第一章:完璧なパスタ、あるいは不吉な予兆
完璧なスパゲッティーを茹で上げるためには、いくつの条件が必要だろうか。十分な量の沸騰した湯、適度な塩分、そして何より、誰にも邪魔されない孤独な時間だ。僕はキッチンでタイマーをセットし、アルデンテの瞬間を待っていた。2024年の東京。窓の外では、名前も知らない誰かの生活が、湿った排気ガスの音と共に絶え間なく流れていた。
僕はハルキストだ。世間が僕らをそう呼び始めるずっと前から、僕は彼の文章を血肉として生きてきた。彼の書く「僕」がビールを飲めば僕も缶ビールのプルタブを引き、彼がシベリウスを聴けば僕もレコードの針を落とした。彼がノーベル文学賞を逃すたび、僕の胸には小さな、しかし鋭い棘のような痛みが残った。それはもはや年中行事であり、ひどく憂鬱な儀式だった。
「今年もダメだったか」
ネット掲示板に並ぶ無遠慮な嘲笑を見飽きた僕は、iPhone 15 Proをポケットに放り込み、夜の散歩に出ることにした。目的地は、かつて彼が経営していたジャズ喫茶の跡地。そこに行けば、何かが変わるような気がしたのだ。しかし、その夜の道は妙に深かった。街灯の光が、まるで古い映画のフィルムのように粒子を帯びて揺れている。僕はポケットの中でiPhoneに触れた。そこには彼の全著作——『風の歌を聴け』から最新の短編まで——が、電子の海に格納されている。その時だ。不意に、世界から音が消えた。
気がつくと、僕は見知らぬ路地に立っていた。いや、見知らぬわけではない。そこは国分寺の街角だったが、何かが根本的に違っていた。空気が、驚くほど乾燥している。そして、鼻をつくのは強烈なタバコの煙と、ガソリンの匂いだ。通り過ぎる車はどれも角張っていて、原色に近い色が褪せて見えた。人々はベルボトムのジーンズを履き、街の看板には僕の知らないフォントの日本語が並んでいる。
僕は震える手でポケットからiPhoneを取り出した。画面をスワイプする。電波は「圏外」を示しているが、オフラインに保存されたデータは生きている。画面の上部に表示された日付と時間は、バグを起こしたように回転を止め、見たこともない数字を弾き出した。1978年4月。それは、神宮球場でデーゲームを観戦していた一人の青年が、「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立った、まさにその季節だった。
僕は足が震えるのを感じた。21世紀のテクノロジーが凝縮されたチタン製の筐体は、この時代においては、宇宙から降ってきたモノリスも同然だ。この中には、まだこの世に存在しない「未来の古典」たちが、完璧な言葉の羅列として眠っている。僕は近くの喫茶店に入り、ひどく濃くて苦いコーヒーを注文した。灰皿には吸い殻が山盛りになっていて、店内にはビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』が静かに流れていた。
僕は考えた。これから何が起こるのか。そして、僕に何ができるのか。僕の手元には、これから彼が40年以上かけて築き上げる巨大な文学の迷宮が、すべて揃っている。もし、僕が先にそれを世に出したら? もし、僕が「村上春樹」よりも先に、彼の言葉を世界に提示してしまったら?
僕はカバンからノートとペンを取り出した。2024年から持ってきた唯一の文房具だ。iPhoneを起動し、『風の歌を聴け』の第一ページを開く。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」。その一文を、僕は400字詰め原稿用紙の記憶を辿りながら、一文字ずつノートに書き写し始めた。自分の指から、あの「彼」の文体が溢れ出していく感覚。それは官能的ですらあった。
僕は自分に新しい名前を与えることにした。「春樹」ではない。まだ冬の寒さが残るこの時代に、未来の情報を持ち込んだ男。村下冬樹。それが、僕がこの偽りの歴史で名乗るべき名前だった。
僕はそれから数日間、安アパートの一室に籠もり、文字通り「未来を写経」した。食事は近所の定食屋で済ませ、あとはひたすらiPhoneの画面を見つめ、ペンを動かした。指にタコができ、手首が悲鳴をあげても、僕は止まらなかった。書き写しながら、僕は気づいた。彼の初期作品には、まだ「迷い」のようなものがある。しかし、僕の手元にある完成されたデータには、後世の改稿すら反映されている。僕が今書いているのは、1979年に発表されるはずの『風の歌を聴け』よりも、さらに洗練された「完全版」なのだ。
僕は書き終えた原稿を封筒に入れ、群像新人文学賞の編集部へ宛てて投函した。ポストの口が、カタンと乾いた音を立てて閉まった。それは、僕が知っている歴史の終わりの合図だった。
数ヶ月後、僕の世界は一変した。「村下冬樹」という無名の新人が書いた『風の歌を聴け』は、文壇に爆弾を投げ込んだような騒ぎになった。アメリカ文学の乾いた文体と、日本語の叙情性の完璧な融合。既存の日本文学に対する、最も静かで、最も過激な反逆。選考委員たちは、口々に僕を絶賛した。僕は授賞式のステージに立ち、まばゆいフラッシュの光を浴びた。誰もが僕の正体を知りたがった。しかし、僕の視線は会場の隅にある時計に注がれていた。
僕は知っている。この時、本物の「彼」はまだ、国分寺でジャズ喫茶を経営し、夜な夜なキッチンテーブルで孤独にペンを握っているはずだ。彼が書くはずだった物語は、今、僕の名前で書店に並んでいる。僕は贅沢なホテルの一室で、iPhoneの残りバッテリーを確認した。八十二パーセント。このパーセンテージがゼロになる前に、僕は彼に会わなければならない。
歴史を変えたのは、名声が欲しかったからじゃない。僕が見たかったのは、毎年秋に「今年もダメだった」と肩を落とす彼ではなく、ストックホルムの冬の空の下で、最高の栄誉を手にする彼の姿だったのだ。僕はタクシーを拾い、行き先を告げた。「国分寺まで。ピーター・キャットという店を知っていますか?」
運転手は訝しげな顔をしたが、僕は構わずに窓の外を流れる1978年の景色を見つめた。僕のポケットの中では、21世紀の光を宿したiPhoneが、しんと静まり返っていた。
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