秘された旦那様は、目隠しの彼女を離さない ――片岡あやの顛末

じょーもん

序 目隠しの一夜

「――新橋芸妓は身体は売らない。

 なのに、良いのかい?

 今だったら、まだ、旦那様も断ったって嫌な顔なんかしないよ?」


 すっかり支度を整えて、部屋を出ようとするあやに、女将が再度念押しする。


「……けじめですから。私が望んだことです。

 こんな私を選んでくださった――、

 ……真心を差し出したいのです。」


 あやは美しい笑みを浮かべて、踵を返した。


 新橋の置屋、『翠玉楼』にやって来て、はや数年。

 そろそろ水揚げと言われていたその矢先、

 旦那に就きたいと名乗りを上げた男がいた。


 三浦四郎兵衛――、元禄から続く呉服屋の大店の店主で、長く新橋を贔屓にしている男だった。

 かつて姐さんと上がった座敷の常連で、新進官僚が多いこの町で、変な男が付く前にと手を挙げた。


 女将の信頼も厚く、「この方なら間違いない」とあやに勧め、彼女自身も、二つ返事でうなづいた。



 用意された座敷で、暗い行灯が揺れる。

 敷かれた布団の脇でじっと一点を見つめ、息を整えながら男を待つ。


 やがて足音が近づき、襖が開いて馴染みの男が現れた。


「小唄ちゃん。いいのかね?」


 四郎兵衛は好々爺然とした微笑のまま、あやへと問いかける。

 小唄とは、あやの半玉はんぎょくとしての芸名だった。


「ええ、三浦さま。私のけじめでございます。受け取ってくださいませ。」


 いつもと変わらない四郎兵衛の様子に、あやは肩の力が抜けるような気がして、微笑んで彼を見上げる。


「ふむ……、相応の覚悟なのだな……、よろしい。」


 目を糸のように細めてほほ笑むと、四郎兵衛は懐から黒い布を取り出した。


「ちょっと失礼するよ。」


 そう断るや否や、あやの目を覆って後ろで結んでしまった。


「ちょ……三浦さま?」


 突然のことにあやが戸惑っていると、四郎兵衛はしみじみと語り出す。


「実はね……、小唄ちゃんの旦那には、とある御仁が名乗り上げたのだが――。

 財力は申し分ないのだがね、なかなか君の旦那にはまだ難しいもので、わしが頼まれたんだよ……」


「え?」


 突然の告白に、あやは混乱し始める。


「金は出す。だから、わしに君の旦那になってほしい、と。

 で――、君が水揚げに床入りを望んでいる、と伝えた所、是非にもと言われてね……

 ただ、君にも正体は明かせないし、女将にも秘密だ。それでもいいなら――

 もう彼は、襖の向こうに待っている。」


 ふさがれた視界の闇の中、あやは考えた。


 そもそも水揚げに床入りを望んだのは、けじめもあったが、

 姐さん方から“どうにも避けられない事”があると聞いたからだった。


 芸妓が身体を売らぬことは、この花街の誇りだった。

 それでも、時代と事情が、

 すべてをきれいには分けてくれなかった。


 “どうにも避けられない相手”に無理やり奪われるくらいなら、

 せめて、旦那に名乗りあげてくれたその人に導かれたい。

 そういった気持ちが、あやの中にはあった。


 四郎兵衛は信頼できる相手だった。


 その四郎兵衛が女将に秘密を持っても、役を引き受けるほどの相手なら、きっと信頼がおけるのだろう。


「わかりました。全てお任せいたします。」


 あやは綺麗に三つ指をついて頭を下げる。


 それから、四郎兵衛が声をかけた。


 襖が開く音がして、足音が近づいてきた。




 彼は一言も発しなかった。

 けれど、その手つきはどこまでも優しく、あやは少しも怖くなかった。



 やがて、すべてが終わり、男が去って四郎兵衛の手で目隠しが外された時、

 枕元には一枚の半紙が置かれていた。


「恋歌?」


 あやが読み上げると、四郎兵衛はニコニコと笑いながらうなづいた。


「新しい名前だねぇ。彼は君にそう名乗ってほしいのだろうね。」


「……わかりました。気に入った、と“かの君”にお伝えください。」


 あやは、その半紙を胸に抱きながら、そっと目をつぶった。

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