第2話 「目覚めぬ記憶、動き出す意思」

 夜はまだ終わらない。空は黒く、風は冷たい。

焼け焦げた屋敷の前で、ヤマトはアイクの身体を抱えていた。


「……生きてる……」

脈はある。呼吸もある。

だが、兄は目を覚まさない。


「アイク……」

呼びかけても返事はない。

その顔は、いつものように静かで、どこか遠くを見ているようだった。

ヤマトは震える手で兄の額を撫でた。


その瞬間、視界が揺れた。

──白い天井。

──蛍光灯。

──制服。

──教室。

──スマートフォン。

──誰かの声。


『ヤマト、今日の数学のテスト、やばくね?』


『……え?』

頭を抱え、ヤマトは膝をついた。


 脳裏に流れ込んでくるのは、この世界のものではない。

だが、確かに“自分”だった。


「なんだ、これ……俺……知ってる……」

息が荒くなる。鼓動が速くなる。


 記憶ではない。けれど、記憶のような何かが、確かに目を覚まそうとしていた。

そして、胸元に淡い光が灯った。

律文が浮かび上がり、空気が震える。


記憶メモリ・階梯アセンド


 何かが、そう告げていた。

「スキル……? これが……俺の……」

ヤマトは呆然と呟いた。


前世の記憶。

日本という国。

教室。

家族。

そして、妹のような存在――

断片が、波のように押し寄せてくる。

懐かしさと違和感が混ざり合い、胸の奥が熱くなる。


「……カレン……」

再びその名を呼ぶと、胸の奥が強く脈打った。

舟は遥か彼方でもう見えない。

だが、カレンは生きている。

それだけは、確信できた。


 ヤマトは立ち上がる。

震える足を踏みしめ、川の流れを追うように歩き出す。

兄はまだ目を覚まさない。

だが、今は自分が動く番だ。


「俺が……守る」

その言葉は、誰に向けたものでもない。

だが、夜の闇の中で確かに響いた。


 記憶の階梯を昇るように、ヤマトは歩き出す。


 ヤマトはアイクを背負い、夜の山道を歩いた。

足元はぬかるみ、風は冷たく、兄の体温がじわりと背中に伝わる。

「……死なせない。絶対に」

誰に聞かせるでもなく、ヤマトは呟いた。


 山を下り、ようやくたどり着いたのは、麓にある診療所だった。

夜明け前にもかかわらず、灯りがついていたのは幸運だった。


「お願いです、兄を……助けてください……!」

扉を叩き、ヤマトは叫んだ。


 そこにいた老医師は驚きながらも、すぐにアイクを診察室へ運び込んだ。

「ひどい火傷と裂傷だ……だが、命に別状はない。よく運んできたな」


 その言葉に、ヤマトはその場に崩れ落ちた。

身体がひどく疲れていたのだろう、そのまま眠りについてしまった。




 診療所の待合室。

夜が明け、診療所の窓から淡い光が差し込んでいた。アイクはまだ眠っている。呼吸は安定していたが、意識は戻らない。

ヤマトは椅子に座り、兄の寝顔を見つめていた。


 その手には、診療所の待合に置かれていた朝刊が握られている。

新聞の一面には、墨のような太字が踊っていた。


《ゼラントス伯爵家壊滅》

《龍痣の発現、律崩壊の兆し》

《序列一位、グラヴィス・レーンが動くも龍痣逃す》


 見開きには、屋敷の焼け跡のスケッチと、帝国紋章の下に並ぶ文字があった。


「龍痣を持つ者、ゼラントス家末妹カレン・ゼラントス。帝国は“律の破壊者”として最高位の裁定を下す。各国は警戒を強め、戒厳令を準備中。」


 ヤマトは新聞を握る手に力を込めた。

「律を……壊す……?」

「カレンが……そんな存在だっていうのか……?」


「そしてグラヴィス・レーン……序列一位だって……」

ヤマトは目を細める。


「軍じゃない。律を守る“司法局”……この世界の秩序の中枢だ」

「でも、軍と違って“罪人”しか裁けない。つまり、俺たちはもう……罪人扱いってことか」

「カレンが“律を壊す因子”なら、帝国はもう、戦争じゃなくて“抹殺”を始めてる」


 彼の胸に、記憶階梯が再び脈打つ。

前世の倫理観と、この世界の秩序が交錯する。

「律って……この世界の法則そのものだ。

魔術の理、命の流れ、時間の進行――全部、律に従って動いてる。

それを崩すってことは、世界の“前提”が壊れるってことだ」ヤマトは震える手で新聞を閉じた。


(帝国が抹殺を決定した今、アイクの力は必要不可欠だが、正面からの力比べだけではいつか破綻する。俺の力は同年代では通用しても、《断罪の十環》レベルの強敵相手には、決定打にならない。ならば――)


(俺はこのスキル《記憶メモリ・階梯アセンド》を使い、帝国の戦略パターン、敵の能力の弱点、最適な逃走経路を計算し続ける必要がある。知性こそが、俺が兄と共に立ち、妹を守るための、唯一無二の戦場だ。)

その瞬間、ヤマトの中で何かが決まった。


「俺が……守ろう。世界がどう言おうと、俺は兄だ」

そんな思いを巡らせていたとき


「坊や……あんた、もしかして……ゼラントス家の子かい?」


 振り返ると、診療所の老医師が新聞を手に立っていた。

白髪を後ろに束ね、皺の深い顔に静かな目を宿している。


「昨夜、あんたが運んできた子……あの髪と目の色、見覚えがあると思ってな」

「ゼラントス家の紋章を見たことがある。あれは、帝国でも名門な家だ」

ヤマトは言葉を詰まらせた。

だが、老医師はそれ以上問わなかった。


「安心しな。誰にも言わんよ」

「ただ……坊や、これからは気をつけな。世界中が、あんたたちを見てる」

ヤマトはゆっくりと頷いた。


新聞の文字が、まるで自分を指しているように見えた。

「……俺が、守らなきゃいけないんです」

老医師は静かに笑った。


「なら、まずは飯を食え。守るには、腹がいる」

ヤマトはその言葉に、少しだけ肩の力を抜いたとき――


「……ヤマト……?」

かすれた声が、空気を震わせた。

ヤマトは振り返る。


 そこには、ベッドに横たわるアイクがいた。

瞳は開かれ、淡青の光が揺れていた。


「アイク……!」

ヤマトは駆け寄り、兄の手を握った。


「……カレンは……逃げられたか……?」

アイクの声は弱々しいが、確かに意識は戻っていた。


「大丈夫。俺が逃がした。今は……遠くへ行けているはず」

ヤマトは涙をこらえながら答えた。


 アイクは目を閉じ、しばらく黙っていた。

そして、ぽつりと呟いた。

「……俺たち、狙われるかもな。これからずっと」


「でも……守る。俺も、戦う」

「俺も。アイクと一緒に」

ヤマトは頷いた。


 朝の光が、診療所の窓を照らしていた。

兄弟はまだ幼い。だが、世界は彼らを中心に動き始めていた。


 そして、旅は始まる。

記憶と律の狭間を越えて、妹を追い、世界に抗うために。


 世界が動き始めている。

その中心に、自分たちがいる。

ならば――動くしかない。

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