第8話:はじめまして、ドブ王子

「あれが噂のセレナ・フォルテス公爵令嬢よ」


「執事同伴なんていい気なものね。MPが高くて調子に乗っているのかしら?」


(ご機嫌よう、学院のゴミ共。お嬢の美しさにビビって声が上ずってんぜ?)


歓迎パーティーの会場は、吐き気がするほどの香水と、それ以上に鼻をつく「虚栄心」に満ちていた。 俺はお嬢の足元でゆったりと構えながら、周囲の影を鑑定する。


(おっと、左後方から『嫉妬』の味がする影が3つ。お嬢に触れさせねーよ)


令嬢たちがセレナのドレスの裾を踏みつけようとした瞬間、俺は【影の縫い糸】をコンマ数ミリ、彼女たちの靴の影に引っ掛けた。 お嬢ができることは、俺にもできる。消費MP:0。俺にとってはただの「挨拶」だ。


「きゃっ!?」 「いやっ、ドレスが……!」


何もないところでつまずき、自分たちのドリンクを頭から被る令嬢たち。 俺は影の中で静かに中指を立ててやった。


(ふはははは! お似合いだぜ、泥水。……おっとジーク、こっちを見るな。ただの『呪いの残滓』が揺れただけだ)


ジークは片眼鏡(モノクル)を光らせ、一瞬だけ俺を睨んだが、すぐに視線を会場の入り口へと向けた。


黄色い歓声が、会場の空気を一変させる。 現れたのは、学園の注目の的――第一王子・カイル。


「君がセレナ・フォルテス嬢か。噂以上の愛らしさだね」


眩しいほどの金髪をなびかせ、爽やかな笑顔を振りまくカイル。 だが、彼がお嬢を「舐め回すように」見た瞬間、隣のジークの片眉が跳ね上がり、俺は影の底で本気でえずいた。


(……うえぇ、なんだよこれ。くっせぇ……ドブか?)


セレナが見ている王子の笑顔の裏。 俺の視界に映る「王子の影」は、人の形すら保っていなかった。 無数の穢らしい触手がうごめき、捕らえた獲物をドロドロに溶かして喰らっているような、悍ましい腐敗臭。 アリスの「ツノ」なんて可愛いもんだ。こいつの影は、底知れない欲望を煮詰めた「底なし沼」そのものだ。


(…ダメだ。こいつは絶対にダメだ。お嬢をこんな腐った沼に近づけさせるわけにはいかねぇ)


「光栄ですわ、王子殿下」


頬を染め、完璧なカーテシーを見せるお嬢。銀髪のおさげに紫紺の瞳。 同調率30%の俺には、彼女の胸の高鳴りが手に取るように伝わってくる。初恋の予感に浮き立つ少女の心。


(お嬢、騙されんな! こいつの影、『どうやって解体して喰ってやろうか』って顔で見てやがるぞ!)


王子がセレナの手を取ろうと近づいた瞬間、俺の【毒のソムリエ】が激しく警鐘を鳴らした。


(――ッ! こいつの飲み物、魔力に『精神毒(マインド・ポイズン)』が仕込まれてやがる…! 触れただけで依存させる気かよ!)


ジークの毒で鍛えられた俺の鼻は誤魔化せない。 俺は影を鋭く伸ばし、王子の足元の「腐った沼」に、強烈な一撃を叩き込んだ。


(――ちっ、今のを避けるかよ!)


重心が完全に崩れたはずなのに、王子はまるで見えない糸で吊られた人形のように、無理やり姿勢を戻しやがった。 おまけに、王子の足元のドブ色の影が、一瞬だけ牙を剥いて俺を笑い飛ばした。


「……セレナ嬢? どうかされましたか?」


王子の完璧な微笑みが、今は剥製のように無機質で薄気味悪く見える。


「いえ、なんでもありませんわ。殿下」


お嬢は頬を赤らめつつも、わずかに視線を泳がせた。 同調率が上がっているせいか、俺の感じている「寒気」が、彼女に微かな違和感として伝わったのかもしれない。


「どうぞ、新しい飲み物を」


差し出されたドリンク。 俺は影の触手ですべての毒素を中和し、一滴の不純物も通さないフィルターを構築した。 だが――。


パシャッ。


「……申し訳ありません、殿下。私、手が滑ってしまって……」


お嬢が、わざとらしく、しかし完璧な演技で自らのドレスに飲み物をこぼした。


(お嬢!? 今、自分でやったな? まさか毒に気づいたわけじゃねーだろうが……直感か?)


ジークが素早くハンカチを差し出す。 「失礼いたします、殿下。ドレスを汚してしまいましたので、一度化粧室(パウダールーム)へ中座させていただきます」


「……おやおや。それは残念だ。せっかく用意した特別な一杯だったのだが」


王子の影が、獲物を逃した飢えた獣のように地面を這い、お嬢を追おうとする。 だが、俺は逃げた。


「……あ、れ? 足が……」


俺がお嬢の足を影で「滑らせる」ように加速させたせいで、お嬢は脱兎のごとく会場を後にした。 王子が呆気にとられて顔をしかめる中、追いついたフィオナがお嬢の腕を取った。


重厚な扉が閉まった瞬間、お嬢は壁に背中を預けて大きく息を吐いた。


「いいのよ、セレナ。むしろナイス判断だったわ」


フィオナが理知的な漆黒の瞳を揺らしながら、お嬢のドレスを拭う。 「あの殿下の碧眼。あれに見つめられると、蛇に睨まれた蛙のような心地になるの。貴女も、だから『わざと』こぼしたのでしょう?」


お嬢は困ったように笑った。 「ええ、なんだか……すごく不味そうな匂いがした気がして。思わず、叩き落としてやりたくなったわ」


「せ、セレナ?」


フィオナが口をあんぐり開けている。


(お嬢、それが大正解だよ……!)


フィオナの影が、不安げに小刻みに震えている。 そのたおやかな影が、俺に向かってひっそりと「答え合わせ」を投げてきた。


『……あいつの能力は【魅了(チャーム)】よ。しかも最悪のやつ……』


(魅了…だと!?)


『そう。あの碧眼に10秒見つめられたら最後。意識の深層が書き換えられて、アイツを全肯定するだけの人形になる…エバート家の情報網でも、その先は霧に包まれていて……』


(やっぱりか。あのドロドロした触手の正体は、他人の心を溶かす執着の塊だったわけだ)


俺は影の中で牙を剥く。 1分間。お嬢の紫紺の瞳を、あんなドブ色の沼に晒してたまるか。


(10秒……。まばたきを許さねぇ、死のカウントダウンってわけか。上等だ。あいつが10数える間に、俺がその碧眼の奥に『本物の闇』を叩き込んでやるよ…でも、お嬢にどうやって伝えればいい。今の俺にはまだ、声が届かねぇのに……!)


お嬢は鏡の中の自分を見つめ、そっと胸元を押さえた。 彼女の鼓動が、不安と覚悟で波打っている。

 

 

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