双剣のエルナは二度と仲間を持たない ——それでも、その夜だけは走った
アズマ マコト
第1話黄昏の憂鬱、あの日と同じ鉄の匂い
黄昏が城壁を喰らい、その血をフォルティアの街に注いでいた。
冒険者ギルドのホールは、古血と蜂蜜を混ぜたような光に満たされ、床を転がる空樽と、そこで酔い潰れた男たちの長い影を醜く引き伸ばしている。舞い上がる埃の一粒一粒が、断末魔の光を浴びてきらめいていた。
ホールは祈りと呪詛の熱に浮かされていた。
「見たか、あのオーガの顎を砕いた俺の戦斧の一撃!」
「だから言っただろう、沼沢のリザードマンに氷魔法は悪手だと。頭まで筋肉か、お前は」
「祝杯だ! エン婆、一番高いエールを! 勘定はこいつの剥ぎ取った素材で払う!」
鬨の声、敗者の愚痴、明日への希望的観測。あらゆる感情が、汗とエール、安物の香油、そして拭い去れぬ死線の匂いと混じり合い、煮詰まって、この場所だけの淀んだ活気を生み出している。誰もが今日という一日を殺し、明日を生きるための糧を漁っていた。
その濁流から切り離された、絶対零度の孤島があった。
ギルドの最奥。暖炉の火も届かぬ隅の席。まるで世界の理から隔絶されたかのように、エルナはただ、そこにいた。
周囲の喧騒は、分厚い氷壁の向こうから響く残響音のようだ。琥珀色の液体が満たされたジョッキを、彼女は熟達した儀式のように口元へ運ぶ。その視線は、窓の外で最後の色を失っていく空の、名もなき一点に縫い付けられていた。
灰色の瞳は、しかし、その熱狂の何一つ映してはいなかった。
数え切れぬ戦場と、それ以上の数の墓標を呑み込んできた者の色。陽の届かぬ森の奥、凍てついた湖面のように静かで、その深淵を誰にも覗かせない。研ぎ澄まされた諦観と、消えぬ憂いが、硝子細工のような均衡を保って彼女の中で息を潜めていた。
ふと、カウンターの奥から影がひとつ動いた。このギルド酒場を半世紀近く切り盛りしてきた女主人、エン・ブーザーだ。年季で黒光りするエプロン、無数の樽を抱え、ときに冒険者の背を叩いてきた節くれだった腕。彼女は騒がしいテーブルの間を、水鳥が葦の間を縫うように滑り抜け、空の食器を回収していく。
やがて、その足はエルナのテーブルで止まった。
エンは何も言わない。エルナの手元で空になったジョッキをただ一瞥し、静かにそれを取り上げる。そして、音ひとつ立てず、満たされた新しいジョッキを置いた。きめ細やかな泡が、夕陽の最後の残滓を映して、儚く燃えている。
エルナは虚空を見ていた視線を僅かに落とし、テーブルの上のそれに移す。エンの顔は見ない。ただ、ほとんど誰にも知覚できぬほど微かに、一度だけ頷いた。
言葉はない。視線の交錯すらない。だが、その沈黙には、十年を超える歳月が織り上げた、言葉をとうに置き去りにした獣じみた信頼が満ちていた。エンは、エルナが他者との間に引く見えない境界線を、誰よりも深く理解していた。
背を向け、カウンターへ戻りながら、エンは独り言のように呟いた。ギルドの喧騒に溶けて消えそうな、低い声だった。
「……そういや、森の東が、どうにもきな臭くてね。聴き慣れない羽音。腐臭とも違う、異質な森の匂い……。古株ほど、何かに怯えてる」
誰に聞かせるでもない、ただ漏れ出ただけの懸念。
だがその言葉の破片は、エルナの意識という静かな湖面に、小さな、しかし消えない波紋を刻んだ。彼女は表情を変えぬまま、新しいエールを一口、ゆっくりと喉に流し込む。冷たい液体が、胸の奥で燻る何かを無理やり鎮めるようだった。
(この喧騒も、いつか誰かが欠けることで静寂に変わる)
脳裏に、今この場で笑い合う若者たちの顔が浮かび、陽炎のように消える。かつて、自分にもそうした仲間がいた。その声も、熱も、今はもう遠い。死と隣り合わせのこの稼業において、仲間とは、いずれ必ず喪うものだ。だからもう、深くは関わらない。誰かの死に魂を削られるのは、もう二度とごめんだ。
エルナは、自らをこれ以上損なわないための、最後の防壁を築いている。
それでも、この変わらないギルドの日常が、明日も続くことに対して、ほんの僅かな安堵を覚える自分を自覚していた。失うと知りながら、この灯りの熱を捨てきれない。その矛盾こそが、自分がまだここにいる理由なのかもしれなかった。
やがて最後の光が地平線に呑まれ、窓は深い藍に染まる。エンがランプに火を灯し始めると、揺らめく炎が冒険者たちの顔を、そして隅で一人佇むエルナの横顔を、静かに照らし出した。
世界が息を殺す、ほんの僅かな瞬き。嵐の前の凪。
その予兆を、エルナだけが肌で感じていた。
---
午後の陽光は、怠惰な捕食者のように、高い窓からギルドホールへと侵入していた。昨夜の喧騒の残り香と埃を絡め取り、琥珀色の光の帯となって、静まり返った空間を緩慢に漂っている。カウンターの向こうで受付嬢が羊皮紙をめくる音と、古参の冒険者たちが交わす低い声だけが、午睡のような静寂に溶けていた。
エルナは奥の席で、その静寂に身を浸していた。
手にしたエールの冷たさが、革手袋越しに神経を鈍らせる。他者との間に築いた壁の内側で、緩やかに呼吸をする。関わらなければ、失うことはない。守ろうとさえしなければ、守れなかったと悔やむこともない。
その気怠い均衡は、破城槌めいた轟音と共に砕け散った。
ギルドの重厚な扉が、内側へ向かって弾け飛ぶように開け放たれる。静寂はガラスのようにひび割れ、暴力的な光の奔流と街路の喧騒が、澱んだホールへと雪崩れ込んできた。
「帰還した! Dランク討伐、被害ゼロで完遂だ!」
「報告通り、ゴブリンの巣はもぬけの殻だったぜ! ついてたな!」
若さという無防備な刃のような声が、ホールに突き刺さる。
リーダー格の少年――カイルが、傷ひとつない胸当てを誇らしげに叩いて叫んだ。彼の背後から、同じく血色の良い顔をした弓使いの少女と小柄な魔術師が、勝利の熱を隠しきれずに続く。彼らが放つ、制御されていない生命力の奔流が、午後の気怠い空気を一瞬で掻き乱していった。
***
階下の祝祭が、分厚い床板を隔てて遠い世界の残響と化していく。若者たちの屈託ない鬨の声、エールを酌み交わす音――その全てが、エルナの意識から一枚、また一枚と剥がれ落ちていった。彼女は誰に言葉をかけるでもなく、影が壁から分離するように音もなく席を立つ。背中に突き刺さる熱狂を振り払い、その足は確信をもって、ギルドの二階へと続く階段へ向かった。
一歩、踏みしめるごとに、古びた木材が低い呻きを上げる。それはまるで、過去の過ちを咎める声のようだった。脳裏にこびりついた後悔の残滓を振り払うかのように、彼女は淡々と暗がりを昇っていく。
階段の先、重厚な樫の扉が彼女を待ち構えていた。長年の使用で黒光りする真鍮の取っ手に触れる。指先から血の気が引くような冷たさが、昂ぶりかけた感情を強制的に鎮静させていく。扉を開くと、凝固した時間が吐息のように漏れ出した。忘れられた警告と、インクの鉄錆びた匂い。そこは死んだ情報が眠る墓所――ギルド資料室だった。
窓から射す月光は青白く、巨大な書架の影をまるで墓標のように床へと伸ばしている。壁際に灯る魔導ランプの琥珀色の光だけが、無数の羊皮紙が眠る棚を厳かに照らし出していた。
エルナは一直線に奥へと進む。目指すは、あの若者たちが口にした「森の東側」に関する直近の記録。彼女の動きに狩人のごとき正確さがあったのは、胸の内で鳴り響く警鐘が、脳よりも先に身体を動かしているからに他ならなかった。それを否定したいのか、あるいは、最悪の確信を得たいのか。自問する間もなく、指先が目当ての棚に触れる。
分厚い革表紙の報告書(ログ)の束。その物理的な重さ以上に、そこに綴じられたであろう幾人もの冒険者の命の重みが、ずしりと腕にのしかかった。閲覧机まで運び、椅子を引く音ひとつ立てずに腰を下ろす。カンテラの光量を僅かに上げると、インクのかすれた文字が、闇の中から亡霊のように浮かび上がってきた。
***
乾いた殻が擦れるような音を立て、羊皮紙がめくられていく。エルナの双眸は、インクの染みを追うだけの硝子玉ではなかった。報告者、日付、依頼内容、達成度、特記事項――複数の報告書を卓上に並べ、その行間と余白に潜む“声なき声”を聴こうとしていた。熟練の狩人が血痕と足跡から獲物の姿を炙り出すように、彼女は情報の密林に分け入っていく。
やがて、しなやかな指先がある一点をなぞり、氷着したかのように止まった。
「依頼成功率……」
吐息に近い呟きは、書庫の沈黙に溶けて消える。ここ三ヶ月に限定して集計された「森の東側」担当区域の依頼成功率は、それ以前のデータと比較して、断崖のように落ち込んでいた。四割減。これは偶然や、新人の練度不足といったありふれた変数で説明のつく誤差ではない。何かが、この地域の“理”そのものを根底から歪めている。
さらにページを繰る。彼女の眉間に、険しい影が落ちた。
次に注意を引いたのは、討伐対象の内訳だった。ゴブリン、コボルト、大鼠――本来であれば森の生態系の最下層を形成し、駆け出しの冒険者にとって格好の経験値となるはずの小型モンスター。それらの討伐報告が、ここ数ヶ月で完全に途絶えている。まるで神隠しにでもあったかのように。
「ありえない……」
エルナは息を呑んだ。ゴブリンの繁殖力は病的なほどだ。一つの巣を潰したところで、いずれ別の場所に新たなコロニーが形成される。それが森の摂理。彼らが一斉に姿を消すなど、天変地異に等しい異常事態だ。それは、より高次の捕食者が君臨し、餌場を根こそぎ“掃除”してしまった後のような、不気味な静寂だった。
カイルたちは言っていた。「ゴブリンの巣はもぬけの殻だった」と。彼らはそれを幸運だと笑った。だが、違う。それは幸運などではない。巨大な獣が晩餐を終えた、静かな食卓に足を踏み入れたに過ぎないのだ。
点と点が繋がり、おぼろげな輪郭を描き始める。だが、その核心を突くための刃が足りない。上位捕食者の正体とは。エルナは最近の記録から一度視線を外し、書架のさらに奥、埃を被った古文書の棚へと手を伸ばした。こういう時、答えはしばしば、忘れ去られた過去の墓標に刻まれている。
数年前の、黄ばみ、端が脆くなった羊皮紙の束。色褪せたインクの染みは、そのほとんどが取るに足らない日々の記録だ。根気のいる作業だったが、彼女の集中力は剃刀の刃のように研ぎ澄まされていた。そして、ついにその一行を探り当てた。
それは、とあるBランク冒険者が提出した偵察任務報告書の片隅に、走り書きのように記されていた。
『同エリアにて、獅子らしき大型獣の足跡と、尾を引き摺ったような痕跡を発見。詳細は不明』
その一文が網膜を焼いた瞬間、氷の楔がエルナの脊髄に打ち込まれた。
獅子。そして、引き摺られた尾。
二つの単語が、脳内で霧散していた全ての情報を、冷たい鉄の鎖で繋ぎ止めた。
小型モンスターの消失は、新たな捕食者が縄張りを主張し、喰らい尽くした結果。
依頼成功率の低下は、その捕食者が冒険者をも獲物として認識し始めた兆候。
そして、カイルたちが見たもぬけの殻の巣。それはゴブリンたちが逃げ出した跡だ。その“何か”の接近を察知し、防衛すら放棄して逃走したのだ。
胸騒ぎは、もはや予感ではなかった。氷点下の確信へと変貌していた。
(生存率の低下、生態系の破壊……データは嘘をつかない。いつだって真実を語るのは、人間の希望的観測ではなく、無慈悲な数字だ)
ふと、ギルドの受付嬢が嘆いていた言葉が脳裏をよぎる。
『伸び盛りのDランク冒険者が、最も死亡率が高い』
それはギルドの歴史に血で記された、冷厳な統計だった。実力がつき始め、自信が油断へと変わる。世界の広さと、そこに潜む脅威の本当の深さを知る前に、彼らは己の力を過信して深淵へと足を踏み入れる。
カイルたちの、誇らしげで、どこか無邪気な笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの子たちは、自分たちが巨大な蜘蛛の巣の上で踊っていることに、気づいてすらいない。
焦燥が、熱い鉄のように胸を焼く。
もはや一刻の猶予もなかった。
エルナは報告書を叩きつけるように卓上へ戻すと、静かに、しかし鋼の決意を込めて立ち上がった。魔導ランプの光が、彼女の横顔に硬質な影を落としていた。
---
資料室の重い扉が、鈍い呻きを上げてエルナの背後で閉ざされた。埃と古紙の乾いた匂いが断ち切られ、代わりにひやりとした夜気が肌を撫でる。
一階の酒場から漏れ聞こえる喧騒が、分厚い床板を震わせ、静寂な廊下にまで低く響いていた。杯を打ち合わせる音、野太い笑い声、吟遊詩人が爪弾くリュートの陽気な旋律。その生の奔流が、今のエルナにはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
彼女は活気の中へ戻る気になれず、磨かれた石造りの廊下の片隅、窓際に吸い寄せられるように足を止めた。嵌め殺しの窓ガラスの向こうは、深い藍色に染まり始めている。街の灯りがぽつりぽつりと灯り、夜の帳が世界を覆っていく様を、エルナはただ無感情に眺めていた。
その時だった。ひときわ大きく、天真爛漫な歓声が階下から突き上げてきたのは。
「やったな、カイル! あれは大手柄だ!」
「当たり前だろ! 俺たちにかかれば、ゴブリンの巣なんて!」
まだ声変わりも済んでいない、若く、自信に満ちた声。カイルとその仲間たちだ。今日の依頼の成功を祝している。成功に浮かれ、仲間との絆を確かめ、未来への希望に胸を膨らませている。その、あまりにも純粋で、危ういほどに輝きに満ちた笑い声が――引き金になった。
不意に、耳の奥で甲高い金属音が鳴り響く。
遠ざかるはずの笑い声が、水中にいるかのように歪み、反響し、やがて全く別の音色へと溶解していく。それは、かつて聞き慣れていたはずの声。まだ幼さの残る、後輩たちの声だった。
――先輩! やりました!
脳裏に、映像はない。ただ、感覚だけが鮮烈に蘇る。
鼻腔の奥を刺す、鉄錆と土の混じった甘ったるい臭気。血の匂いだ。自分のではない。仲間たちの。
鼓膜を打つのは歓喜の声ではない。恐怖に引き裂かれるような短い悲鳴。助けを求める、か細い叫び。それが不意に途絶えた時の、心臓が凍てつくような絶対的な静寂。
――助けて、エルナ先輩……!
伸ばした手が虚空を掻く。指先に触れるはずだった温もりはなく、ただぬるりとした生温かい液体がまとわりつくだけ。あと一歩。ほんの、あと一歩だった。その一歩が、永遠に届かなかった。自分の両足が鉛と化し、喉が張り付いて声も出なかった、あの絶望の瞬間。
「……っ」
エルナは息を詰め、無意識に己の腕を強く抱きしめていた。爪が皮膚に食い込むほどの力で。窓ガラスに映る自分の顔は、血の気を失い、まるで死人のように強張っていた。
カイルたちの笑い声が、再び現実の音として遠くに聞こえる。それはもう、後輩たちの断末魔とは重ならない。だが、その無邪気さが、かえって彼女の心の古傷を容赦なく抉った。
***
『二度と、誰かのために剣は抜かない』
血の海と、折り重なる骸の中で立てた誓いが、亡霊の痛みとなって魂を苛む。
『誰かを率いることも、誰かを救おうとすることも、金輪際ごめんだ』
喪失の痛みは、存在の根を腐らせる。骨の芯まで凍てつかせるあの絶望と無力感を、二度と味わうわけにはいかない。だから壁を築いた。誰の領域にも踏み込まず、ただ独りで依頼をこなし、危険は予兆のうちに摘み取る。それが、エルナが自らに課した、血で刻んだ戒律だったはずだ。
「……怖い」
絞り出した声は、誰に聞かせるでもない魂の呻き。
「また……間に合わなかったら?」
あの地獄が、この街で再現される。その予感が、冷たい霧となって臓腑にまとわりつく。資料室で洗い出した記録――小型モンスターの討伐報告の不自然な途絶、過去の巨大昆虫種の出現周期との不気味な一致――が、その予感を確信へと変えていた。危険は、すでに孵化している。カイルたちのような、牙の研ぎ方も知らない若者たちが、その最初の餌食になる。
『だが』
戒律が魂に食い込む。それでも、本質が叫びを上げた。
『このまま見過ごせば、あの子たちは死ぬ』
そうなれば、結果は同じだ。いや、違う。もっと、救いがない。あの日は、死力を尽くして戦い、それでも守れなかった。だが、今回は? 危険を知りながら、背を向けたことになる。それは敗北ですらない。見殺しという名の、裏切りだ。
「あの子達は、私じゃない……」
エルナは呪文のように呟き、かぶりを振った。
「あの日の……あの子達とも、違う」
分かっている。カイルはカイルで、死んだ後輩の幻影ではない。だが、瞳の奥に宿る光が、あまりにも似すぎていた。冒険という仕事への純粋な憧憬。仲間への疑いなき信頼。そして、若さという名の、無防備な傲慢さと、汚れを知らぬ純粋さ。
あの日の後輩たちも、まったく同じ目をしていた。
「……二度と、あんな思いは」
その言葉が、今度はまったく違う意味の刃となって胸に突き立った。
自分が傷つくことへの怯えではない。
あの子達に、自分と同じ地獄を歩ませたくないという、祈りに似た絶叫。仲間を失い、希望を砕かれ、生き残った罪悪感に苛まれ続ける……そんな奈落を、誰にも味わわせたくない。
守れなかった者たちへの、決して消えることのない贖罪の念。それが、恐怖で塗り固めた何年もの壁に亀裂を入れ、音を立てて砕き、塵と化した。
ふっ、と。
苦悶に歪んでいたエルナの貌から、すべての情動が抜け落ちた。強張っていた肩の力が抜け、固く引き結ばれていた唇がわずかに開く。だがそれは、諦念ではなかった。
再び彼女が顔を上げた時、その双眸から怯えや葛藤の色は消え失せていた。
そこにあったのは、嵐の後の、凪いだ夜の海のような静けさ。あるいは、炉で熱せられ、幾度も打たれた鋼の硬質な輝き。
魂の芯で燻っていた熾火が、再び赫々と熱を帯びた。
もはや迷いはない。
往くべき道は、ただ一つ。
たとえ再び、あの悪夢の淵に身を投じることになろうとも。
今度こそ、間に合わせるために。
---
決意は、肉体から一切の躊躇いを削ぎ落としていた。エルナの足取りは音もなく、だがその一歩一歩が揺るぎない目的を宿している。夜の闇に溶け込むための備えは、すでに彼女の第二の皮膚となっていた。身体に吸い付く軽量の革鎧は、呼吸に合わせてしなやかに軋み、腰のポーチや投げナイフの鞘は、執拗なまでの点検によって走っても跳んでも沈黙を守る。
若者たちの喧騒が嘘のように消え去ったギルドホールは、巨大な獣の亡骸のようだ。天井から吊るされた幾つかの魔導ランプだけが、琥珀色の血溜まりを床に作り、異形の怪物のように影を蠢かせている。エルナは依頼掲示板に一瞥もくれず、静まり返った受付カウンターへ直進した。
カウンターの向こうで、顔なじみの夜勤職員が帳簿に羽根ペンを滑らせていた。エルナの殺気にも似た気配に顔を上げた男は、彼女の完全な戦闘支度を見て、わずかに眉根を寄せる。
「エルナさん。こんな夜更けに……何か急ぎか」
「夜間通用口の鍵を」
エルナの言葉は、意味を成す最小限の音節で構成されていた。挨拶も、説明もない。それが彼女の尋常ならざる覚悟を雄弁に物語っていた。職員は何かを鋭く察し、無言で頷くと、カウンターの下から重い真鍮の鍵束を取り出した。
「へい……。東の森、ですかい。近頃、妙な噂が絶えやせん」
「……」
エルナは答えなかった。沈黙は、いかなる肯定よりも重い。男はそれ以上を問う愚を犯さず、目的の鍵を探し始めた。いくつもの鍵が触れ合う、渇いた金属音だけが、死んだような静寂を切り裂いていく。ほんの数秒。時計の針が一度進むよりも短い、取るに足らない時間。
だが、その数秒がエルナには永遠に感じられた。逸る心が、指先をカウンターの木目に走らせる。無意識にリズムを刻みそうになるのを、強く拳を握りしめることで殺した。掌に食い込む爪の痛みが、沸騰しそうな焦燥をかろうじて繋ぎとめる唯一の楔だった。
(派手な助太刀などしない。あの子達が気づかぬうちに、脅威の根を断つ。生きて帰らせる。それが、今の私にできる唯一の贖罪)
思考は、すでに冷徹な『仕事』の領域にあった。そこにかつての仲間を悼む感傷はなく、若者の無謀さを嘆く感情もない。ただ、為すべきことを為すという、氷のような使命感だけが燃えている。夜間警備の強化で、以前は自由に使えた扉が施錠されたのは単独行動の抑制も兼ねていたのだろうが、今の彼女を止める枷にはなり得ない。
「お待たせしました。これです」
差し出された一本の古びた鍵。エルナがそれを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、頭上の魔導ランプの光が、彼女の装備を鮮明に浮かび上がらせた。
使い込まれ、所有者の肉体の形を記憶した革鎧。その表面には、癒えることのなかった古傷が幾筋も走る。腰に差された投げナイフの柄は、持ち主の汗と、幾度も拭われたであろう血脂で鈍く黒光りしていた。
そして、最も目を引くのは、ベルトに固定された薬品帯(ポーション・ベルト)だった。そこには、様々な色の液体が満たされた十数本の薬瓶が、弾丸のように整然と並んでいる。回復薬の鮮緑、解毒薬の紫、そして用途不明の黒。その中で一本、粘性の高そうな琥珀色の液体だけが、微かに鼻を突く、特有の刺激臭を放っていた。虫除けの薬草にしてはあまりに強烈で、樹脂を焼いたような、それでいて獲物の血を沸き立たせるようなその香気は、特定の獲物を狩る者だけが用いる、特殊な錬金薬であることを示唆していた。
「……礼を言う」
***
会話を断ち切るように無骨な鉄の鍵を受け取ると、エルナは一瞥もくれずに踵を返した。ギルドの揺らめく灯火に背を向け、通用口の分厚い扉へと向かうその足取りに、躊躇いの欠片もなかった。贖罪とは、誰の目にも触れぬ場所で、血と泥に塗れてこそ意味を成す。それが彼女の骨身に染みついた唯一の真実だった。
冷え切った鉄が、同じく冷たい錠前に滑り込む。臓腑の奥で響くような鈍い金属音と共に留め金が外れ、樫材に鉄を打ち付けた扉を押し開くと、死者の吐息のような夜気が彼女の肌を焼いた。中に満ちていた酒と汗の澱んだ熱気とは異質の、湿った土と腐葉土、そして微かな獣の血の匂いを孕んだ風。それは彼女がこれから踏み込むべき戦場の香りだった。
闇への一歩を踏み出した途端、肌を刺す気配にエルナは天を仰いだ。西の空、その大半を臓腑を思わせる赤黒い雲が覆い、月を蝕んでいた。大地そのものが裂け、膿んだ血を天に吐き出しているかのようだ。
その光景は、彼女の網膜に焼き付いた過去の残像を呼び覚ます。だが、エルナは唇の端を僅かに引き締めただけで、その視線を不吉な空から地平の闇へと据え直した。
一歩、また一歩と、夜の森へその身を沈めていく。表情は凪いだ水面のように静かだったが、その瞳の奥には、決して揺らぐことのない底なしの覚悟が宿っていた。闇は彼女を拒まなかった。むしろ、久しく帰らない主を迎えるように、その輪郭を静かに受け入れた。
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