夜の淵
初乃 至閉
夜の淵
薬を飲んだあと、
夜は意味を失った。
部屋はそこにある。
灯りも、壁も、床も。
ただ、自分がそこにいるという感覚だけが欠けている。呼吸は続く。
それが誰のものか分からないまま。
彼は、部屋の端にいた。
何かをするでもなく、
ただ、起きていることを見ている。
最初に残っていたのは、
表に立つ役割だった。
穏やかで、柔らかく、
人に向けるためだけの表情。
泣けば許されると学習した顔。
好きだと言う。
それが本心かどうかは重要じゃない。
そう言えば、彼が離れない。
それだけで、世界は継続する。
彼は頷く。
信じるでも、疑うでもなく。
次に出てきたのは、
同じ輪郭をした拒絶だった。
「離れよう」
声は冷たく、迷いがない。
行き先だけが列挙される。
街、駅、空港。
戻らない距離。
「嫌い」「終わり」
彼に向けられた言葉なのに、
視線は彼を見ていない。
同じ身体を指して、
それを「あれ」と呼ぶ。
「あれは幸せになってはいけない」
理由は説明されない。
説明すれば、否定されてしまうから。
彼は止めない。
止められないと知っているから。
消える瞬間、
それは笑った。
壊れていることを、
最後まで自覚したまま。
彼はその笑いを見ていた。
忘れない顔で。
奥のほうで、
肯定だけを役割にしたものが息を潜めている。
彼には見えない。
見せる必要がないから。
否定がすべてにならないための、
最低限の残り火。
さらに深いところに、
すべてを引き受けた部分がいた。
触れられた記憶。
逃げられなかった時間。
身体に残った感覚。
それらは整理され、
封じられ、
他が機能するために保管されている。
「自分が受け持った」
彼に向けて言ったわけじゃない。
それでも、彼は聞いていた。
労いの言葉が落ちた瞬間、
その役割は崩れた。
想定されていなかった反応。
涙というエラー。
彼は触れない。
触れれば、境界が壊れるから。
最後に現れたのは、
感情がすべて摩耗したあとだった。
全体を見下ろす視点。
整理のためだけの意識。
「いつか、全部は一つになる」
それは希望じゃない。
ただの予測。
「問題が起きないようにする」
自分が不要になる未来を、
すでに計算に入れている。
冗談が交わされる。
軽口。
現実感をつなぎ止めるための、
最後の手段。
彼は、笑うべきか迷う。
結局、笑わない。
夜は明けない。
統合も、回復も、描かれない。
彼はそこにいる。
支えでも、救いでもなく。
ただ、
壊れきれなかったものを
見届ける存在として。
生き延びたわけじゃない。
壊れきれなかっただけの夜に、彼がいた
夜の淵 初乃 至閉 @hatsunoshihei
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