0.いつだって現実ってやつは俺に歩み寄っちゃくれない
この現実というものは、どこか作り物めいていて、海辺の砂浜で作られた小さなお城みたいに、ちょっとした事で頼りなくすぐに形を崩してしまう。
おそらく創造主が、あり合わせのもので
出来損ないの紛い物。
皆、そんな儚い刹那的な世界で、曖昧な関係に縋りつき、何の保証もない不安定な日常に身を委ねている。
泣き出したい程に空虚だ。
深い森の中を彷徨う迷い人のように。
暗い海の底に沈んでいく溺れる者のように。
砂漠の真ん中で潤いを求める漂流者のように。
一歩足を踏み外せばすぐに苦境に立たされるのが、このシュールレアリスム絵画のように虚構が入り混じった現代社会に生きる者達の宿命なのだ。
嗚呼、この目に映るなんの感情も抱けない痛ましい情景を千切って粉々になるまで砕いて、真逆の夢に溢れた空想の世界にこの身を持って飛びこめたら、どれだけ望外の喜びだろう。
──そんな事は、ただのくだらない妄想にすぎない。お前みたいに、社会に上手く適合出来ない脆弱な人間が抱く、使い古された雑巾みたいに薄汚れた浅はかな願いだ。
剥離されたもう一人の自分が、そう辛辣に突きつけてせせら笑う。
分かっているさ。
俺には、例えそう出来たとしても、そこから逃げ出す資格なんてないんだから。
出来る事と言えば、ただその痛みに耐えながら、惨めったらしく底辺を這いずるだけ。
俺のレゾンデートルなんて、その程度のものでしかない。
灯る事を遥かの彼方に置き忘れてきたような真っ暗な夜にも似た、光が一切射さない深奥で思う。
耳に嵌めたイヤホンから流れてくるRadioheadの『Creep』を聴きつつ、その歌詞に描かれている劣等感と自己破壊的な衝動に自分を重ねながら。
そんな益体もない時間を過ごしつつ電車に揺られ、しばらくして目的の駅に停まった電車を降りて、人混みに混じり改札へと向かった。
今日は妹のピアノコンクールに招待されて、それを鑑賞しにいっていた。
そこでまだ中学三年生の妹は、素晴らしいパフォーマンスを見せて大トリを飾り、並み居るライバル達を押しのけて見事に優勝の栄冠を手にした。
そうそうできる事じゃあない。
本当に優れた妹だと思う。
けれど、そんな妹の繊細な白い指が奏でる流麗な音色でさえ、俺のこの伽藍洞な胸の裡を埋める事は出来ない。
三年前のあの日を境に、俺は本来の自分というものを、どこかに置き忘れてきてしまったんだろう。
──誰もが称賛する妹とは違って、そんな俺にはなんの価値もないからな⋯⋯。
自嘲気味にそう心の中で呟きながら、改札を抜けて雑踏でざわめく構内を歩いていると、そこに見知った顔を見かけた。
⋯⋯あいつは、白鳥か⋯⋯。
クラスメイトの女子だ。
まだ幼い小学二、三年生程の少年がその傍らに寄り添っている。
その彼女達を囲むようにして、やけにチャラついた格好の見た感じ大学生くらいの若い男が二人立っている。
「ねぇ、いいでしょ? そんなガキ放っておいて、俺達といいことしようよー」
あれだけ馴れ馴れしく誘いかけるという事は、このチャラ男一号、常習犯だな。
「俺達たくさんお金持ってるから、全部奢ってあげるよ」
チャラ男二号が、いやらしい視線で彼女の全身を舐め回すように見ながら続ける。
「あ⋯⋯うぅ⋯⋯」
それに対し、白鳥は酷く怯えた表情で身を震わせるばかりで、まともに言葉も返せないようだ。
⋯⋯疑うまでもなく、ナンパだな。
面倒な場面に出くわしてしまった。
別に俺は正義の味方というわけでもないので、このまま見て見ぬ振りをしても構わないんだが、そうした事によって彼女達が酷い目にでも遭わされたら、さすがに寝覚めが悪い。
周りを行き交う人達は、関わり合いになりたくないらしく、目に入っていないかのように無視して通り過ぎていく。
──仕方ない。全く気は乗らないが、ちょっと干渉してやる事にしよう。
「さぁ、俺達が楽しませてあげるから、おいでよ」
チャラ男二号が乱暴な所作で白鳥の腕を取った。
「ちょっ──ッ!」
嫌がる白鳥が、必死に抵抗しようと身を捩る。
「お姉ちゃんをいじめるな!」
それまで白鳥の背後にその小さな身を隠しながらチャラ男達をきっと睨んでいた幼い少年が、チャラ男二号の傍に近づき、その脛を蹴り上げた。
「いてっ! 何しやがる、このクソガキ!」
痛みに短く呻きながら、チャラ男二号は白鳥から手を離すと、その手で今度は幼い少年の胸ぐらを掴もうとする。
が、そっと傍に近づいていた俺が、少年へと伸びるチャラ男二号の手首を掴み、低い声で凄んで見せた。
「やめろ」
「何だお前──っていててててっ!」
俺が手首を握る手に力をこめると、チャラ男二号は、顔を顰めながら大きな悲鳴を上げた。
「その年になって、ナンパなんて恥ずかしい真似をしただけじゃなく、こんな小さい子にまで手を上げようとするなんて、情けなさすぎるだろ」
「分かった、もう分かったから、早く手を離してくれ! 骨が折れちまう!」
チャラ男二号に涙ながらに懇願され、仕方なく手を離してやる。
「くそっ! やってられねぇ! もう行こうぜ!」
「あ、あぁ⋯⋯」
チャラ男二号はそう汚い言葉遣いで吐き捨てると、チャラ男一号に心配されながら、その場から立ち去っていった。
「あ、あの⋯⋯緋本君 、だよね? 同じクラスの⋯⋯」
チャラ男達から解放されて安堵した様子の白鳥が、おずおずとした様子で聞いてきた。
「まぁ、そうだな」
視線も合わせずに、素っ気ない答えだけ返す。
「やっぱり! 助けてくれてどうもありがとう!」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
姉弟揃ってストレートに礼を伝えてくる。
「気にするな。じゃあな」
俺は手短に別れを告げると、さっさとその場から離れた。
暴力を振るうと、嫌な過去がちくちくと刺激を受けて想起させられ、胸が悪くなる。
ああして素直な感謝を向けられても、一向に気分は晴れない。
むしろ自分の醜さを再確認させられるだけだ。
やっぱり現実ってやつは、受け入れ難い事ばかりで、少しも俺に歩み寄っちゃくれない──それだけが、避けようのない真実だ。
俺は早く一時の安寧をもたらしてくれる空想の世界に浸ろうと、足早に帰路を急いだ。
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