ep3 ここはどこ
柔らかな日差しがまぶたを撫でて、夢の底から引き上げられた。
返す予定のゲームを持っていくのを忘れて、全力デコピンをされる夢だった。――なんて悪夢だ。
これは『もう少し寝ていいよ』という神様の暗示に違いない。そう思いながら、触り心地のいいシーツと、ふかふかのベッドを堪能した。
夢心地のまま「あともうちょっと……」と寝返りを打とうとした瞬間、はっと目を開いた。
――いや、待て。うちのベッドは、こんなにふかふかしていない。
獣並みに感覚で生きてる――と友人たちに笑われるくらいには、そういう違いに敏感だ。『そんな俺ってすごくね?』と得意げに言ったヒナタに、冷ややかな目を向けたのは、たしか友人Bだ。
がばりと勢いよく起き上がり、周囲を見渡した。
天蓋付きのベッド。立派な猫脚テーブル。品のいい調度品。心なしか漂っている空気まで華やかに感じる。
思わず頬が引きつった。
「……どこ、ここ。」
かろうじて叫ばなかった自分を褒めたい。
ここはどこ、私はだれ?状態だ。いや、自分のことはわかる。ヒナタソラネだ。
おっかなびっくりベッドから降り、部屋を歩き回る。窓から見える庭園は、明らかに日本じゃなかった。
日傘を手に、こんもりとしたドレス姿で散歩する女性を見て、思わず呟く。
「……まじか。」
頭を抱えた。もしかして――もしかすると。昨日の“夜明け色の大型犬”は、夢じゃなかったのかもしれない。
うんうんと唸っていると、扉の向こうから『コンコン』と控えめなノックの音が聞こえた。
助かった、と思う。……誰も来なければ、我慢できずにウロウロして迷子になっていたかもしれない。
その未来には、わりと自信があった。
「はいっ!」
ノックの返答としては、思ったより勢いのある声が出た。
扉の向こうにどんな人物が居るかも分からなかったが、元気の良い返答は小学生から学ぶことだ。きっと間違えてはいない。
「――失礼いたします。」
少し間をおいて扉が開いた。
顔をのぞかせたのは、食器を手にしたメイド服姿の女性だった。
この部屋にふさわしい品の良さで、しずしずとヒナタの前まで進むと、裾を軽く摘み、優雅に一礼した。
「おはようございます、神子さま。
お初にお目にかかります。女神ナイアの御導きにより、お会いできますことを心より嬉しく思います。
私はミレナ=アルセリナと申します。神子さまのお世話を仰せつかっております。どうぞミレナとお呼びくださいませ。」
ヒナタは目を白黒させた。言葉の一割も頭に入ってこない。
「……みこさま?」
聞き返すしかなかった。神社の“巫女”が頭をよぎる。
「はい、あなた様はナイア神の神子様です。私にお気遣いは不要でございますので、どうぞ気安くお話しください。」
意味が分からない状況ながら――ここが日本ではないとは何となく悟った。たぶん、地球でもない。
なぜなら、ミレナの髪を覆う黒いヴェールの隙間から、根本から鮮やかな緑色の髪が見えたからだ。この女性はとても髪を虐め抜くタイプにはみえない。
「……ありがとう、ミレナさん。俺はヒナタソラネ。
ごめん、状況がよく分かってないけど、よろしくお願いします。
あ、名前が“ソラネ”ね。けど、みんな“ヒナタ”って呼ぶから、そう呼んで!」
気安くお話しください、と言われた言葉をそのまま信じた。
もとより相手が許せば年齢関係なく気安く接する性質だったし、正しい敬語にもそこまで自信がない。
そもそも、今考えても仕方のないことを深く考えることは苦手だった。
満面の笑みとともに手を差し出した。
ミレナが驚いたように目を見開き、おずおずと手を伸ばす。それを、笑顔のままぎゅっと両手で包み込んだ。
笑顔は世界共通の言語だ。ここが異世界だったとしても、きっと通じる。
「もったいないお言葉です。――戸惑われることと思いますが、仔細は私からはお話しできず……」
彼女が申し訳なさそうにする理由は分からなかったが、ワゴンの上のものは匂いで想像がついた。
「――ね、それ、ご飯? もうお腹ぺこぺこでさ。すっごくいい匂いなんだけど、食べていい?」
目を見開いたミレナが、ふふ、と口に手を当てて笑った。
「もちろんです、ヒナタ様。こちらは、ヒナタ様のお食事でございますので。」
そう言うやいなや、てきぱきと食器をテーブルに並べていく。
クロワッサンに丸パン、ベーコンにソーセージ、スクランブルエッグ……フルーツやスイーツまでそろっていて、大豪勢な朝ごはんだ。
「いただきます!」
手始めに手をつけたソーセージはパリッと皮が弾けてとても美味しい。たぶん、今まで食べた中でいちばん美味しかった。
そしておそらく、想像だが、これはかなりもてなされている。
ただ、自分が何かの供物で、“束の間の晩餐”なんて言われたら詰むが――とにかく今すぐ路頭に迷う心配はなさそうだった。
食事を詰め込みすぎてけほ、と言うと、ミレナがさっときて背中をさすってくれる。
飲み物が足りなければ補充してくれる――「ありがとう」とお礼を言うたびに微笑む彼女はとても美人だ。
今まで女性にとんと縁のなかったヒナタは、こんな環境ながらその容姿に照れた。
理由は、驚くほど異性にモテなかったからだ。いや、もしかしたら心に秘めたままの子もいたと願いたい。『顔はいいのにな』と友人Aが珍しく褒めてくれたことがあったから。
そんなどうでもいいことを、つらつらと考え始めたのは限界を感じたからだ。
「ミレナさん……」
本当に嫌々ながら、口を開いた。
「……ごめん、もう満腹で…。残してごめん。」
あまりにも空腹でいけると思った量は、思ったより多かった。
食べ残しを許さないプライドが傷つく。
申し訳なさに見上げると、ミレナはあっけに取られた顔をしていた。
どんな表情をしようと、美人は美人だ。けれど、そろそろ目を開きすぎて彼女の大きな目はこぼれ落ちてしまうかもしれない。
「残して、ごめんね……。作ってくれた人にも、謝ったほうがいい?」
聞けば、ミレナはお盆で顔を隠して肩をゆらした。
この光景には覚えがある。からかわれたときの、あの感じだ。子供っぽいと思われたのだろうか。
「……笑いたいなら、普通に笑っていいよ。」
ちょっとすねたような声になってしまった。
「――いいえ。いいえ、ヒナタ様。あまりに愛らしくて申し訳ございません。
これは、ヒナタ様のために用意されたお食事です。好きな分だけ食べて、好きな分だけ残してくださっていいのですよ。
……お好きなものや、嫌いなものはございましたか?」
慈愛のこもった視線を向けられて、あ、と思った。
――少し、母さんみたい。
つい、誤魔化すように料理へと視線を落とした。
「どれも美味しかった! ありがとう。ソーセージがいちばん好きかな。
嫌いなものは特になかったけど……量は、食べ切れるくらいがいいかな。残すの、好きじゃないんだ。」
「……はい。ヒナタ様、承知いたしました。調節するように申し伝えいたしますね。」
食器を片し始めたミレナに、手伝おうかと言いかけて自分が絶望的に不器用なことを思い出してやめる。
ミレナはにこにこしているし、多分、なにか取り繕ったところで何も変わらない。
“ガサツ代表”と友人Cも言っていた。あとで軽くはたいてやったけど――結局『やっぱりガサツ』と言われてなにも言えなくなった。
「ヒナタ様。セリアス殿下がお話をされたいとのことですが、ご休憩はいかほどになさいますか?」
「……セリアス殿下?」
「はい。ヒナタ様は昨日お疲れでいらっしゃいましたから、覚えていらっしゃらないかもしれません。
昨日ヒナタ様が来臨された際、その儀に立ち会っておられた方なのですよ。」
「らいりん」
漢字に変換出来ないし意味も分からないが、多分“来た時”ということだろう、と推測する。
満腹すぎて、できれば食後にひと眠りしたい気分だ。
だが、いかに呑気な自分でも、流石にそうも言っていられない状況なのは分かっていた。
「いつでもいいけど、ここで待ってればいい?」
「はい。こちらでお待ちいただいていれば、大丈夫ですよ。――では、お呼びして参りますね。」
礼をして静かに部屋を辞したミレナの背を、扉の向こうにぼんやりと見送った。
――なんか難しいこと、言われても……わかるかな。
窓辺から差す陽光が、現実との境界をやわらかく溶かしていく。
『人間、血糖値上がると眠くなんだからな。食べ過ぎんなよ――また補習になっても、俺は知らんからな。』
言い聞かせるような親友の声が頭をよぎる。
でも、なんだかんだ手伝ってくれる優しいやつだ。たまに怖いけど。
「わかってるって……」
目を閉じて答えれば、今度こそ夢じゃないかもしれない――そんな気がした。
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