帰る、還る、そして孵る
月代零
第1話
冷蔵庫から卵を取り出して、キッチンの作業台に打ち付ける。こん、と小さな音がして、ひびが入った。そこに親指を添えて、ぱこんと左右に開く。コンロの火で熱くなったフライパン、先に軽く焼いておいたベーコンの上に、つるりとした中身が落ちて、じゅっと音を立てた。透明だった卵白が白くなっていくのをぼんやり眺めていると、
「えー、また目玉焼き?」
起きたばかりで頭ぼさぼさの一樹が、横からひょいと覗き込んできた。
「おはよ。朝ご飯、すぐできるから」
「俺、オムレツが食べたいなあ。半熟でとろとろのやつ」
「ごめんね、時間なくて」
わたしは曖昧な笑みを浮かべながら、皿にトーストしたパン、ちぎったレタスとミニトマト、今しがた出来上がったベーコンエッグを手早く載せていく。冷蔵庫からジャムとマーガリンを出し、最後にコーヒーをカップに注いで食卓に就く。その間に、彼は着替えて髭を剃り、髪を整えて戻ってきた。
黙々とジャムを塗ったパンを口に入れなだら、この後の作業を組み立てていく。洗濯物を干して、化粧をして。そうだ、昨夜ゴミをまとめるのを忘れていたから、出る前にまとめて出さないと。
あれこれ考えている間に、一樹はさっさと自分の分を食べ終えると席を立った。
「っと、もう行かないと。じゃあ」
そう言って鞄を持って、玄関を出て行く。残されたのは、空になったお皿とカップ。わたしはそれを見て、ひっそりと溜め息を吐いた。
いつからだろう。まともに「おはよう」も「いただきます」も、「いってきます」も言わなくなったのは。食べ終えた食器をそのままにしていくようになったのは。
――ああ、いけない。
わたしは卵をイメージする。今しがた生まれた言葉も感情も、卵に押し戻す。全部、生まれる前の混沌に還って、わたしは周りから求められる「あるべき自分」に生まれ直す。
わたしは超特急で洗濯物を干し、化粧を済ませた。コートを着込み、仕事用のショルダーバッグを肩にかけ、ゴミの詰まったビニール袋を持って、玄関を出る。冷たい空気が、頬を刺した。
ドアノブを回して、ちゃんと鍵をかけたことを確認する。マンションの階段を下り、エントランスを出たところのゴミ捨て場にゴミを置くと、早足で駅に向かった。
わたしと彼は、大学のゼミで知り合って付き合い始め、卒業する頃に同棲を始めた。わたしは小さな会社の事務、彼は大きな商社の営業として、内定をもらっていた。家事は分担してやっていこうと約束したはずだった。
しかし、彼の方が激務で、残業や休日出勤も多く、自然とわたしの方が家事の負担が多くなった。
それは自体は別に構わない。家事なんて、時間に余裕のある方がやればいいのだし。でも。だけど。
毎日、小さなもやもやが胸の奥に降り積もる。わたしはそれを、全て卵の中に押し込める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます