第2話 狐が持つ神秘性 ――狸は愛され、狐は拝まれるのか

三重県の金剛證寺や、奈良の長谷寺には、雨宝童子という存在がいる。

白い狸に乗る姿で表されることもあれば、天照大神の仏教的変奏だと説明されることもある。

来歴は複層的で、決して軽い神ではない。

だが、一般的な知名度は高いとは言えない。


それに比べると、狐に跨った稲荷神の存在感は圧倒的だ。

もしかすると、雨宝童子が地味なのではなく、

稲荷神と狐という組み合わせが、あまりにも強すぎるのかもしれない。


安倍晴明もまた、葛ノ葉と呼ばれた狐を母に持つとされている。

狐は、物語の中で、いつも重要な位置に立たされてきた。


『和漢三才図絵』では、狸は山猫とされている。

つまり、現代人が思い描く愛嬌のある狸とは別物だ。

文福茶釜の狸も、明らかにただの動物ではなく、

神霊的存在と呼んで差し支えない。


それでも――

狸はどこか「愛される存在」に留まり、

狐は「拝まれる存在」になる。


この差は、どこから来るのだろうか。


一つには、境界の位置が違う。


狸は、人の里に近い。

化けるにしても、どこか滑稽で、

人を完全には越えない。

悪さをしても、最後は笑い話になる。


狐は違う。

狐は、里と山、生と死、人と神の境界に立つ存在として描かれてきた。

助けることもあれば、人生を壊すこともある。

正体を見誤れば、取り返しがつかない。


この「笑えなさ」が、

狐を神秘の側に押し上げている。


もう一つは、媒介性だ。


狐は、稲荷神そのものではない。

だが、稲荷神と人とのあいだを取り持つ存在として、

非常に強いイメージを獲得してきた。


狐は語らない。

だが、意思を伝えてくる。

命令されているのか、勝手に動いているのか、判然としない。


この「わからなさ」が、

人に敬意と畏れを同時に生む。


狸は、わかってしまう。

狐は、わからないまま残る。


雨宝童子が白い狸に乗る姿で表されるのは、

決して格が低いからではない。

雨・穀霊・王権・仏教という複雑な要素を、

人に近い姿で中和している、と見ることもできる。


だが、中和された神は、生活には馴染むが、

畏怖の対象にはなりにくい。


狐は中和されない。

最後まで、少し怖い。


だから、

狸は愛され、

狐は拝まれる。


これは優劣の話ではない。

役割の違いだ。


愛される存在は、日常を和らげる。

拝まれる存在は、日常を越えた場所を指し示す。


狐は、

人が踏み込んではいけない線の手前に立ち、

「ここから先は、気をつけろ」と告げる存在として、

今も機能している。


稲荷神の人気が衰えないのは、

御利益だけの問題ではない。

狐という媒介が、

人と神の距離を、近づけすぎず、遠ざけすぎず、

絶妙な緊張で保ってきたからだ。


狸は、隣に座る。

狐は、少し離れたところから、こちらを見る。


その視線を感じたとき、

人は自然と、手を合わせてしまう。


それが、

狐が持つ神秘性なのだと思う。

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