こ の 星 に 願 い を

みさき南結多

第1話 失った光

  君のいない世界で生きてゆくことなどできなかった。

  君のいない世界なんて信じられなかった。

  悲しいのかどうかももう分からない。

  もし君がいなくならないのなら、どんなことだってしただろう。

  そう、どんなことだって…。



 いつからか、止まった歯車のまま生きていた。

この心はいくつかの歯車で動いていた。ひとつが止まると残りも止まる。止まったまま時間だけが過ぎてゆく。あれから何年何ヶ月、それだけを数えてきた。その間動かない歯車と、埋められない隙間を胸に抱えて、荒むでもない、輝やくでもない時を過ごしてきた。精神的な支えは、肉体的な存在を超えてしまう。しかもそれを人に上手く説明できないから一人心の内に閉じ込めてしまう。そんな事を繰り返して気がつけば三年。無駄にしたという思いもない、頑張った記憶もない。それを誰のせいにするわけでもない。ただ一つ、この世界から欠けてしまったピース、ある日突然訪れた別れ、そのために生まれた悲しみが色濃くこの世界を支配していた。

 六畳一間の古い木造アパートが私の部屋。昭和の映画に出てきそうなキッチンとお風呂。洋式トイレだけがとってつけたように不自然に設置されていた。そんな部屋にずっと貼りっぱなしの一枚のポスター。私はそれをぼんやり眺めていた。古い壁には不釣り合いな程綺麗に映った一人の男性。その瞳は悲しそうに伏せられていた。

 リュート。

 それがポスターの人物の名前。漆黒の髪の毛が似合っていて、憂いを秘めた顔立ちが印象的で好きになった。生きていた頃はライズレッドという四人組バンドのボーカルだった。一番初めに彼を見たのは高校生の時。リュートが映っているCDのジャケットにどうしようもなく心惹かれて中身も確認せずに買ってしまった。その頃は既にある程度人気があったし、周りで聴いている人もいたし、テレビにも出ていた。けれど特に気に留めていなかった。だから何故そのジャケットに惹かれたのか答えが知りたかった。家に帰り二階にある自分の部屋に閉じこもり、真っ先にそのCDを開けた。改めてまじまじとリュートの表情を見つめる。伏し目がちで淋しそうなその顔は何かを諦めているような、悲しみに満ちているような、それでも強さを秘めているような、そんな顔だった。

 そしてそれが私にとって強烈に美しかったのだ。これまで見た誰よりも。

 CDを流すと、一曲目は知らない曲だった。初めて耳にするもの。ライズレッドはロックを基調にしたミドルテンポのポップなものかアップビートのハードなものばかりテレビで流れていたから、思いっきりスローなバラードに驚いた。遥か遠くで鳴り出したようなシンセサイザーの鍵盤が美しいイントロを奏で出す。ストリングスが重なり、やがてクリアトーンのギターが重なり、重低音が楽曲の根を張る。リズムが刻まれ、すっと入った歌声は、五感を通じて永遠に耳に残るほどの美しい音色で響き渡る。

 その時私の周りの時間がしんと静まり返った。

リュートの歌声はそれまでテレビで見聞きした事はあるのだけれども、バラードを歌っている声は、そのどれとも違っていた。どこまでも伸びて、伸びるほど澄んでゆく。それは遠い空に届いてゆくかのような凛とした歌声だった。そしてさらにジャケットの表情が私の心の何かを掻きたてていく。気がつけば涙が溢れていた。


  青白い光の彼方に 孤独を映した

  今は 旅立ちの先に未来を見つめて

  いくつもの 光が この手に 流れて


  世界の果てに たどり着くなら 伝えられるなら 

  夢を見ていた わずかな時の中 

 

  全て受け入れ 歩いてゆく

  悲しみは 心の中で美しいだけ


 歌が終わると私は流れる涙にやっと気がついた。袖でそれを拭うとCDのジャケットを取り出す。リュートの瞳に吸い込まれる。ふと目を閉じて一息つく。ページをめくる。音楽を聴いて涙が出るというのは初めての体験だった。その曲は

「詞 リュート 曲 ルカ」と記されていた。

 ルカはギタリストで楽曲の半分以上を作曲している人だ。なぜ今まで気付かなかったのだろうと思った。もっと前からライズレッドを知っていたのになぜ今になってこの歌声に気がついたのだろうと思った。その時、階下で私を呼ぶ母の声が聞こえた。急いで気を取り直して下へ降りて行く。

「何度も呼んだのに、ちっとも返事しないで」

 そう言われ驚いた。なぜなら私はその声に全く気づかなかったのだ。それ程リュートの歌に引き込まれていた。周りの音に気づかない程に。

 それが彼らの音楽との出逢い。夏がゆっくりと終わろうとしていた、そんな季節だった。

 高校を卒業してからは上京して大学に通った。そこで一人暮らしを始め、ライズレッドのコンサートにも何度か行った。最初に行ったのは海岸沿いの街で行われた野外ライブ。同じクラスで友達になった童顔のユウキという男の子が、たまたまライズレッドのファンだったから一緒に行ってくれた。潮風を微かに感じる暑い夏の日。人気が絶頂だった頃の彼らのライブは数万人規模で行われていた。携帯電話の通話も難しいほどの人ごみの中、手にしたのはリュートより右側にずれたブロックのチケット。ギターを担当しているルカの正面辺りだ。ミステリアスで切ない表情のリュートと比べると、ひょうきんで冗談の好きなルカは親しみやすい存在だった。だからリュートの正面でなくて残念だったけど、ルカの前は面白いからそれはそれでいいと思っていた。しかしいざ始まって彼らが現れるとしばらくの間はもうリュートしか目に入らなかった。やっと我に返ってふとルカを見ると長かった髪の毛が短くなっているのに気がつく。そんなことすらも気がつかないほどリュートに夢中になっていたのかと驚いた。

 終わる頃にはすっかり感極まって涙がでていた。体の力が抜けて立てるようになるまで少し時間が必要だったので、ユウキはそのまま待っていてくれた。

「待たせてごめんね。なんか感動しちゃって」

 そう言うと彼は童顔の顔でにっと笑った。

「いいよ。俺もまだ余韻に浸っていたかったし。もう落ちついた?」

「うん、ありがとう」

 そして私達はまだごった返している人ごみの中なんとか駅に辿り着き、電車に乗る。ユウキはわりと彼らのロックな面を好きで聴いている。私はもちろんロックも好きなのだが、やはりリュートの歌うバラードの美しさには叶わないと思う。彼らの曲を聴いていると不思議と瞼の裏に景色が浮かんでくる。空を駆け巡り、淡い光が漂う、どこか懐かしい場所。それが何度も私を救ってくれた。辛いと思う時はリュートの歌声を聴くとなぜか心が落ち着いた。美しい歌声が心の底に響いてゆく。気がつくと涙が溢れていることなどしょっちゅうだった。時折人並みに悩むこともあって、自分の時間や気持ちを上手く管理できなくなる、そんな時はリュートの歌に心をリセットすることができた。純粋に尊敬の念だと思っていた。素晴しい歌声を持ち合わせた人に対する敬愛だと思っていた。

 そんな気持ちも何もかも、ある日突然、ふっと目の前から大切な光が取り除かれたように消えた。それが夢であればいいと、何度も願った、心から。

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