改造戦闘員、事故で洗脳が解ける ~元・敏腕政治秘書ですが、バレたら即廃棄なので「イーッ!」と従順なフリして裏から組織を乗っ取ります~

祝日

第1話:戦闘員1024号、永田町(じごく)を思い出す

 ぶくぶくと、濁った緑色の液体の中で気泡が弾けた。肺に流れ込んでくるのは酸素ではなく、鼻を刺す強烈な薬品の臭いだ。


(……ああ、またか)


 意識の底で、男――黒田大和くろだ やまとは、不快感とともに舌打ちした。また、あの選挙の朝が来たのだと思った。支持率一桁の崖っぷち。公示日前日の深夜、事務所の奥で泥のように眠り、目が覚めるたびに絶望的なスケジュールが脳内を駆け巡る、あの「戦場」へ。


 だが、何かが決定的に違っていた。脳を焼くような、鋭利な痛みが走る。物理的に、脳の深層部を「針」でかき回されているような感覚。


「……ククッ、増幅率は安定。恐怖心は完全に切除した。これで我が組織『アビス』の、総統カイザー閣下への忠実なる駒となるがいい……!」


 くぐもったガラスの向こう。歪んで見える視界の中に、白衣を纏った男がいた。狂気じみた笑みを浮かべ、キーボードを叩いている。


(アビス……? 駒……? 何を言ってやがる、あのヤブ医者は。俺を誰だと思って……)


 反論しようとしたが、声が出ない。黒田は激痛に耐え、強引に意識のスイッチを入れた。長年の秘書生活で叩き込まれた、非常事態への即応。だが、把握した「現状」は、彼の理解を遥かに超えていた。


(待て。帰宅途中、漆黒のバンに連れ込まれた。そこまではいい。だが……なんだ、この手は!?)


 視界に入ったのは、見慣れた高級腕時計でも、選挙名簿を握りしめた指先でもなかった。漆黒のラバー素材に包まれた、人間味のない「節くれだった拳」だった。


(……は? 嘘だろ。おい、なんだこれ。ドッキリか? 特撮の撮影現場か!?)


 慌てて培養液を満たした強化ガラスを鏡代わりにする。そこに映っていたのは、黒田大和ではない。表情を奪う無機質な、ドクロを模したガスマスク状のヘルメット。安っぽい質感の漆黒の強化スーツ。胸元には、無情にも「1024」という数字が刻まれている。


(……ザコ戦闘員? 悪の組織の、あの、使い捨ての? 嘘だろ……。俺は、次期総理候補の秘書だぞ。これから日本を動かすんだぞ……それが、なんで、こんな、日曜朝の悪役みたいな格好を……っ!)


 信じたくない。夢であってほしい。だが、脳裏を濁流のように過ったのは、手術台に縛り付けられ、ドリルが側頭部に迫ってきた記憶。そして、目の前の男が操作するモニターに浮かぶ、冷酷な一文だった。


『不適合個体:即時廃棄(焼却処分)』


(廃棄……? 殺されるのか? 俺が? こんな、わけのわからない場所で、ゴミみたいに……!?)


 心臓が早鐘を打つ。永田町でどれだけ修羅場を潜っても、これほどの「理不尽な死」が目前に迫ったことはなかった。


「最後だ。忠誠心を、自我の上書きを確認する。……個体番号『No.1024』。貴様の主は誰だ?」


 白衣の男――ゲノムが、コンソールに指をかける。あそこにある「廃棄ボタン」ひとつで、俺の人生は終わる。その時、黒田の脳内で「職業病」が爆発した。パニックを通り越し、生存本能が強制的に理性を稼働させる。


(……落ち着け。要は、『自我を失い、命令に従う駒になった』と、この狂った医者に思わせればいいんだな。演技なら……何千回とやってきた。有権者の前で、検察の前で、愛想の悪い支持者の前で!)


 黒田は、自らの精神にこびりついた「秘書」としての鉄の意志を盾にした。洗脳プログラムが脳を焼く。だが、彼はそれを「永田町でのパワハラ」と自己変換し、意識の奥底へ無理やり押し込めた。


(いいだろう。やってやる。生き残って、この訳の分からない状況から脱出してやる。そのためなら……ザコでも、犬でも、なんにでもなってやるよッ!)


 ドレンが抜け、培養液が排出される。プシュウ、と気の抜けた音を立ててガラスケースが開いた。黒田大和――否、戦闘員1024号は、床へと這い出る。ゲノムが期待に満ちた目で覗き込んできた。


「答えろ、1024!」


 黒田は、震える膝を必死に抑え込み、コンマ一秒の迷いもなく右手を斜め45度に突き上げた。


「イーッ!!!」


 それは、腹の底から絞り出した、あまりにも従順で、あまりにも空虚な、完璧な「ザコの叫び」だった。


(……待て、今の声はなんだ!?)


 叫んだ瞬間、黒田は自分の喉に走った奇妙な振動に戦慄した。脳内では「了解いたしました!」と叫んだはずなのに、口から出たのは強制変換されたような怪人の鳴き声。咄嗟にヘルメットの喉元付近に触れると、そこには極小の変声機――ボイスチェンジャーのユニットが埋め込まれている感触があった。


(……なるほど、言語統制か。喋る内容まで『ザコ』に固定されてやがる。だが、指先でこのユニットの出力をいじれば……あるいは、地声を隠したまま別の声を出せるかもしれん。……ふん、面白い。この『拡声器』、使い道はありそうだ)


 さらには、少しでも廃棄の可能性を減らそうと、頼まれてもいないのに踵を「カチーン!」と大袈裟に鳴らし、これ以上ないほど背筋をピンと伸ばして直立不動の姿勢をとる。


(……よし、見てろ。偉い奴ってのはな、こういう『思考停止した犬』みたいな反応が一番好きなんだよ。もっとだ。もっと媚びろ、俺。尻尾を振れ。ワンと鳴け!)


「おお、素晴らしい! 洗脳の定着率は完璧だ。自我の欠片も感じられん、美しいまでのゴミ屑っぷりだぞ!」


 ゲノムが狂喜し、1024の肩をベタベタと叩く。黒田はマスクの下で、卑屈な笑みを浮かべ続けた。   (……ああ、助かった。繋がった。首の皮一枚、繋がったぞ……)


 安堵で膝から崩れ落ちそうになるのを、気合で止める。ここで気を抜けば殺される。その実感が、ようやく彼に「この組織を分析しなければならない」という次なるステップを選ばせたのだ。


「ははは、そうかそうか。よし、貴様にはさっそく任務を与えてやる。ついてこい」


 ゲノムの後ろを、1024はマヌケな小走りで追いかける。歩幅を合わせ、わずかに斜め後ろを歩く。秘書時代に嫌というほど叩き込まれた「上司を立てる歩行技術」だ。


(……ふ、ふふ。ふざけんなよ……。何がアビスだ。何が戦闘員だ。覚えてろよ……こんな屈辱、倍にして返してやる。まずはこの組織の『帳簿』からだ。弱みを握って、どいつもこいつもブタ箱にぶち込んでやる……!)


 恐怖の反動で生まれたドス黒い怒りを、過剰な媚びのジェスチャーへと変換する。1024はゲノムが開けたドアに対して「どうぞどうぞ!」と道を開け、深々と頭を下げる。下げすぎてヘルメットが床につきそうになる。


「イーッ!(閣下、お足元お気をつけくださいッ! 段差がございますッ!)」


 黒一色のマスクの下で、元・敏腕秘書の瞳が、冷徹に、そして涙ぐましいほど卑屈に光った。

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