何も心配はいりませんよ」
差し出された書類の束。そこには細かな文字が並んでいたが、健二の目には「成年後見」という見慣れない単語が記号のように映るだけだった。
「親父のためになるなら……」
健二はボールペンを走らせた。紙とペン先が擦れる乾いた音。その瞬間、自分が何を差し出したのか、この時の健二には知る由もなかった。
一週間後。 仕事の合間を縫って、健二は父の好物である柔らかい煎餅を持って実家を訪れた。 「親父、入るぞ」
いつものように鍵を差し込む。しかし、金属が噛み合う手応えがない。 「……ん?」
何度も回そうとするが、鍵は空回りすらしない。鍵穴そのものが、真新しい、見たこともない銀色のシリンダーに付け替えられていた。 健二は心臓が早鐘を打つのを感じながら、ドアを激しく叩いた。
「親父! 嘉男さん! 俺だ、健二だ!」
返事はない。しんと静まり返った家の中から返ってくるのは、自分の叩く音の残響だけだ。 冷や汗が背中を伝う。健二は震える指で河野に電話をかけた。
「ああ、佐々木さん。お伝えするのを失念しておりました」
河野の声からは、あの時の柔らかい湿り気が消え、事務的な冷たさが剥き出しになっていた。
「お父様は昨日、裁判所から選任された後見人、九条弁護士の判断により、適切な介護施設へ移られました。場所ですか? それは後見人の許可がないとお教えできません。あ、それから実家の管理もすべて九条先生が行いますので、今後は勝手に立ち入らないようにお願いします。不法侵入になりますから」
「……は? 何を言ってるんだ。俺は息子だぞ! 親父をどこへやった!」
「お父様は『認知症で判断能力がない』と認定されたんです。今の佐々木さんには、お父様の居場所を決める権限も、財産に触れる権限もありません。すべては『本人のため』です。ご理解ください」
ツーツーという非情な断続音が、耳の奥に突き刺さる。 健二は、目の前の閉ざされたドアを見つめた。昨日までそこにあったはずの、父との生活。カボチャの匂い。小言の言い合い。
それらすべてが、自分が署名したあの一枚の紙によって、法という名の巨大なシュレッダーにかけられ、粉々に砕かれたことを悟った。
冬の風が吹き抜け、健二の手からポロリと煎餅の袋が落ちた。アスファルトの上で、乾いた音を立てて中身が砕ける。
「親父……」
視界が歪む。怒りなのか、後悔なのか、それとも恐怖なのか。判別のつかない感情が、健二の喉元を熱く締め上げた。 街灯が灯り始めた住宅街の中で、健二はただ一人、自分の家ではなくなった実家の前で、震えながら立ち尽くしていた。
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