File No.04226:呪遺物『噤みの金糸』――
【File No.04226:呪遺物『噤みの金糸』:遺物運用・経時的変質記録】
■観測対象:S / 記録抜粋
呪詛行使開始から120日が経過。行使者の指先からは既に指紋が消失し、代わりに金色の光沢を帯びた微細な鱗片が皮膚を覆い始めている。
特筆すべきは、睡眠時における不随意の言動である。彼女は眠りの中で、自分でも理解できぬ古語を、歌うように紡ぎ続ける。その唇の端からは、常に一筋の金糸が滴り、枕元には一夜にして精巧な「言葉の繭」が編み上げられていた。これを解くと、中には彼女がかつて愛した者たちの、歪んだ断末魔が文字として刻まれていたという。
金糸は、彼女の記憶を糧に増殖している。……彼女が全ての言葉を奪われた時、そこに残るのは人間ではなく、黄金の虚無が詰まった「抜け殻」であろう。
◇◆◇
冬の午後の陽光は、暖かさを伴わずに、ただ白く、無機質に街を照らしていた。
四条の外れにある激安スーパー『タナカ』の店内は、特売日を知らせるけたたましい放送と、買い物客たちが放つ生命力に満ちた喧騒で溢れ返っている。
その、あまりに世俗的で、あまりに健全な場所の中で、湊と結衣は寄り添うようにして歩いていた。
湊は、結衣の少し後ろに立ち、二人で一つの買い物カゴの取っ手を握っている。
重いカゴを支え合う、という体裁。
だが、その実、湊の手は結衣の指を上から完全に包み込み、一ミリの隙間も許さぬほどに密着していた。
「湊、見て。この鶏肉、タイムセールで半額だよ! 今夜はこれでお鍋にしよ?」
結衣が、パックに貼られた黄色いシールを見つけ、幼子のような無垢な笑顔で湊を振り返る。
ハローワークでの手続きを終え、今は貯金を切り崩す不安定な生活。
だが、湊にとって、この「欠乏」こそが最高のスパイスであった。
社会的死と引き換えに手に入れた、完全なる共依存。
湊は、結衣の耳元に唇を寄せ、周囲の喧騒に紛れ込ませるようにして囁いた。
「そうね。……結衣が作ってくれるなら、何でも美味しいわ。……楽しみね、今夜」
湊の指が、カゴの取っ手を介して結衣の手に強く食い込む。
その痛みさえも、結衣は心地よさそうに受け入れ、頬を微かに染めた。
1メートルの死線は、今や二人を外界から守るための、堅牢な城壁そのものだった。
だが、湊の首筋を、冷たい針で突かれたような感覚が襲った。
(……誰か、いる)
それは、スーパーの冷気とは明らかに異なる、肺を刺すような鋭利な「視線」。
湊はレジでの会計中も、袋詰めの作業中も、その気配が自分たちの「1メートル」の圏外を一定の距離で浮遊しているのを察知していた。
「結衣、帰ろうか。……少し、冷えてきたから」
湊は、結衣の肩を抱き寄せ、レジ袋を片手で受け取った。
もう片方の手は、結衣の手首を掴んで離さない。
スーパーを後にした二人は、あえて大通りを外れ、冬の夕闇が忍び寄る住宅街の路地へと足を踏み入れた。
目的地へ続く道すがら、古い公園の裏手にある、人通りの途絶えた寂れた跨線橋の下。
コンクリートの壁が音を吸い込み、冬の枯れ葉が足元で乾いた音を立てるその場所で、湊は足を止めた。
「……出てきなさい。……スーパーの時から、ずっとそこにいたでしょう?」
湊の声は、氷のように冷たく響いた。
結衣が、何かに怯えるように湊のコートに縋り付く。
暗闇の中から、一人の少女が姿を現した。
厚手の黒いハイネックで口元を覆い、青白い瞳で、二人を「汚物」でも見るかのような冷徹さで見つめる少女。
志乃。
彼女の指先からは、夕闇の光を反射して、金色の糸が幾筋も、まるで生き物のように蠢きながら溢れ出していた。
「……汚い。……反吐が出るわ」
志乃の声は、低く、金属的な響きを持っていた。
「貴女たちの言葉……。愛だの、楽しみだの。……その一言一言に、死の恐怖という名の嘘がべったりと張り付いている。……ねえ、貴女。本当に彼女を愛しているの?」
志乃が、一歩、歩みを進める。
それに合わせて、彼女の周囲に張り巡らされた金糸が、チリ、と微かな音を立てて収縮した。
湊は、迷いなく答えた。
「……ええ。好きよ。愛しているわ」
湊の言葉に、志乃は表情を変えなかった。
ただ、ハイネックの影で、冷酷な嘲笑を浮かべたように見えた。
「……そう。なら、いいわ。明日、またこの時間に、ここで会いましょう。……貴女のその『愛』が、どこまで保つか、楽しみね」
志乃はそれだけ言い残すと、金糸を闇に溶け込ませ、霧のように姿を消した。
その場には、凍てつくような沈黙と、湊の胸の内に芽生えた、言葉にならない違和感だけが残された。
(……何だったの、今の女)
湊は結衣を連れて、足早にアパートへと帰宅した。
だが、異変は玄関を跨いだ瞬間から始まった。
「……っ、う、あ……」
湊は、突然喉を襲った激痛に、その場に膝をついた。
まるで、目に見えない無数の針が、喉の内側の粘膜を執拗に突き刺し、縒り合わせようとしているような感覚。
「湊!? どうしたの、湊!」
結衣が駆け寄り、湊の背中を擦る。
湊は「大丈夫よ」と答えようとした。
だが、その言葉を発しようとした瞬間、喉の奥からせり上がる血の味が、湊の声を塞いだ。
(……あいつだ。あの女の呪い……)
志乃の呪い、『
それは、言葉の裏にある「微かな不純物」を検知し、物理的な制約を強いる。
湊の愛は、真実だ。
だが、志乃が指摘した通り、その根底には「結衣を失えば自分が死ぬ」という、呪いへの恐怖が、生存本能という名の「嘘」として混じり合っている。
言葉を発すれば発するほど、金糸は湊の喉を縫い潰していく。
(……言葉が、嘘になるなら)
湊は、血の混じった唾液を飲み込み、視線で結衣を射抜いた。
(言葉なんて、いらない)
湊は、結衣の小さな体を抱き寄せると、狂おしいほどの力で、その唇を塞いだ。
それは、愛の囁きよりも雄弁で、呪いよりも残酷な接吻であった。
言葉を介さぬ、肉体だけのコミュニケーション。
湊は結衣をベッドへと押し倒すと、彼女の髪を指で執拗に梳き、その肌に自分の体温を刻みつけていく。
結衣が何かを言おうと唇を開くたび、湊はそれを自分の舌で塞いだ。
「……ん……っ」
結衣の瞳が、驚きから、やがて湊の狂気を受け入れる、深い悦楽の色へと染まっていく。
湊は、結衣に食事を運ぶ際も、一言も喋らなかった。
買ってきた鶏肉を水炊きにし、それを自ら咀嚼して、結衣の口へと移していく。
小鳥に餌を与えるような、あまりに過保護で、あまりに歪な献身。
言葉を捨て、視線と、指先の震えと、重なり合う拍動だけで、二人の「真実」を繋ぎ止めていく。
湊は、結衣の体を丁寧に、まるで壊れ物を検品するように一箇所ずつ愛撫し、清拭していった。
それは、志乃が仕掛けた「言葉の審判」に対する、湊なりの徹底抗戦であった。
(見なさい……。言葉を捨てても、私たちはこれほどまでに、深く、不純物なく混ざり合える)
湊の喉元では、依然として金糸が蠢き、言葉を発しようとするたびに鋭い痛みを与え続けている。
だが、結衣と肌を重ね、彼女の呼吸を自分の肺へと直接吸い込んでいる間だけは、その痛みさえも、愛の証拠であるかのように感じられた。
冬の夜が更けていく。
1メートルの圏内で、二人の肉体は一つの生命体のように縒り合わされ、音のない聖域を形作っていた。
「……み、なと……」
結衣が、湊の胸元に顔を埋め、微かに震える声でその名を呼ぶ。
湊は、答えなかった。
ただ、結衣の首筋に深く顔を寄せ、その匂いを、その熱を、自分の魂へと焼き付けた。
明日、あの跨線橋の下で。
志乃との、本当の決戦が待っている。
湊は、暗闇の中で瞳を爛々と輝かせ、結衣の手を、骨が鳴るほどの強さで握り締めた。
たとえ言葉を奪われても。たとえ喉を裂かれても。
この心中という名の真実だけは、誰にも、一ミリの糸さえも通させはしない。
二人の影は、アパートの冷たい壁の上で、どこまでも深く、不気味に溶け合っていった。
◇◆◇
【File No.04226:呪遺物『噤みの金糸』:現場遺留品および環境汚染調査】
■現場名:某廃寺・本堂 / 調査結果
現場一帯は、目視不可能なほど細い金糸によって、三次元的な幾何学模様に埋め尽くされている。侵入した
一度触れれば、貴方の心臓の鼓動すらも、あの子が奏でる不快な旋律の一部に書き換えられてしまうのだから。
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