【或る若者の動揺】
インターフォンがひっきりなしに鳴っている。当然居留守をしているが、いてもいなくてもお構いなしだ。しかもインターフォンがあるのに、それすら無視して直接ドア越しに声をかけてくるやつまでいる。「いますかー?」「取材させてくださーい」とかなんとか、とにかくうるさい。どうせマスコミはマスゴミなんだから、こっちのことなんてどうでも良くて、無慈悲に
こんなことで、もしネットに顔を
電気を消してカーテンも閉めて、薄暗い部屋で俺と母さんは途方に暮れていた。俺は普段はアパートで一人暮らしをしているが、母さんからの電話で実家にすっ飛んできた。そして一晩かけて泣き腫らした母さんを
母さんはずっとテーブルに突っ伏して泣いている。気晴らしにテレビをつけようかとも思ったが、うっかりだとしても今はワイドショーを目に入れて良い状態じゃない。それに、音を立てるとまたマスコミが寄ってきそうで、
「どうして……どうして……」
俺は会社を休むしかなかった。でも有給休暇は有限で、そんなにいつまでも連続で休めない。今力を入れているプロジェクトの納期だって迫っている。どうすればいい? この悪夢はいつ終わるんだ。俺が何をしたって言うんだ? いや、俺は何もしていない。もちろん母さんもだ。外のマスコミもそれはわかって上でここに来ている。
我ながら、これまでは結構
でももう無理だ。一夜にして状況が変わった。まるで世間からの視線が鋭い矢になって、そこかしこから体中に突き刺さっているかのような気がする。どんなコメントが来ているのか見たくなくてSNSを開けない。俺は何もしていないのに、どうしてこんなことになる?
気持ちは完全に被害者だ。しかし世間はまるで加害者かのように扱うだろう。一応、加害者にも人権がどうのこうのと言って、大手メディアは顔を隠す最低限の加工くらいのことはするらしいが、声や身なり、家の様子で、俺に近しい人なら気づいてしまうはずだ。
「ああ……世間様に顔向けできない……」
時折悲痛な声を漏らす母さんから、目が離せない。少しでも目を離したら、リストカットでも首吊りでも、手近なものでろくでもないことをやらかしそうな気がしてしまう。でもかといって、俺にはこの状況を打破するすべなんてない。ただ泣き続ける母親の傍で手持ち
こんなどうしようもない状態でも腹は空くもので、とりあえず何か食べたい。腹を満たして落ち着きたい。しかしこういう時に限って運悪く、台所には食べられそうなものが何もない。俺の一人暮らしの家と違って、カップラーメンもレトルトカレーも買い置きしてない。手作りにこだわる母さんは家にその
しかい、かといって買い出しには行けない。出前もダメだ、頼んでも受け取れない。一歩外に出ればマスコミの
腹が空くとイライラが増幅される気がする。ただひたすらしくしくと泣き続ける力無い母親の、その声や
抜け出せない地獄。叫び出してしまいそうだ。
俺の気が狂うのをすんでのところで止めたのは、一本の電話だった。仕事をしている時の癖で、反射的に取ってしまう。
この番号は……
「はい、はい……は? え? ……なんで、いや……はい、ああもう、わかりましたよ! 行けばいいんですよね!? いや今、
電話を切り、無意識に舌打ちしてしまう。電話の主からの要請に従わざるを得ず、やむなく家から出るしかなくなってしまった。幸いにも迎えをよこしてくれるらしいが。今更何の用だっていうんだ?
……いや、待て。もしかすると吉報かもしれない。警察だって
そうだ、警察が迎えに来て守ってくれるとはいえ、マスコミは俺の顔を狙うかもしれない。身なりを整えなければ。急いで身支度をしよう。会社に行くときと同じように前髪を上げて、ネクタイを締めて、スーツをビシッと決める。俺は何もしていないのだから、悪くないのだから、堂々とすれば良い。
「あんた、外に出るの……?」
「ああ。大丈夫だから。メシ食ってないだろ? 帰りになんか買ってくるよ」
俺が着替えたりして動いている気配に気づいたのか、母さんが白髪交じりで乱れた髪を顔の前に垂らして、顔を上げて声をかけてきた。その目は真っ赤に充血していた。
「大丈夫なの? だって……」
窓から除かれることを恐れて、昼間なのにカーテンをぴったりと閉じている。それでも気になるのか、窓と玄関の方を交互に見ながら唇を震わせていた。
「大丈夫だよ。警察が迎えに来てくれるってさ。きっと、ちゃんと説明してくれる。大丈夫だから」
「……ああ……そうだと良いんだけど……」
こっちの家にはスーツもシャツも替えがないから、昨日と同じものを着るしかない。シャツの
やがて、ピンポーンと今日何度目かわからない音が鳴る。ただインターフォンモニターに映るのは、マスコミではなかった。迎えが到着したらしい。
この悪夢を終わらせたい。俺の日常を取り戻すんだ。だって俺は何も悪くないのだから。自分を奮い立たせるため、両手でぱんと頬を挟む。やつれたように見える母さんに背を向け、俺はボーナスのときに奮発した時計をはめて、革靴を履く。気分はアウェイの会場で試合に出る時の、選手の登場シーンだ。おそらく激しく
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