藍の軌跡

シャボン玉

第1話 深海

 わたしは夏が好きだった。

 わたしにつけてくれた名前にもある夏。

 夏はものすごくあついけど、おそい時間まで明るいから友達と長く遊べて好きだった。

 学校のプールの水面がキラキラと光っているのもきれいで大好きだった。

 つばが広くて白の麦わら帽子をかぶり、水色のワンピースと合わせるのが夏の間のお気に入り。

 わざとその恰好でお店の手伝いをすると、馴染みのお客さんから「あら、かわいいお嬢ちゃん」って褒められてすごく気持ちが良かった。

 うちのお店で売っているくだもの。それも大好き。

 夏に食べるスイカやブドウがいちばん好きだった。

 スイカの種を器用にスプーンでかき出すのが上手だと、大好きなおばあちゃんによく褒められた。

 ブドウの品種をスラスラと披露すると、物知りだと家族のみんなが驚き、褒めてくれた。

 お父さんがいつも夕飯で見ているプロ野球中継でも、わたしは得意げにレオネスの豆知識を解説していつも上機嫌だった。

 毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった夏。

 だから大好きだった。

 そうなの、夏が好きだったんだな、わたし。

 

 だけどあの日、夏を嫌いになってしまった。ううん、嫌いになるまでちょっと時間がかかったかもしれない。とても信じられない出来事。きっと嘘だと信じていたから。

 それでも、真実を知ってからは早かった。

 夏を嫌いになって、わたし自身のこともすぐに大嫌いになった。

 名前も嫌いになった。

 夏希なんてどうしてつけたんだろう。夏に希望なんてなかったのに。

 苗字は名前よりもっと嫌いになった。藍という漢字が呪われているようにしか思えなくなった。

 小学生3年生ぐらいに藍はいろんな青色だとお母さんに教えてもらった。明るい青もあれば、暗い青もあるんだって。

 でも、わたしの藍はまっくらで冷たくて重くて、こころにまとわりついてきて息が苦しくなる。そんな呪われた藍。

 それはまるで深海のような藍。だれもたどり着けないくらいの海の底。そこはたぶん光が届かなくて暗くて、寒くて・・ひとりぽっち。テレビで見たグロテスクな深海魚がいて、不気味で大嫌い。

 カラっと晴れた気持ちのいい青空と真逆な青。それが藍。

 きっと藍は光をぜんぶ吸い込んじゃったんだね。

 それに深海は光を吸い込んじゃうだけじゃない。たすけて欲しいのに声は泡みたいになって消えてしまって、誰にも届かない。動こうとしても、足がふわふわしてうまく進めない。にげることもできなくて、こわいばしょ。

 そして、キラキラと輝くわたしの宝石も奪っていってしまった。

 かえしてほしくて手をのばしても届かない。むなしく空振りする手の向こうで、どんどん小さくなっていき、消えていった。手だけ伸ばしたままその場で崩れ落ちたわたしには、何も残されていなかった。

 事故のことを色々調べて気づいたの。運命なんだったんだなって、のろわれたわたしの。

 わたしがのろわれているなら、言ってくれればいいのに。きっと受け入れたと思う。

 がまんしたし、なんならわたしのいのち、差し出すよ。

 お母さん、お父さんにはちょっと悪いけどキラキラしていないわたしなんて、いきてても誰もうれしくないよ。

 

 ずっとこうかいしている。まこっちゃんのこと。

 手を伸ばしたらダメだったんだよね。

 許されるのは遠くから見てるだけだったんだね。

 ごめんね、まこっちゃん。謝ってもおそいよね。


 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 ぼんやりと目は覚めている。だけど、布団から出たくなかった。

 昨日の夜も寝つけなくて、まだ眠い。

 ただ、今日は土曜日の朝だから学校はお休み。でも楽しみな予定なんてないし、何をする気にもなれなくて、ただ布団の中で丸くなっていた。

「起きなさい、もうお昼だよ」

 お母さんの声が遠くに聞こえた。

「・・・起きてるよ」

 そう言って、声だけを先に部屋から出す。

 体をゆっくり起こすと、もう4月なのにまだ肌寒く感じた。冷たい空気が肌に触れて、ほんの少しだけ意識がはっきりした。ゆっくり立ち上がり、ふらふらと洗面台へ向かう。

 鏡が目の前にあった。映った自分をぼんやりと見つめる。

 顔色が悪くて少し前は知らない子に見えてびくっとしたことがあった。でももう慣れちゃった。これがほんとうの自分なんだと。

 じっと自分の目を見つめる。奥の奥まで沈んでしまいそうな深い海底の瞳。ううん・・・いまでも瞳だけは慣れなかった。この藍い目を見ていると、引きずり込まれそうでいつも怖くなる。

 

 思わず目をそらし、レバーを勢いよく上げた。冷たい水を両手ですくって、顔を洗った。冷たさで少しだけ頭がすっきりする。

 そのまま、顔をタオルで拭いて、鏡を見ないようにして居間に向かった。


 居間に行くと、お母さんがもう食べ始めていた。

 テーブルには味噌汁と、ごはんに鮭の塩焼き。見慣れたいつもの土曜日の昼ごはん。


「鮭、ちょっと焦げちゃったけど、美味しいよ」


「・・・うん」


 箸を手にとるけど、手元がおぼつかない。

 鮭をひとくち食べた。ちょっと焦げ目があるけど、いつもと変わらない。


「今日は、どこか行きたいとこある?」


 お母さんが何気なく聞いた。

 わたしは飲みこみながら首を横にふった。


「大丈夫。・・・お店あるでしょ」

「そう・・・。配達のついでにちょっと寄ったりできるけど」

 お母さんの言いたいことが分かって、つい箸が止まった。

「・・・まこっちゃんのところなら大丈夫だよ。・・・一人でも行けるから」

 そう答えたらお母さんは心配そうにわたしのことを覗き込んでくる。

 嫌な気持ちになって、味もしなくなって、口に何か入れているのが気持ち悪かった。

 気まずい雰囲気にわたしはちょっとごはんを残して席を立った。


「なつき」とすぐに呼び止められた。

「ほんとに、大丈夫だから!」

 少し声が大きかった。自分でもちょっとおどろくくらいに。

 だけど、お母さんはなんでもなかったように言葉を続けた。

「あのね、玄関に今朝届いたんだけど、夏希にタブレットを買ってきたの。色とか気に入ると良いけど」

「えっ、なんで?」

 突然の話にわたしは拍子抜けした。タブレットなんて欲しいとか言ったことないのに。

「あ、あとおばあちゃんがスマホも買ってくれたのよ。それも玄関に」

「スマホ・・・良いの?前は中学入ってからって」

 タブレットは嬉しい。普段はお父さん、お母さんが使っているリビングにあるパソコンを使っている。

 プロ野球の結果とか動画見たり、調べてみたりばかりだけど、自分のがあるとすごく嬉しい。

 タブレットは学校の授業で使っていて、毎日持ち帰ってるけど、色々制限されてて勉強にしか使えない。だからじぶんのがあると、部屋で趣味に使えるからすごく嬉しい。

 スマホはクラスでも半分も持たせてもらえなくてみんな欲しがってる。だから嬉しいのかもしれないけど、スマホで何かしたいことあったかな、わたし。

「良いよ。お父さんとおばあちゃんが夏希に元気になって欲しいからって」

 玄関に向かいかけたが、お母さんに背を向けたまま立ち止まった。

 お父さんもおばあちゃんも、それにお母さんも心配してくれてるのは分かってるの。

 でも・・・あの日からずっとこころから離れないつらいきもちが居座ってる。それは何が起きても変わるとは思えなかった。

「ありがとう・・」

 いつきもちがこわれてもおかしくないわたしにできる精一杯のことば。

 今まで買ってもらったものでは一番高価なモノかもしれない。ただ、それでもわたしは目を向けてありがとうって言えなかった。


 簡素で短いメロディーが流れ終わると、しばらくして夏希の父親が居間に姿を見せた。

「最後は佐藤さん?」

「ああ、またいつもの旦那の話。20分は話してたよ」

 お昼の客が途切れたタイミングで昼食に戻った父親はやや呆れながら言った。

 母親はいつものことかと、ふふっと軽く笑うだけの返事をして、父親の昼食を配膳しながらさっきの出来事を話した。

「なつき、ありがとうって。でもやっぱり元気ないのは変わらないみたい」

 父親はう~んと少し暗い表情になり、黙って昼食に手を付けた。

「そろそろ保泉さん家に行く頃かと思って、せめて送ってあげようとしたんだけどね。逆におこられちゃったの。一人で行けるって」

「誠君のこと、徐々に忘れていくと思ったんだがな」

 箸をいったん止めて、父親はため息交じりにいった。

「そうね、隣町で小学校も違うからって軽く考えてた。・・・わたしたち、なつきのこと、分かってなかったのかもね」

 好きになった人が亡くなる、それが一体どんな想いなのか。多くの人と同じく、夏希の両親は想像すらできなかった。

 そして、小学生高学年と多感になり始める時期。特に女の子は男の子より変化に敏感という話をお客から聞いたばかりだった。

 父親は黙って焼き鮭に箸をつけて、口に運んだ。その様子を見て母親は付け足した。

「ほんとに好きだったのね。誠君のこと・・・」

「花があって、天才だったからな」

 父親は娘の恋心を素直に受け入れられず、はぐらかすように答えた。

「20年も少年野球の子、観てきたあなたが初めて思ったんでしょう。プロになれそうって思ったの」

「・・・俺の観ているチームじゃないがな」

 父親は味噌汁をすすりながら皮肉っぽく言った。


 昼食後の休憩で、二人は思いつめた顔でお茶を飲んでいた。

 二人の間にはしばらく無言が続いていたが、母親がふと含みを込めて言った。

「なつきって野球にしろ、勉強にしろ、集中すると他が見えなくなるぐらいのめり込むのよね。だから心配で」

「・・・・」

 再び沈黙が訪れようかというときに、簡素で短いメロディーが再び流れ、来客を知らされた。夏希の父親は立ち上がり、悩んだ上での結論を伝えた。

「どこか相談できるところがないか、探しとくよ」

「・・・そうね」と母親は同意し、二人は同時にうなづいた。

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