ロジスティクス ――失ったものの代わりに――

路外の毛むくじゃら

プロローグ



 遠くの方から、人々の叫び声が聞こえる。

 雄叫びばかりの喧騒をただ眺めているだけみたいな、意識の外側の暴動。

だけどそれは、だんだんと大きくなって、気が付けば、俺の頭を揺さぶっていた。


 意味を持たない叫び声。砂埃が絡みつくような渇いた臭い。周りを取り囲む密集した人々と、その先には映画でしかみたことのないような戦場。


 俺に背を向け蠢く無数の人々は、誰もが皆、そら豆みたいな兜とくすんだ青色の衣服を身に纏い、身の丈の三倍を超える長さの棒と、雫みたいな形の大きな盾を構えていた。


(な、なんだよ。これ……)


 突然押し付けられた光景に身体が固まる。ただ尻もちをつかないように踏ん張るだけで精一杯。逃げることも、尋ねることも、喚くことも、何もできない。

 だけど、そんな無抵抗な足掻きは、すぐに払いのけられた。爆音が、俺の身体を包み込んだのだ。


「……っ! く、ぁ……」


 まるで、真横で交通事故でも起きたかのような音。たぶん、銃声だったと思う。でも、それ以上は考えられなかった。

 耳にぼんやりと届くのは誰かの怒号達。遠くで聞こえているはずなのに、皮膚が泡立つ。


「隊列を乱すなッ! 進めええええッ!」

「槍を構えろっ! 下げるなっ!」

「撃てぇえええええっ! 撃てぇえええええっ! 撃てぇえええええっ!」


 怒号が鮮明になっていく。遠くだと思っていたのは、ただ耳がぼやけていただけ。

 気が付けば、前に、横に、後ろからも、鼓膜を叩く轟音が響いていた。


「ぅ……、ぁ……」

(なんだよこれ! なんなんだよ! なんなんだよッ!?)


 夢だ、夢だと俺の声が言い縋る。でも、全ての五感が『現実だ』って言葉を突き付けてくる。

 肌の震える音。日焼けの跡すらわかる衣服の色。喉に絡みつく砂埃。土と鉄の臭い。熱。

 目の前では、長銃を構えた兵士達が撃っては下がり撃っては下がり、入れ代わり立ち代わり槍を構えた兵士の隙間を縫うように走っている。下がった兵士達は手指を黒く染めて銃身に弾と火薬を詰め込んで、また、爆音を轟かせに行く。

 そして、その中にはもちろん、見知った顔は居なかった。


 赤、青、緑の色とりどりの瞳達。よく焼けた肌に白い肌。皺もシミも、ホクロも、痣も、みんな俺の知らない人達だ。日本人じゃない、どこか別の国の人達だ。


 現実? あり得ないだろ! 俺は日本に居たはずだぞ? なのにこんな急にわけのわからない場所に突っ立って! 学校は? 家は? ああ、そうだ。夢以外にあり得ないんだ……!


 ベッドの中か、授業中の居眠りか。いつか見た映画の夢でも見ているんだろう。


(……夢なら思い通りに動くよな?)


 例えば、雨でも降らしてみようか。そうすれば火薬も濡れて静かになるかもしれない。

 そう思って右手を空に掲げれば、その先には曇天と、煌めく何か……。


 それは、太陽みたいなオレンジ色の火の玉だった。もはや隕石と表現した方がしっくり来そうな熱塊が、俺の、俺達の方へと向かって来ていたのだ。


「は、ははは……。ムチャクチャだろ、この夢……」


 出た声に違和感を覚える。

 でも、その違和感は、隣で鋭く飛んだ老人の声に掻き消された。


「魔法障壁、展開ッ!」


 しわがれた、けれども力強く響いた芯のある声に肌がヒリついた。


 もう一度、声。


「魔法障壁展開ッ!」


 夢ならば、あるいは漫画や映画の一場面でもいい。それなら、ここで綺麗に火球を弾くバリアが展開されたことだろう。

 でも、これは夢じゃない。だって、俺の思い通りにも、俺の都合のいいようにも転がらないんだから。

 空にはなんの変化も訪れず、火球は相変わらずこちらへ向かってきている。

 直後、俺の肩を何かが掴み、引き上げた。その衝撃は、否定しようもないほどの痛みだった。

 見れば、身の丈が二メートルにも届きそうな程の老兵が険しい顔で俺を見下ろしていた。


「おい! シェルマー! 魔法障壁だ! 聞こえなかったのか!?」


 青い瞳が俺を覗く。深く皺の刻まれた、焦りの浮かんだ顔が覗く。声は先程叫んでいた老人と同じで、けれど、その名前に聞き覚えはない。


「い、いや、それ、俺じゃないっす、よ……?」


 ……また、違和感。

 老人の顔が歪む。怒りにも、絶望にも見えるその顔が、吐き捨てるように叫ぶ。


「っ。クソがッ! 退避ッ! 退避ッ! 散れえええっ! 散――」


 顔が影に包まれて、背後を火球が過ぎ去った。一瞬だけ。もう、空は見えない。

 焦げ茶の煙が渦を巻く。肌を叩く轟音と、土と砂利とを巻き込んで。他にも何かを巻き込んで。

 くすんだ青の破片。へし折れた槍に砕けた銃身。真っ黒な何か。赤くぬらめく断面。頸。


 そうだ……。これは、夢じゃない……。現実だ。現実の、戦場なんだ……。


 音が消え、視界が揺れ、だけど臭いだけが強くなる。土の苦い臭い。鉄錆の刺す臭い。肉の焦げた残る臭いに、甘ったるい血の臭い。


「ぅ……、ぁ……、ぁ……」


 這いつくばって、ただ足掻く。俺が何をしたところで意味はないのに、身体が勝手に動いている。


(逃げなきゃ……、死ぬ……)


 そんな音の消えた世界の中を掻き分けるように、また、老人の声が聞こえた。


「伏せろッ! 引火するぞッ!」


 何度も聞いた老人の声。あの人は、叫べるくらいには無事だったらしい。


 そして、それを最後に、俺の視界はとうとう何も映さなくなった。

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