星屑の羅針盤と影の探偵 ~祖父の遺産は、殺人兵器でした~
R.D
プロローグ
私にとっておじいちゃんは、遠い星の名前のようなものだった。
私が物心つくかつかないかのうちに亡くなってしまったから、写真でしか顔を知らない。
書斎の本棚を埋め尽くす難解な物理学の本と、そこに残された、何に使うのかも分からない機械の部品たち。それが、私の中の「おじいちゃん」の全てだった。
触れると温かかったおばあちゃんとは、違う。
おじいちゃんは、夜空に輝く星のように、ただそこにあるけれど、決して手が届かない、静かで、遠い光だった。
2025年、7月30日。
その光が、私のすぐ隣で瞬いていることに気づく夏。
梅雨の最後の雨が上がった、命が茹だるような蒸し暑い日のことだった。
おじいちゃんの隣へと旅立ってしまったおばあちゃんの部屋で、あの小さな桐の箱を見つけるまで、私はまだ何も知らなかった。
その箱が、私の退屈だった日常を、夜空の星ごと、根こそぎひっくり返してしまうなんて。
主を失った祖父母の家は、私が知っているどの場所よりも広く、そして静かだった。
空気が重く、淀んでいるように感じる。つい数ヶ月前まで、ここにはおばあちゃんの笑い声と、お茶の匂いが満ちていたはずなのに。
おばあちゃんの部屋は、白檀の香りと、少しだけ樟脳の匂いがした。レースのカーテン越しに差し込む西日が、静かに舞う埃をキラキラと照らし出している。壁には、少し色褪せた写真。
はにかむように笑う若いおばあちゃんの隣で、ひどくぎこちない顔で立つ、知らないおじいちゃんがいた。
几帳面だった祖母の
その奥に隠されていた板の後ろから、母は手のひらサイズの桐の小箱を取り出した。埃を払うと、蓋には見慣れた祖母の丸い字で「宇宙へ」と書かれている。
母から手渡された箱は、見た目より少しだけ重かった。蓋を開けると、まず一枚の便箋が目に飛び込んでくる。
宇宙へ
これを読んでいるということは、おばあちゃんはもう、おじいちゃんの隣に行けた頃かしら。
あなたのおじいちゃんは、口下手で、少し変わった人だったけど、いつも夜空の星たちと、誰よりも楽しそうにお話をする人でした。
もしあなたが、本当のおじいちゃんのことを知りたくなったなら、この箱の中の「レンズ」を使って、彼が星空に隠した「かけら」を探してあげてください。
それが、おばあちゃんの、たった一つのお願いです。
手紙の下には、ビロードの布に大切に包まれたものがあった。一つは、ずしりと重い金属製の接眼レンズ(アイピース)。
私が天文学部で使っているものとは比べ物にならないほど精密で、側面には、ほとんど彫刻のような微細な文字が刻まれている。
もう一つは、大学ノートを破って丁寧に折り畳まれた一枚の紙。広げると、そこには手書きで「こと座」の星図と、『田』のような落書きが描かれていた。
そして、箱の底には、一枚だけ。色褪せた古い半券が落ちていた。「府中市郷土の森博物館 プラネタリウム」という文字が、かろうじて読み取れる。
「へえ、おじいちゃん、ここのプラネタリウム好きだったんだ」
その時の私は、深く考えもせずに、半券を自分の制服のポケットに滑り込ませた。
その日の夜。昼間の熱気がまだアスファルトに残る中、私は逸る心を抑えきれずにいた。夕食もそこそこに自室に戻り、窓を開け放つ。生ぬるい夜風と一緒に、遠くで鳴く虫の声が流れ込んできた。
部屋の隅で、相棒の天体望遠鏡が静かに出番を待っている。壁に貼ったアンドロメダ銀河のポスターに見守られながら、私はおじいちゃんのレンズを、慎重に望遠鏡に取り付けた。部屋の明かりを消し、目が暗闇に慣れるのを待つ。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
星図が示す「こと座」へとピントを合わせる。レンズを覗き込んだ瞬間、息を呑んだ。
いつものベガじゃない。その青白い光の横に、くっきりと【9】という数字が浮かんでいるのだ。
「なに…これ…?」
心臓が早鐘を打つ。他の星は? こと座を形作る他の星たちはどうなんだろう? 私は震える手で、望遠鏡の向きを少しずつズラしていく。
あった。β星シェリアクにも、γ星スロファトにも。δ星にも、ε星にも。全ての星に、違う数字が割り振られている。
これは、ただの偶然じゃない。明らかに、誰かが意図して仕組んだ、星空の暗号だ。
私は慌てて、いつも使っている天体観測用のスケッチブックを広げた。慣れた手つきでこと座の星の配置をスケッチし、その横に、レンズを通して見えた数字を一つ一つ、忘れないように書き込んでいく。
【スケッチブック:2025年7月30日】
観測対象:こと座(Lyra)
・α
・β
・γ
・δ星 …… 3
・ε星 …… 1
書き終えた数字の羅列を眺めて、私はゴクリと喉を鳴らした。完全に未知の領域に足を踏み入れてしまった、という実感があった。
そして、興奮と不安の中で、私はもう一度レンズを手に取った。光にかざして、くまなく調べる。その時だった。側面に刻まれた、髪の毛よりも細い、微細な文字の列に気づいたのは。スマートフォンのカメラで最大まで拡大して、ようやくその一文を読み解くことができた。
「…最初の指針は、森に眠る。星図に描かれし『
全ての情報は、今、この手の中にあるはずだ。
数字の羅列と、意味深な詩。ポケットの中でくしゃりとなった、博物館の半券と、星図の余白のメモ。
しかし、ばらばらのジグソーパズルのピースのように、それらは全く噛み合ってくれない。
私はその夜、ほとんど一睡もできなかった。
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