4.朝焼けの白いカーネーションとオフ会へ向ける期待と不安
午前六時丁度にセットしている目覚ましが、慮るように優しく鳴らすパッヘルベルの『カノン』によって眠りから起こされた。
顔を洗って眠気をシャキッと覚ますと、ジャージに着替え、日課にしているランニングに出かける。
早朝の、天然水で作ったレモネードみたいなひんやりとして澄み切った空気に撫でられながら、いつものコースを辿り、住宅街を抜け、河川敷の土手道に出た。
一定のペースを保って走りながら、時折すれ違う人達に挨拶され、それに会釈を返しつつ、物思いに耽る。
また憂鬱な学校があるが、今日一日を乗り切れば、明日はねーじゅさんとのオフ会だ。
俺はねーじゅさんは、年の離れた社会人の男性だと思っている。
一人称は”私”だが、落ち着いていて礼節を重んじる紳士的な大人の男性であれば、そう珍しい事ではない。
──ねーじゅさんに会ったら何を話そう。『変調愛テロル』の文庫本にもサインしてもらわないと。否、その前に、直接自分の口でちゃんとしたおめでとうございますという祝いの言葉を伝えないとな。
そんな風に期待する一方で、僅かな不安も抱えていた。
──またあの時みたいな裏切りをねーじゅさんから受けでもしたら、今度は二度と立ち直れないかもな⋯⋯。
そんな嫌な想像を振り払うように、俺はグンと走るペースを上げた。
§
学校に登校して、教室の自分の席に着き、使い込んであるデイパックから読みかけの文庫本を取り出そうとしたが、どこを探っても見つからない。
──しまった。昨夜寝る前まで読書した後、デスクの上に置いたままにしていたのか⋯⋯。
ならば仕方ないと、代わりに電子書籍を読む事にし、スマホを取り出した。
学校では電源を切る事にしているため、立ち上がるまでしばらく待つ必要がある。
俺が起動画面を眺めていると、教室の後ろの方から、ここ数日の間によく聞かされるようになった、明るい日差しのような朗らかなソプラノボイスが聞こえてきた。
「萌莉ー、この前貸してくれたラノベすっごく面白かったよー」
白鳥が楽しげに感想を述べる。
「でしょ! 私のセレクトに間違いはないんだから」
この得意げな声は陸上女子の橘か。
ラノベを布教する程好きって事は、オタク気質なんだろうか。
そう言えば発言にちょくちょくサブカル要素が含まれていた気がする。
「国語の教科書を読むだけで寝落ちしそうになるあんたが小説をすすんで読むなんてね。雪が降るどころか、天変地異が起きて世界が滅びかねないわ」
この大げさな言い回しで揶揄うように言うのは涼葉だな。
「ぶー、また涼は私の事馬鹿にしてー。私だって本気出せば小説の二三冊くらい簡単に読めちゃうんだから」
白鳥が不服そうに反駁する。
「はいはい、そうですねー」
「もー、ちゃんと私の話を聞いて。それでね。そのラノベが余りに面白いもんだから、ネットを使ってWikiなんかで色々と調べてみたら、元々はWeb小説だったのが書籍化されたんだって知ったのね。だから他のWeb小説ってどんな感じなんだろうと思って、カキヨミって投稿サイトで試しに読んでみたら、これが面白いのばかりですぐにハマっちゃってさ!」
スマホは既に立ち上がり、いつでも電子書籍が読める状態なのだが、俺は何となく彼女達の会話が気になり、そのまま耳を傾けていた。
「カキヨミなら私も登録してアカウント持ってるよ。面白い小説が無料でたくさん読めるなんて最高だよね。特にBLものとか。ぐ腐腐腐⋯⋯」
橘が共感を示す。
否、ちょっと待て。今もの凄く不穏な響きの言葉と笑いが聞こえたんだが。
まさか彼女、腐海に沈んでいる者なのか。
ならば要注意人物として慎重に扱わないと。
俺を使って他の男と絡むような妄想でもされたら大変だ。
あの一軍グループの男子連中は、既にその妄想の世界に取り込まれ、組んず解れつされてるんだろうな⋯⋯南無。
しかし、他のメンバーの突っ込みが入らないところを見ると、橘のBL好きは、皆その事を知りながらも、触れると危険とばかりに、スルーを決め込んでいるという事なんだろう。
俺もそうしよう。
「私はライト文芸なら読んでるわよ。主に悪役令嬢ものとか」
涼葉は自分が悪役令嬢みたいなものだから、感情移入しやすいんだろう。
「Web小説かぁ。俺は趣味じゃないな。やっぱ読むなら熱いバトル漫画だろ」
そこに男性陣が加わってきた。
この声はお調子者の朝倉だ。
橘の妄想の餌食になっているとも知らず、呑気なものだ。
「大翔は脳筋だからね」
ストレートに嘲るのは名前からしてナルシストっぽい鳴宮。
「ラノベなら兄さんに借りて何冊か読んだ事があるけど、Web小説には手を出した事がないなぁ。姫はどんな小説が面白いと思ったんだ?」
そう尋ねるのは、リーダー的好青年の来栖だろう。
「色々あって一番を決めるのは難しいけど⋯⋯あえてその中から挙げるなら、『朝焼けの白いカーネーション』って恋愛小説かな」
それを聞いた俺は、思わず驚愕に声を上げそうになってしまった。
何故ならその作品は、他ならぬ俺が投稿したものだからだ。
よりにもよって白鳥に読まれ、気に入られてしまうとは⋯⋯。
「凄く綺麗な純愛物語でね。読みながら、『ああ、私もこんな恋愛してみたい』って思ったよ」
「うんうん。純愛って甘酸っぱくていいよね」
腐の者橘が楽しげに相槌を打つ。
お前が言う純愛とは、男同士のなんじゃないか?
「純愛ねぇ。姫も一応男女の恋愛に興味があったのね」
涼葉は意外そうだ。
「もちろんあるよ。私だって年頃の女子高生なんだからね」
「でも姫、何度も告られてるのに、全部断ってるだろ?」
朝倉が突っ込みを入れる。
へぇ、人気があるのは知ってたけど、そんなにモテていたのか。
まぁ学校のアイドルだもんな。
「それは⋯⋯ビビッとくる人がいなかっただけっていうか⋯⋯」
「姫もやっぱり、王子様みたいな素敵な男性との運命的な出会いを待ち望んでいるって事かな」
鳴宮め、気障な言い方しやがって。
「現実性がないわね。王子様みたいな男性なんて存在が許されるのは、創作物の中だけよ。それに仮に現実にいたとしても、この学校の男子達の中には絶対にいないって断言出来るわね」
「俺は? これでもバスケ部の女子達には、よく話し掛けられるんだぜ」
朝倉が自分を推す。
引っ込め。お前はお呼びじゃないんだよ。
「あんたは王子様なんて柄じゃないでしょ。せいぜい主人公にちょっかい出して中盤でざまぁされて退場するかませ役の悪役令息ってところじゃない?」
涼葉も俺と似たような印象を持っているらしい。
朝倉ここに散る。
「ひでぇ⋯⋯」
「辛辣だね。もう少し手加減してあげたら? 大翔にもいいところが──否、あまりないね。残念ながら的を射てるかな」
鳴宮が庇うと見せ掛けておいて、即座に裏切る。
「おい! フォローするなら、最後まで頑張れよ!」
「あははっ! 大翔がざまぁされるとことか見てみたーい!」
橘の楽しげな声が教室に響く。
「大翔の事なんてどーでもいいよ! 今大事なのはWeb小説! ねぇ皆も読んでみてよー。そんで感想言い合おう?」
白鳥はそんなに俺の小説が気に入ったのか。
作者として悪い気はしないな。
今度話しかけられたらもう少し優しく応じてあげる事にしよう。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
不意に会話に割り込んできたその声を聞き、俺は思わず振り向いた。
聞き慣れないが、たぶん今のはあの孤高の存在である雪代の声で間違いない。
普段は決して自分から会話に加わろうとはしないのに、らしくない。
どういう心境の変化だ?
「そんなに面白いの? そのWeb小説とやらって」
スマホを手にしたままで、視線だけを白鳥に向けていて、そこまで興味はない素振りだが、一応気にはなっているようだ。
「えっ? 怜愛も興味あるの? うん! すっごく! 感動して涙が出ちゃうくらいだから、ぜひぜひ読んでみて!」
白鳥が身を乗り出しながら強くすすめる。
「タイトルはなんて言ったっけ?」
「『朝焼けの白いカーネーション』!」
「オッケー。把握したよ」
そう端的に返したと思った矢先、不意に雪代がこちらに視線を向けた。
彼女と一瞬目が合い、俺は慌てて顔を前に向けて逸らす。
びっくりした。
会話を盗み聞きしていたのに気付かれたんだろうか。
それにしても、雪代が俺の作品に興味を持つなんてな。
意外に純愛とかが好きな乙女心を持つ少女なのかもしれない。
でも彼女ってSっ気があるっぽいんだよなぁ。
試しに読んでみても、『何これ、クソみたいな小説ね』なんて陰で冷たく罵倒されて、酷評する内容のコメントを書き込まれでもするんじゃないだろうか。
その場面を想像すると、なんだかいたたまれない気持ちになってしまう。
せっかくスマホを立ち上げた訳だが、読書する気も失せてしまい、朝のホームルームが始まるまで、机に突っ伏して寝た振りをしてやり過ごす事にした。
§
「明日からGWの後半が始まる訳だが、いくら待望の大型連休だとはいえ、羽目を外し過ぎて問題になるような行動をとる事だけはしないように。くれぐれも常識の範囲内で高校生らしく楽しむんだぞ。いいな。それでは日直、号令を頼む」
「はい。起立! 礼!」
「ありがとうございました!」
美作先生からの念入りな注意を受けてから放課後になり、俺は特にやる事もないのですぐに帰宅しようと学校を出た。
帰路の途中でバスケットコートを備えた公園の前に差しかかった時、ふとコートの方に目をやると、センターライン付近に、使い込まれた感のあるバスケットボールが一つ転がっているのが見えた。
持ち主に見捨てられでもしたのか、ぽつんと佇む様はどこか哀愁を漂わせている。
何となく気になってしまい、園内に入りそのボールの元へと向かう。
拾い上げて感触を確かめてみる。空気はまだほとんど抜けていないようだ。
その場でドリブルを数回して感覚を掴むと、そのままスリーポイントラインまで進み、その手前で踏み止まって、ジャンプしつつワンハンドシュートを放った。
ボールは綺麗に放物線を描きながら宙を進み、ふぁさっと心地よい音を鳴らしながらリングを通過した。
「ひゅーつ! やるねぇ」
ぱちぱちという拍手とともに男性の声が届いてきた。
「ここんところあんまり顔見せないと思ってたけど、腕は鈍っちゃいないみたいだな」
「仁さん。お久しぶりです」
そちらに向き直って挨拶する。
彼は
ポイントガードでチームの司令塔として活躍するかなり名声のある選手だったらしいが、今から五年前、当時二十代半ばでパフォーマンスのピークを迎える全盛期の頃に、試合中に靭帯を損傷してしまい、そのまま引退を余儀なくされてしまったと聞いている。
俺は小五から中三であの事件が起きるまでは、バスケ部に入っていた。
事件後、バスケ部は自主的に退部したが、地元から離れた今の高校に入学してからは、自宅マンションの近くにあるこのバスケットコートにたまにきては、一人でドリブルやシュートをして遊び半分でボールに触れていた。
そこに現れたのが、この仁さんだ。
彼は、俺が部活にも入らずに一人でバスケをしている理由については無理に聞き出そうとはせず、その練習に付き合ってくれるだけでなく、指導までしてくれるようになった。
それ以来、このバスケットコートで会う時だけだが、仁さんとの付き合いは続いている。
「今日はコーチの仕事は休みですか?」
「ああ。それで暇してたんだが、ここにくればお前に会えるような気がしてな。試しにきてみたらドンピシャよ。どうよ、俺の勘は冴え渡ってるだろ?」
「競馬じゃ馬券を外しまくってる仁さんですけどね」
俺が鋭く突っ込みを入れると、仁さんは戯けた仕草で胸を手で押さえてみせた。
「うぐっ、痛いところを⋯⋯」
「仁さんバスケと違って勝負運ないんですから、もうギャンブルは辞めたらどうですか?」
「馬鹿な事言うな。ギャンブルは俺のアイデンティティだ」
「そんなものが個性だって言うんなら、すぐにドブにでも捨てた方がいいですよ」
「お前も言うようになったなぁ⋯⋯ここで最初に会った時は、まるで世界中の悲劇を全部自分一人で背負い込んでるような陰鬱な顔して、愛想笑いの一つもしなかったっていうのに」
「あれから俺も成長したんですよ」
「そうかい。まぁ冗談を言えるくらいには明るくなったって事なんだろうな。でも見たところ今日は何か複雑そうな顔してるように見えるな。何かあったのか?」
普段はおちゃらけているくせに、こういうところは鋭い。
「ええ、まぁ。ただあったというよりはこれからある感じなんですけど」
「話してみろよ。自分だけで抱え込んでるよりかは幾らかましだろ」
「それじゃあ。ネット上で知り合ってメッセージのやり取りをしていた人と、明日オフ会する事になったんですよ」
「へぇ、オフ会ねぇ。それでその相手は男か、女か、どっちなんだ?」
「確かめた事はないですけど、たぶん社会人の男性ですよ」
「何だよ、男かよ。しかも大人って⋯⋯それなら別に緊張なんかはする必要ないだろ?」
「これまでいい関係を築けてきたと思ってるから、もちろん期待する気持ちもありますけど、どうしても不安もついて回るんですよ。失敗して相手に見限られてしまわないかとか、色々と」
「お前、運動神経はいいけど、性格が不器用だからなぁ。でもまぁネット上であっても、お前にそういう付き合いが出来る相手がいるって分かって何か安心したわ。そういう繋がりは大事にしろよ」
「ええ。そのつもりでいます。それより何かオフ会に向けての有益なアドバイスとかはないんですか?」
「ん? そりゃあお前、当たって砕けてこいよ」
「砕けたくはないです。仁さんに聞いた俺が馬鹿でした」
「ははっ。まぁなるようになるさ。よし! お前の成功を祈って、景気づけに一勝負いっとくか。三十ポイント先取した方が勝ちで、負けた方はジュース一本奢りな」
「いい年した大人が
「細かい事は気にすんな。ほら、始めるぞ。お前が先制でいいから」
「はぁ⋯⋯分かりましたよ。でも少しは手加減してくださいね」
その後、誘われるままに仁さんと1on1の勝負をしたが、大人げなく全力プレイする彼に終始圧倒され、結局ダブルスコアの大差をつけられて惨敗し、ジュースを一本奢らされる結果に終わった。
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