坂口青

雨は夜更け過ぎに雪へと

 変わらなかった。朝を彩ったのは静寂ではなく雨音だった。確かにそこまで肌寒くもない。冬の雨はかえって暖かみがあることは昔から知っていた。

 雪予報が裏切られた、十二月二十五日。木曜日。満員電車に乗る。昨夜の浮つきなんかなかったみたいにみんな、スーツを着て普通に会社に向かう。傘が邪魔である。

 腕時計を見る。文字盤が結露している。いつもより二本遅い電車で、多分会社に着くのは始業三分前くらいだ。寝不足が脳の表面にこびりついたような感覚。頬が電車のドアに当たって冷たい。

 昨夜から雨は降り続いていた。俺は傘をさすほどではないと思っていたが、霞が水色の傘を開いたから、俺もそうした。俺の傘はコンビニで五百円のビニール傘で、今朝もそれを持って出勤している。


 霞は良い奴だ。だって二週間前に「クリスマスイブ空いてる?」ってラインしても特に訝しむことなく「空いてる!」と返してくれる人間だから。それが数ヶ月ぶりのトークでもそうなのだから。

 昨年のクリスマスイブは家族といた。たまたま年末にまとまった休みが取れて、早めの帰省をしていたのだ。もう誰もサンタさんの話はしない。妹だって大学生だった。夜は静かで、俺の布団は客用のだったから冷え切っていて、しばらく寝付けなかった。ゲーム実況者のクリスマス配信を、音なしで画面だけぼんやりと見ていた。

「帰ってきたってことは、彼女とかいないんだねぇ」

 ふざけたように母親はそう言った。妹も笑って俺も笑った。そのとおりだった。でもだから布団の中が寒かったのかもしれず、そのときに来年のイブは誰かと居ようと決めた。

 それが大学時代の同期、霞だった。


「なんで私呼んだの?」

 霞は特に含意を込めるわけでもなく、真っ直ぐな眼差しで聞いた。イタリアンを予約したのは、イブでまともな店は全部予約で埋まってるだろうと思ったからだ。客がカップルしかいないのも分かっていた。それでも俺は、予約の電話で「二名で」と言った。声は震えていただろうか。

「なんでだろう。一人でいたくなかったのかも」

 情けない返事だ。

「へえ。良かったね私に相手がいなくて」

「いないと思ったから連絡したんだよ」

「失礼だなあ」

 霞は友人だ。

「予約してくれた店、何がおすすめ?」

「うーん。オイル系のパスタがうまい」

「じゃあそれ食べよう」

「そうだね」

 大学時代に何かあったわけではない。

「最近は元気? 霞」

「まあね。残業だけほんとどうにかしてほしいって感じ」

「俺もだそれは」

「今日よく定時で上がれたね」

「気合いだ。霞は?」

「私も。気合い」

 軽音サークルで周囲はどんどん付き合ったり別れたりしていたけれど、俺らは、決して。

「クリスマスツリーだ。これ、明後日には片付けるのかな? 大変だね」

「確かに。すぐ門松に変わるんだろうな」

 霞は友人だ。


 店内は暖房と客の熱気と浮つきで充満していた。料理はうまかった。ペペロンチーノのニンニクの風味が、強すぎず弱すぎず、しかし確かな存在感を持っていた。

「お会計いかがされますか?」

「あ、カードで」

 タッチ決済をした。決済完了のピッという音は、そのレストランの雰囲気には似合わなかった。

「ありがとう。いくらだった?」

 一瞬、躊躇った。今夜レストランに行って割り勘をする男女は、どのくらいいるだろう。それにそういう意味でなくても、俺から誘ったのだから俺が奢るべきだろう。なのに。

「七千円」

 俺は律義に金額を言った。

「ん、了解。PayPayでいい?」

「ああ」

 それは同意の返事だったのか、自分自身への愁嘆なのか。

 腕時計を見る。二十二時。大学生だったときは、この時間から練習を始めることもあった。霞はボーカルで、俺はギターで。霞は「ギター弾きながら歌うとかできない」と言って、俺にクリスマスライブのギター演奏を頼んだ。もう五年も前の話だ。

「雨だ」

 駅に向かう道のりで、空から雫が落ちてくる。冬至から数日しか経っていないのに濃やかな夜闇が薄れていたのは、雨雲の灰色のせいだった。

「そうだね」

 ──『クリスマス・イブ』だね。そう言ってほしかった。山下達郎のあの曲を、俺と霞で演奏したんだ。霞の歌声は、少しの掠れが混ざっていて雨雲みたいに暗くて明るくて、その息継ぎさえまだ記憶に新しい。

 雫は増えてくる。霞は無言で傘を開いた。ああ傘を忘れれば良かったと思った。しかし俺の左手にはビニール傘が握られている。ワンタッチで、ボン、と音を立てて開く。その軽々しさが恨めしい。

 雨音が大きくなった。傘に当たる水滴の音がよく響くからだ。霞の声は聞こえにくくなって、何度も聞き返してしまう。傘と傘がぶつからないように歩く霞と呼吸を合わせて俺も、やはり霞の傘との距離を保つ。俺と霞の間を雨粒がすり抜ける。

 なあ。あのとき、あの五年前のイブ、お前はもっと近くにいた。俺の真横でお前はマイクを握っていた。今、お前はそれを覚えているのかどうか知らないけれど、一言、「雪になるかもね」って言ってくれよ。さっきYahoo天気で確認した。本当に雪予報なんだ。

「なあ、霞」

「何?」


 車窓からクリスマスツリーが見える。昨日俺と霞が待ち合わせ、そして別れた駅だった。ツリーのてっぺんの星は、窓の雨粒で滲んでいる。

「ああ」

「じゃあ、メリークリスマス。そしておやすみ」

「ありがとう。メリークリスマス、霞」

 家に帰って風呂に入って、明日朝起きたら雪がちらついていないかなんて願ってしまった。そしたら霞にラインして、無理にでも会おうと決めていた。

 しかし、雨だ。寒くはなかった。冬の雨は暖かい。それは不幸中の幸いだった。

 あと数駅で会社に着いてしまう。流していたプレイリストを止める。検索。『クリスマス・イブ』の再生ボタンを押す。

「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう」

 山下達郎が粘り気のある声で歌う。霞の横顔を思い出す。自分の傘の先端から零れた雫が革靴に入り込んで冷たい。

 雨は止みそうになかった。

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坂口青 @aoaiao

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