ep13 眠りのあいまに(1)

 あの時、彼の放った光の粒子を忘れられない。

 

 奇跡という言葉では、あれを語りきれない。

 若くして優秀と謳われ続けた『ルーエン=レーンハルト』として積み上げた自負が、ほんの一瞬だけ反抗心として顔を出して――すぐ、霧のように消えた。

 

 あれは、この世界の理を信じているだけの者には、決して生み出せない光だ。

 

 元より神子としてではなく、“ヒナタ”という人間を認めてはいた。

 教え子として可愛がっていた感情が決定的に変わったのは、あの魔法実技のときだった。

 

 初めて明るさ以外の感情を涙という形で見せた彼に、がつんとした衝撃を受けた。

 さらに、それが帰郷の念ではなく、記憶の消失が原因だと聞いた時は、なんと声をかけたらいいか分からないほどだった。

 それでも、彼はいつも通りに元の姿にもどって、講義をこなした。

 

 彼は強い人間だ。

 彼の中の強い信念が、彼を動かしている。それは明らかだった。

 

『なんで穢れって、生まれたのかな……』


 きっかけはその言葉だった。

 穢れを祓う術など、“祈る”という曖昧な行為としてしか残されていない。

 その文献に、ヒナタは心で迫った。

 

 正しいかは分からなかった。

 それでも――気づけば、膨大な資料の束を彼に託していた。

 

 結果は正しかった。

 

 魔法が発現し、行使された瞬間。

 言い知れない感情に支配されそうになるほどだった。

 

 地上の、血の通った人の身から、あれほどまでにあたたかい光が生まれるものなのか。

 彼こそが女神と言われても、今となっては信じてしまいそうだ。


 そう思うと同時に、あまりにも身を削る彼に、この世界の者として罪悪感を覚えた。

 彼には、何の罪も責任もないというのに。この世界の理不尽に巻き込まれても、彼は決して腐らなかった。


 『すっと余計なことが頭から抜けて、びっくりするくらい勉強できたんだ。』


 あの言葉を疑っていたわけではないが、聞くのと実際に目にするのとでは大いに違う。

 彼は、本当に一歩たりとも動かずに“水の穢れ”の事象を読み漁った。

 魔法理論が頭に入らないと嘆いていた彼とは別人のような鬼気迫る様子に、近づくのを躊躇うほどだった。

 それは、もはや学問ではなく、自らに課した行のように見えた。

 

 寝食すら忘れ、食事も水分もセリアスが甲斐甲斐しく口に運んでいた。その光景に、衝撃を受けた。

 たびたび顔を出して声をかけたが、教え子は常に心ここにあらずといった体で、いまいち誰も認識していないように思えた。

 話しかけても曖昧な返答しかかえって来ず、唯一明確な言葉を発するのは資料内の言葉の意味が分からなかった時だけだ。

 それも、内容を理解すればまた元の状態に戻る――ヒナタは、本当に、大丈夫なのだろうか。

 

 だが、誰よりも先に無茶を抗議しそうなセリアスは、厳しい顔をしながら何も言わなかった。

 ヒナタの意思を尊重し、彼を、ただ静かに見守っているかのようだった。

 

 普段、あれほど柔らかに接する姿を見ているだけに、そこに確かに二人の間だけの信頼を感じて、何も口を挟めなかった。

 これが愛というものなのだろうか、と素直に思った。

 人を愛したことのない自分には、いまだ分からない感情のままだ。

 

 だが、日に日に濃くなる隈と、青ざめていく顔色に、限界が目に見えて明らかになってきた。

 「魔法を行使してでも一度しっかり眠らせよう」とセリアスと相談していた矢先、ぎりぎりで、彼はすべての資料を読み終えた。

 到底、短期間で成し遂げられる量ではなかった。

 彼は、それを読み切った。

 

 そして――彼は、浄化に成功した。

 

 この瞬間、女神の存在さえ遠のいて見えた。

 光が、まるで息をしているように輝く様を、ただ見つめるしかなかった。

 

 浄化に成功し、ほっと息を洩らすように微笑んだ彼は、静かに涙をこぼした。

 その涙が、なによりも美しく見えたのは――おそらく、自分だけではなかった。

 

 あの光は、どんな祈りよりも。夢でも幻でもなく、確かな真実だった。

 成し遂げたことへの、努力したことへの、尊敬という言葉では生ぬるい感情が湧いた。

 眠った彼を掻き抱くセリアスの気持ちが、ようやく分かった。


 セリアスのように彼を愛したわけではない。

 だが、彼をこの世界に導いた“理”に、ただ感謝するほかなかった。

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