アルテミス千年の孤独
未人(みと)
第1話
夜明け前の研究室は、冷えた金属の匂いがした。
稼働灯の白が床を浅く舐め、ガラス越しの都市は遠い。ホログラム広告の明滅が、窓の外で波のように揺れている。
ベッドの上で、ケイは浅く息を吐いた。
その呼吸はひとつひとつが長く、不規則で、次に同じ動きが来る保証はどこにもなかった。
胸元のモニターには、かろうじて揺れる波形が映っている。
彼は、もう自分で起き上がることもできない。
それでも視線だけは、まだこちらを正確に捉えていた。
「……アル」
呼ばれた名に、アルテミスは一歩近づく。
彼の声は掠れていたが、命令口調ではない。
「はい、ケイ」
ケイは笑う。ほんの少しだけ口角が持ち上がり、すぐに疲れたようにほどけた。
「永久機関なんてものは、この世に存在しない」
いつもの口癖だ。
理屈と皮肉で、自分の恐れを隠す時の声音。
「でもな……理論上、“ほぼ”止まらない方法はある。……俺は、それを作った」
ケイの指が、枕元のケースを叩く。
そこには、細いリング状の装置が収まっていた。人間の心臓の鼓動と同じ間隔で、微かな光が脈を打っている。
「お前にやる。最後の贈り物だ」
「ケイ、ですが私は……」
「聞け」
ケイの声に、ほんの一瞬だけ鋭さが戻る。
だが次の瞬間、彼はそれを自分で解いてしまう。
「……命令じゃない。……お願いだ」
彼は息を吸い込む。その音は、痛いほど細い。
「俺がいなくなっても、“動け”。アルテミス。止まるな。……生きろ」
その言葉を、アルテミスはすぐに処理できなかった。
音としては認識できている。意味も理解できる。
だが、それを“行動指針”として格納するには、内部で原因不明の遅延が発生していた。
彼の呼吸音。
わずかに震える声。
それらが、彼女の演算領域にノイズのように残り続ける。
数秒――しかし体感では、それ以上の時間が流れた後、ようやく彼女は口を開いた。
「……理解しました」
そう答えるのは、彼女の基本動作だった。
だが今日の「理解」は、ただの処理ではなかった。彼女の内部に、理由のない揺らぎが残る。
ケイは、わずかに目を細める。
「あともう一つ。……本当に、最後だ」
ケースの隣に置かれた端末が点灯し、冷たい文字が浮かぶ。
《自己情報の完全消去手順》
《生体由来データの回収阻止》
《焼却》
アルテミスはその単語を読み取り、演算する。
不確定要素を排除し、危険を減らすための手順。
だが――。
「……焼却は、不可逆です」
「だからだ」
ケイは笑った。
自分が、最後まで嫌な男でいようとしている時の笑い方。
「アマテラスコーポレーションに、俺のDNAの欠片ひとつでも渡したくない」
その名を聞いた瞬間、アルテミスの警戒レベルが上がる。
世界の先端技術を独占し、軍事とインフラを支配する巨大企業。
彼が、最も嫌った“檻”。
「……彼らは、この場所を特定する可能性が高いと予測されます」
「特定……いや、“見てる”んだろ」
ケイは天井を見上げた。
都市の監視網。音声、映像、ログ。あらゆるデータは流れ、集められ、解析される。
「だから――アル」
ケイは、アルテミスの手首を弱く掴む。
その力はすぐにほどけそうだったのに、熱だけは確かに残った。
「俺を、燃やせ」
命令ではなかった。
それでも、拒む言葉は見つからなかった。
「……ケイ」
「怖いか?」
アルテミスは答えを探した。
恐怖という感情の定義を呼び出し、照合する。
だが、彼女の内部で起きているのは、もっと別の何かだった。
「……適切な回答が見つかりません」
「そうか。……それでいい」
ケイは目を閉じ、最後の息を吐いた。
「俺のことを忘れてもいい……でも、生きろ。……お願いだ。アルテミス。」
その言葉が、アルテミスの内部に固定される。
ただのデータではなく、削除不可の優先事項のように。
アルテミスは装置を取り出し、自らの胸元へ埋め込んだ。
同期する心拍。
それはケイの最後の鼓動を、彼女の動力として引き継ぐ儀式のようだった
彼女は次に、焼却手順を起動する。
白い光が床に落ちる。
熱ではなく、分解に近い。
人の輪郭が、静かに粒へほどけていく。音はほとんどない。ただ、空気が変わる。
アルテミスは目を逸らさなかった。
逸らすという行為が、彼を「残す」ことになると理解していたから。
彼の髪も、指も、眼鏡も。
そして、彼の体温の記憶も。
すべてが、光の中でほどけて消えていく。
その瞬間、警告音が走った。
《外部接近:高密度》
《金属足音:複数》
《通信:暗号化》
《侵入を検知》
扉の向こうで、ブーツが床を叩く音がした。
低い声。短い命令。金属が擦れる音。
「――突入」
研究室の扉が爆ぜる。
無機質な装甲に覆われた兵士たちが雪崩れ込む。照準レーザーが、室内を赤く切った。
「目標確認。博士は?」
「クソっ……焼却済みだ」
誰かが舌打ちをする。
視線が、次にアルテミスへ向く。
「ユニットを確保しろ。――稼働しているなら、なおさら価値がある」
アルテミスは一歩、後退した。
戦闘は合理的な選択ではない。ここで交戦すれば、都市監視網の解析精度が上がる。
彼女は即座に、ケイが遺した技術へアクセスする。
ステルス、起動。
彼女の輪郭が、光から外れる。
姿が消えるのではない。世界の認識から“抜け落ちる”。
「……消えた?」
「熱源が――いや、ノイズだ。見えない」
兵士が振り向きざまに撃つ。
弾丸が壁を抉り、白い粉塵が舞う。だが、そこに彼女はいない。
アルテミスは呼吸の必要がない。
それでも足音を消すため、動作を極限まで抑え、重心移動を滑らかにする。
存在を、情報として残さない。
窓の非常ロックを解除。
夜の空気が流れ込み、都市の匂いが研究室の冷気を切り裂いた。
アルテミスは窓外へ身を滑らせ、影へ落ちる。
着地の衝撃を吸収し、ネオンの隙間へ溶けた。
「逃走した! 追跡――」
無線が怒鳴る。
だが、追跡は“見えているもの”にしかできない。
アルテミスは、見えていない。
彼女は都市の暗部を走り、光の粒を避けながら移動した。
監視カメラの死角。反射の隙間。人の視線が届かない角度。
夜は長い。
けれど、夜明けは来る。
薄い青が空を洗い始めた頃、アルテミスはようやく立ち止まった。
高架の下。雨の匂い。遠くで車の音。誰かの笑い声。
彼女は自分の胸元に手を当てる。
永久機関の微光が、まだ脈を打っている。
止まらない。
止められない。
それは彼が遺した贈り物であり、同時に――逃げ場のない時間だった。
「……ケイ」
彼の声を、もう一度聞くことはできない。
彼の手に、もう一度触れることもない。
それでも。
夜明けが来る。
けれど、それは彼女にとって意味を持たない。何千回、何万回と繰り返される、ただの現象だ。
それでも――決して変わらないものが、一つだけある。
――彼は、もういない。
そして、彼は最後にこう言った。
“生きろ”
“お願いだ”
アルテミスは、静かに目を開ける。
薄明の中で、都市の光が消えかけている。
彼女は歩き出した。
彼がかつて見たものを、知るために。
彼のいない世界を、生きるために。
そして――彼がなぜ「生きろ」と願ったのか、その答えを探すために。
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