Ep3.読めない男

歓迎会は時間通りに始まった。

元々残業の多い会社だが、こういう日のみんなの仕事っぷりは異常だ。

杏華もそのうちの一人ではあるが——今日は“歓迎会に参加したくて”定時に仕事を終わらせたわけではない。


女性社員たちに囲まれて、熱い視線を受けているあの男。

——清水瑛人に、嫌味を言われないためだ。


杏華はあの後、与えられていた仕事をすべて終わらせた。

この一言で片付けるのが惜しいほど、それはそれは荒れた午後だった。


言われた通りきっちり十三時に今期の課題と改善案を提出し、十六時にはプロジェクト案を三案。


そして“今日中でいい”と言われていた過去三年分の分析については、杏華の負けん気が背中を押し、定時まで一時間残した十七時には提出を済ませていた。


清水はそれぞれにすぐ目を通したが、どれにもただ「ご苦労」とだけ一言。

他には何も言わなかった。


それが良かったのか悪かったのか、杏華には分からない。

けれど追及する気力も残っておらず、そのまま就業時間を迎えた。


外の景色がよく見える杏華の席だが、今日はいつ陽が沈んだのか知らない。

そもそも窓側を見ようとすれば、先に“仏頂面”が目に入る。

だからあえて見なかったというのが正解だろう。


「無事に来れて良かったな、杏華」


ジョッキを片手に拓海が笑いかけてくるのに、杏華は座布団に沈み込むように腰を下ろし、ほんのわずかに目を細めた。


「今日だけで二十年分のストレス溜まったわ」


言いながら最初の一杯を一息に呷ると、アルコールが全身にじわりと染み渡るのを感じる。


「ぷは~」と零す絵に描いたような飲みっぷりに、「いいね~」と拓海の茶化しが飛んだ。


——なんといっても、今日はこの至福の一杯のために頑張ったのだ。


企画部の一課から三課までの総勢三十名ほどが集まった歓迎会は、店の奥の畳スペースを貸し切って行われており、五つのテーブルが島のように並んでいる。


どこも活気に満ちていたが、その中でも杏華と拓海が陣取った端のテーブルは、比較的落ち着いた空気に包まれていた。


店に着いて席へ案内された時、女性社員たちが我先にと清水の近くに座ろうと無言の攻防を繰り広げていたことを思い出す。


無事に彼の近くに落ち着けた女性たちは嬉しそうに、アフターファイブとは思えないほど艶やかな顔で清水に擦り寄っている。


その様子を眺めながら、拓海が感心したように息を漏らした。


「あれが噂の清水さんか。男の俺から見ても確かにイケメンだわ」


その言葉に杏華は「ふん」と鼻で笑い、焼き鳥の皿へ手を伸ばした。


いつもは飲み会に姿を見せないような顔ぶれも今日は集まっていて、みんながこぞって清水のほうへ視線を向けている。


彼が時々ふっと口元を緩めただけで、女性たちが色めき立つ。

その様子がなんとも滑稽で——


(…同じテーブルにいる鳴海課長にも構ってあげなよ)


と、焼き鳥を噛みちぎりながら杏華は心の中でひとりツッコミを入れていた。


「広瀬さん、今年からはバレンタインの数、一位じゃなくなっちゃうかもですね」


同じテーブルを囲んでいた佐々木絵里<ささき・えり>がニヤリと肩をすくめながらそう言うと、「えーまじかよ…」と拓海が悔しそうに肩を落とす。


そう。清水をイケメンと評価した拓海であったが、彼もまた“イケメン枠”に入る。


それは、毎年のバレンタインの日に拓海のもとへ届くチョコの数が物語っている。


少し日焼けした肌に、深いブラウンの、わずかにカールのかかった短い髪。

耳にはピアスホールが二つずつ開いていて、イタズラっぽく笑う形のいい唇。


一言で言えば“チャラそう”な見た目をしている。

だが、仕事には超がつくほど真面目な男だ。


そして綺麗な二重の瞳。

身長も、百六十四センチの杏華がしっかり見上げるほどには高い。

おまけに夏はサーフィン、冬はスノーボードで鍛えられた無駄のないボディライン。


——モテないはずがない。


思えば、杏華の周りには眉目秀麗な男が多い気がする。

部長の国立もその一人だ。


どこか日本人離れした端正な顔立ちに、柔らかな気配。

時たま有無を言わせぬ圧を漂わせるが、マグカップを手にする姿は、まるで優雅な英国貴族のティータイムを彷彿とさせる。


鳴海だって、今夜は清水が全部持っていってしまっているが、サッカー経験者らしい引き締まったボディラインで、アラフォーとは思えない若々しさ。

愛妻家としても有名な“いい男”だ。


そんなことをぼんやり考えながら、杏華は本日三杯目のジョッキを手にしていた。

ぐい、と喉へ流し込みつつ、なんとなく向かいのテーブルへ視線をやる。


その瞬間、清水とふっと目が合った。


けれど清水はすぐに視線を外し、何事もなかったかのように隣の女性社員へ意識を戻して、軽く相槌を打った。


(……何今の)


居心地の悪さを押し流すように、杏華はもう一度ビールを煽った。



°・*:.。.



飲み会の盛り上がりも最高潮に達した頃には、酒にめっぽう強い杏華の頬にさえ、ほんのりと熱が宿っていた。

疲労のせいもあって、いつもより酔いが回っているようだった。


あちこちで「次、二次会どうする?」「カラオケ行く?」といった声が飛び交い、席と席の間で人の入れ替わりが頻繁に起きている。

誰かがグラスを片手に立ち上がり、また誰かが別のテーブルに移っていく——そんな賑やかさに包まれていた。


杏華と拓海は元いたテーブルから一度も動くことなく、入れ替わり立ち替わりやって来る同僚達の話に適当に相槌を打ちながら酒を続けていた。


そしてその頃にはもう、杏華の中には清水の存在など片隅にもなく、いつもの飲み会と大差ない夜を過ごしているだけだった。


それなのに——


「……なぁ杏華、あの人、お前の方ばっかり見てね?」


拓海に肘で小突かれ、「誰が?」と返すと、彼は顎で向かいのテーブルの方を示した。


そこに座っている人物を目で追い、——ああ、そんな人いたな、とようやく思い出す。


清水の方も席を移動することなく、最初に座ったままの位置で相変わらず女性達に囲まれていた。

伏せ目がちにグラスを傾けていて、どう見てもこちらを見ている気配はないように見える。


「気のせいじゃない?」


杏華は肩をすくめ、目の前の同僚の手元に視線を落とす。

だが、何気なくもう一度そちらを見やった瞬間——確かに視線がぶつかった。


切れ長の瞳がこちらを捉え、形良く整えられた凛々しい眉が、わずかに上がる。


その微細な仕草だけで、酔いがどこかへ消えるような感覚が走る。

杏華は反射的に目を逸らした。


「……見てるよな?」


拓海が小声で言う。


「今のは、こっちが見てたからでしょ」


杏華も同じように声を潜め、拓海の方へ顔を傾けた——そのタイミングで、例のテーブルから声が飛んだ。


「安積さーん! こっち来ませんかー? 清水さんのアシスタントチーフですよね!」


名前を呼ばれ、杏華は固まった。

声をかけてきた後輩は、隣の空いている座布団をトントンと叩いている。

そこは、よりにもよって清水の真ん前だ。


(いやいやいや……あの人の目の前なんて、会社で十分……)


どう逃げるかを一瞬で思考したその時——思いがけない方向から救いが落ちてきた。


「呼ばなくていい」


そう発したのは清水の方だった。


低く落ちたその声に、後輩が「え……」と戸惑う。

清水はグラスを置き、わずかに首を横に振るだけで制した。


「今は飲み会の席だ。こんな時まで上司と無理に話すことはない」


本気でそう思っているのか、それとも杏華のイヤそうな顔を読んだのか。


——何にせよ、結果的にはラッキーだ。

周りの女性たちも特に気に留める様子はなく、「清水さんのアシスタント立候補したいな~」「一緒にお仕事したい~」などと、語尾にハートがつきそうな猫撫で声で盛り上がり、輪の中心はすぐに清水へ戻っていった。



°・*:.。.



その後も賑わいは続き、何杯目かわからないグラスが空いては満たされ、気づけば宴もお開きの時間を迎えていた。

各テーブルで勘定をまとめ始め、宴会特有の慌ただしさと共に人の流れが出口へ向かい始める。


杏華がお手洗いを済ませて店を出ると、店先にはいくつか小さな輪ができていた。


杏華は、その輪から少し離れたガードレールにもたれている拓海の方へ歩いていく。


全員が揃ったのを確認した幹事が、「二次会行こー!」と声を上げる。

杏華と拓海は目で合図を交わし、拓海が近くの後輩の肩を軽く叩いて片手を上げた。


「俺らはパスで」


「え~そうなんですか~! また明日~!」


やけに通ったその声に、数人の視線が杏華たちへ向いた。

とはいえ、この二人が二次会へ参加しないのはいつものことで、誰も深くは気に留めない。


けれど今日は——杏華の視界の端に、ひとつの存在が入った。


一見、鳴海に話しかけられているようでいて、視線はこちらを捉えている。


その静かな視線が肌に触れるような感覚に、杏華は最低限の礼儀として、ほんの小さく会釈した。


彼がそれに返したのか、それとも無反応だったのか——確かめる前に背を向け、みんなとは逆方向へ歩き出した。


飲み屋が軒を連ねる通りを抜け少し静かな道へ出たところで、拓海がポケットに手を入れながら、いつもの調子で声をかけてくる。


「飲み直しますか」


もちろん最初からそのつもりだった杏華は軽く頷き、拓海と並んで一本裏の通りへ入る。

店先の灯りを頼りに、二人は適当に目についた雰囲気の良さそうなバーの扉を押した。


平日の夜にもかかわらず、店内はほどよく賑わっている。

とはいえ、先ほどの居酒屋とはまるで違う。

落とされた照明の中、グラスの触れ合う小さな音と、ジャズの柔らかな旋律だけが空気を満たしていた。


カウンターには、ひとり静かに酒を味わう客の背中が等間隔に並び、奥のテーブルではカップルが顔を寄せて言葉を交わしていた。

杏華と拓海は、空いていた二人掛けのテーブル席に腰を下ろす。


さっきまでは生ビールばかりだったが、この空気では自然と違うものが欲しくなる。

杏華はメニューを開き、名前の可愛いカクテルに指を滑らせた。


「じゃあ……これにしよっかな」


拓海はニヤリと笑い、適当にウイスキーを注文する。


「は〜……今日の飲み会はなんだか疲れたな……」


運ばれてきたカクテルを手に、改めて乾杯を交わしながら杏華はそう呟いた。


「そんなんで明日から生きていけんの?オネーサン」


揶揄うような口調に、杏華はグラスを唇に運びながら、ふっと苦笑する。


「明日も同じくらい仕事を与えてきたら、国立部長に泣きついてやるわよ」


国立が杏華の肩を持ってくれるかは微妙だが、同期なのだから清水に一言くらいは言ってくれてもいい——そんな淡い期待を胸の片隅に浮かべた。

あの日の二人のやりとりを見る限り、勝率は五分五分といったところだろう。


「でもあの人、杏華に興味あると思うけどな」


拓海はテーブルに肘をつき、指でグラスの縁をゆっくりなぞりながら言う。


「まじでお前のこと結構見てたし」


「だからそれは気のせいでしょ。私が呼ばれた時も、来なくていいって感じだったじゃない」


「いや〜、あの目は違うね」


「なんなのそれ」


「んー……男の勘ってやつ?」


“女の勘”みたいに言うわね、と杏華は呆れたように目を細めた。

どうせまた適当なことを言っているだけだろうと、それ以上は取り合わずに残りのカクテルを飲み干す。


「ふぅ……疲れてる日のカクテルって、これだけですぐにくるね……」


グラスをテーブルに置くと、それを見た拓海も自分のウイスキーを一気に飲み干し、コトリと置いた。


「……じゃあ今日は早めに切り上げるか」


その言葉に杏華は顔を上げ、拓海を見た。


「ん?帰るってこと?」


「帰りたいの?それなら送るけど」


拓海は片眉を上げ、わざとらしく肩をすくめる。


「……別に。帰りたいなんて言ってないじゃん」


「あぁ。だよな」


杏華の可愛げのない反応にさえ、拓海は満足げに片口を上げ、伝票をつまんで立ち上がった。


拓海は杏華よりも酒に強い。

飲み会でも杏華と同じか、それ以上にジョッキを空けていたうえ、ここではウイスキーを口にしても顔色ひとつ変えない。

これまで数えきれないほど一緒に酒を酌み交わしてきたが、彼が泥酔したところなど杏華は一度も見たことがなかった。


会計へ向かう拓海の、軽快で余裕のある背中をしばし見つめる。

その背を追うように、杏華もコートを手に取り、席を立った。


会計を終えた拓海と店を出ると、吹きつける夜風に杏華はコートの前を合わせて首をすくめた。


「寒っ……」


アルコールのせいで足取りは少しだけおぼつかないが、まだ酔い潰れるほどではない。


「タクシー呼ぶか」


その様子を見て、拓海がスマホを取り出そうとする。

杏華は小さく首を横に振った。


「大丈夫。歩いて少し酔いを冷ますわ」


杏華がそう言って歩き出すのに、拓海は「ん」とだけ返しスマホをしまい、自然に隣へ並んだ。


会話らしい会話はない。

けれど気まずさとは無縁で、静かな通りには二人の靴音だけがほどよく響いていた。


このまま歩けば向かう場所は決まっている。

拓海と二次会前に抜けるのも、こうしてサシで飲み直すのも、そしてその先へ流れるのも——“いつものこと”だ。


バーから駅までは、ゆっくり歩いても十分ほど。


駅前の灯りが視界に入る頃には、夜風の冷たさも手伝って、杏華の頬の熱はほとんど引いていた。


人通りの多い駅前を横切り裏手へ回ると、小さなバーやスナックのネオンが点々と続いている。


さらに奥へ進むと、途端に通りの色合いが変わり、行き交う人の気配もどこか夜の匂いを纏った。

ピンクや紫のライトが光を落とし、足元まで妖しく照らしている。


二人の行き先は、いつもなんとなく決まっていた。

拓海は迷うことなく、そのうちのひとつへ向かう。


「今日もここ?」


入口手前でなんとなく問いかけると、拓海は一度足を止めて振り返った。


「ん?今夜は少し冒険してみますか?」


「……いや、別にここでいいけど」


杏華がそう返すと、拓海は「じゃ」と軽く息で笑い、いつものように、なんの気負いもなくそのまま自動ドアを抜けていった。



°・*:.。.



パタンとドアが閉まると、部屋は一瞬で静けさに包まれた。


「先、シャワーどうぞ」


ベッドの縁に腰を下ろし、背後に手をついて身体を預けながら、何食わぬ顔で拓海が言う。


その余裕ある姿勢が、今日一日杏華の神経を逆撫でし続けた“あの男”の冷ややかな視線を、ふいに脳裏へ呼び起こす。


(……ムカつく)


向けられているのは清水への感情だ。


ただ、今夜はこの苛立ちが誰に向かっていようと構わない、とさえ思えた。


そして目の前の男がひた隠しにしているつもりでも滲み出てしまう——杏華への“欲”。

その気配が、苛立ちの行き場を都合よく示してくる。


ならば。


杏華は何も言わずにコートを脱ぎ、少し乱暴にソファへ投げ置くと、迷いのかけらもない足取りで拓海へと歩み寄った。


「今日はこのままでいい。ムシャクシャしてるから、早く」


その声は静かで感情の昂りは見えないが、どこか投げやりだった。


拓海がわずかに姿勢を正し、腰を浮かしかけたその瞬間——杏華は彼の肩へ手を伸ばし、その動きを封じるようにして膝に跨った。


こんなふうに杏華の方から迫るのは初めてだったが、拓海は特に驚く様子はなく、どこか試すような視線を杏華へ向けた。


「ムシャクシャ、ね」


拓海はただそれだけ言うと、片手を彼女の首筋へ優しく触れる。

触れられた部分に、静かな熱が灯る。


「それは"あの人"のせい?」


首筋に触れていた手はそのままフェイスラインをなぞって頬へ移る。


そして焦らすように、指先が頬を撫でた。

その緩やかな軌跡が、杏華にはどうしようもなく焦れったくて、胸の奥をじりじりと焦がす。


「…でも、さすがに俺に抱かれてる間は、別の男のこと考えるなよ」


その言葉のあと、拓海の瞳に確かな熱が宿った。


普段は見せない、ほんの少しの独占欲が滲んだ声音に、身体がきゅっと疼くのはさがか。


拓海の言葉に瞬きで応じた瞬間、頭の片隅をかすめかけた“別の男”の影を振り払うように、杏華は自ら唇を重ねた。


拓海の手がゆっくりと腰に回り、引き寄せてくる。

その感触だけで、今日一日の杏華の中のざわつきがすべて沈んでいった。


——余計なことなんて何ひとつ考えなくていい。


今はただ、この熱だけでいい。

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