その翡翠き彷徨い【第87話 天秤を動かす】
七海ポルカ
第1話
蝋燭の灯が揺れる。
【
振り返る。
「メリク。――どうした? しばらく眠っていたって聞いたけど」
メリクはいつもの魔術師の出で立ちで部屋の入口に立っている。
彼は微かに笑った。
「いえ。なんだか貴方が俺の悪口を言ってる気がして」
軽口に吹き出す。
「馬鹿言うな。俺はそんな暇人じゃない」
「はは……」
ラムセスは伸びをしてから立ち上がった。
「今は……あれから何日経った?」
「?」
「ああ、いや……いい。ここじゃそんなこと気にするのは、バカのすることだったな。
なんか温かいものでも飲むか」
ラムセスは奥に入って、以前は一面本置き場だったのに、いつの間にか綺麗になった炊事場で湯を沸かした。
部屋に戻ると、メリクは窓辺に座っていた。
夜になった【天界セフィラ】の外を見つめている。
「ほら……落とすなよ」
ラムセスが温かい紅茶のカップをメリクに渡すと、彼は慎重に両手でそれを受け取った。
「あ……すみません。ありがとうございます」
自分にも来ると思わなかった、そんな感じの一瞬遅れた受け取り方だった。
一口飲んで、彼は部屋を振り返った。
「そういえば……本棚が一つ空になってまた本が積み上がっていたようですが、何か探しものでしたか?」
「ん? ああ、違う。あれはいいんだ。
お前の弟子その1に頼んで全部出してもらっただけだから」
「エドに?」
メリクは珍しく思ったようだが、すぐに優しい表情になる。
「……貴方から見て、彼はどうです?」
無論、魔術の才のことを言ってるのだろう。
「魔力を行使する才はゼロ。けど魔術を学ぶ適正は満点だな」
それは彼の印象と全く一致したのか、微笑んだ。
「はい」
「お前でも弟子が他人に誉められると嬉しいもんなんだな」
ラムセスがからかって返すと、メリクはすぐに苦笑した。
「そういうわけではないですが……彼は俺の弟子というわけではないですよ。
旅の同行者です」
「まあそう野暮なことを言うなよ。あんなにお前の弟子であることを誇りにしてる奴なんだから」
「……。また何か彼から聞いたんですか?」
「お前が落ち込むようなことは何も聞いてないよ。
生前の旅のことをちょっとな。
それから……確かガルドウームのことを話してたかな……」
「ガルドウーム……?」
あまりぴんと来なかったようだ。
メリクの生前の記憶の劣化は激しくて、色々なことを覚えていない。
彼にとって鮮烈なのはひたすら【
魔術的なことは全て覚えているのかと思いきや、実はメリクはサンゴール魔術学院時代のことや、宮廷魔術師時代のこともかなり思い出せないらしい。
「ああ。なんか、妙な団体に捕まりそうになったんだってな。
死者の肉体を使って、不死者を作るみたいなことをしてた」
うっすらと、浮かんで来る。
「……ああ……そういえば……」
そんなこともあったような気がしますね。
ラムセスもメリクが腰掛ける広い窓辺の、対面に腰を下ろす。
カップをそこに置いて、彼は片膝を立てた。
「あそこも俺の時代じゃ、アリステアと同じように騎士の勢力が強い国だったと思ったんだが、お前が手を焼くような連中がいるとはな。
お前、この前落ちたアリステアの地下路覚えてるか?」
「はい」
「あの地下には、お前が落ちたのよりもっと下層のことだが、強力な結界の仕掛けがあった。普段から張っている結界を、更に覆う規模のものだ」
「そうなのですか」
「気づかなかった?」
ラムセスはふと、メリクの方を見た。
「……。はい。特には……結界が張られていることは分かりましたが、その程度です」
綻び始めた糸から、魔力が漏れて行くようだ。
命のように。
メリクは一つの物事に相対することにも、莫大な集中力を必要とするようになっている。
「まぁ……あの時はお前は色々大変だったからな。それどころじゃなかったか」
「……。それで、アリステア王国がなにか?」
「いや。大したことじゃあない。
アリステア王国もザイヴォンとサンゴールという神儀と魔術大国の二つに挟まれていた。
ガルドウーム王国も西にアウドゥーラ公国、北にはラナシオン王国があった。
ラナシオンは今はもう亡い国だが、あそこも小国だが魔術的な因縁は強い土地なんだ。
大陸中央の聖都キーランと王家は繋がりが深かったからな。
魔統を隣国に抱えた国は、魔術を強く警戒する。
自らも魔統になるよりも、魔術への対抗術を立てようとする。
そういうものなのかと思っただけだ。
魔統となるためには血に魔力が染み込むための莫大な時間が必要とする。
それよりは対魔研究に時間は費やした方が何百年の世界で済むからな」
「魔統であることがそんなにいいことですか?」
「それを力と考えるならな。力はないより、ある方がずっといいと考えるんだろう。
お前は魔統の業に苦しむ師匠を間近で見て来たから、捉え方は違うかもしれんが。
力ある者は他を侵攻するのは思いのままだ。
でも侵攻される側が力無きものなら、略奪されるままになる」
メリクは押し黙って、湯気の立つコップに唇をそっと寄せた。
「アフレイムにな」
目を閉じたままの顔が、こちらを見る。
「お前が行った理由を聞いたよ」
「そうですか」
メリクはラムセスが自分の過去に興味を持つことに、前ほど嫌悪感らしきものを見せなくなった。淡々と受け止めている感じだ。
「【魔眼の王子】の戦死を聞いた後、向かったんだってな。
そのこと、あいつは知ってるのか」
「知らないと思いますし、知る必要も別にないでしょう」
「なんで?」
ラムセスは立てた膝に腕と顎を乗せて尋ねた。
「なんでって……別に俺がどこでどう死のうとあの人に関わりはないと思いますが」
「見方が変わるかも」
メリクは笑った。
「やめてください。今更、あの人にいい人間だなんて見方を変えられたら、それこそ絶望したくなる。
貴方にこんなことは言いたくないですけど、あの時代、本当に世界の全ての人が絶望に包み込まれていた。
絶望を抱えて生きている人間なんて、特に珍しくもなくなったんです。
俺は別にあのままふらふらと世界を彷徨って、やりたいということも無かったから、だったら千年に一度の代物を、見に行ってみようと思っただけです。
その価値はあるでしょう。
エドアルトは俺が優しさで世界を救いたくてそこへ向かったと言ったかもしれませんが、残念ながら全く的外れですよ」
「おいおい、弟子をもっと信じてやれよ」
ラムセスは吹き出す。
「あいつはそんなことは言ってない。
お前がちゃんと話して、旅立ったと言ってた。
師匠への魔術的な義理だとな。
あいつは下らないものにそれが思えても、否定しなかったんだろ。
そういうのはあいつの美徳だな」
「……。そうですね、確かに……。
エドアルトは力は何のためにあるのかという俺の問いに、目を輝かせて『誰かを守るため』だと答えたことがある。俺が……」
メリクは見えない目でカップの水面を見つめた。
「二十年近く、色んな人の庇護を受けながら生きて、
エドアルトに会うまで辿り着けなかった答えですよ。
彼は魔術の知識など何も知らないのに、とっくの昔に知ってたことみたいに答えた。
魔術師にとってああいう人間は怖い」
「お前にとって、だろ」
「そうでした」
どうでもいいことのように、彼は一瞬笑んで返した。
「メリク。天界軍のアリステア王国侵攻だがな」
メリクの心が少しもこちらに対して開いて来る気配がないので、ラムセスは話題を変えることにした。
「はい」
「この上階をうろつくあの暢気な巫女連中の噂話から聞いた感じだと、どうやら近々本当に決行されることになりそうな感じだ。
大規模な神儀の予定が組まれ、対不死者の武具が大量に運び込まれてると言っていた。
【天界セフィラ】の魔物狩りにはどちらも不必要なものだ。
狙いは地上のアリステア王国だろう。
【ウリエル】同様、地上に落ちた【堕天使】があの国に関わってるんだとさ。
事実かどうかは知らんが」
「そうですか」
「長らく地上の【管理者】を自称していた連中が、めでたくこれで本物の地上に対する【侵略者】になるわけだ」
「【ウリエル】は本当にこのまま地上に留まって天界軍と戦うつもりなのですか」
「何故そこまで【ウリエル】が天界セフィラに疑問を持ち、憎むようになったのかは分からんがな。まああいつは【天界セフィラ】の創始の魔術師だ。
異界として長い間、他の世界には下手に介入しないという決まりを守って生きて来た。
【エデン天災】のような出来事が起こるのを今後を待つくらいならば、自分たちが下りて行ってその世界の異変ごと管理して地上の全てを支配してしまおうという、いかにも乱暴な【天界セフィラ】の考え方が嫌になったんじゃないか」
「しかし戦う場所が地上のエデン大陸となると、この天界セフィラの精霊や魔力に依存して生きて来た【ウリエル】には分が悪いのでは」
「分が悪いどころか、まず勝てんだろうな。
俺が思うに【ウリエル】の身に起こっているのは魂の劣化だ」
「創始の魔術師でもそのようなことになるのですか?」
「誰だって起こり得ることだよ」
ラムセスは静かに言った。
メリクはラムセスの言葉を聞いていた。
この人にはすでに、ある程度のことが見通せているのだ。
「それで? 【ウリエル】はどうすると言っていた?」
「やはりアリステア王国に向かうそうです。結界の揺らぎが最も強い、あの地から侵攻が始まることは分かっているので」
「……。」
ラムセスは押し黙った。
何かを考えているようだが、メリクには表情は伺い知れない。
「他の連中はどうだ?」
「ウリエルは、これからの自分の行動に召喚した手勢は大勢を伴わないつもりです。
追従の意志がない魔術師は今のうちに解放する用意があると。
禁呪を使って地上に実体化させるほどですから、余程の覚悟だと思います。
すでに何人かは離脱したようですが、今後も増えるでしょう。
【天界セフィラ】に戻ることも勿論許しておられます。
自分が封じられれば次なる【ウリエル】が立てられるだけ。自分の死後それに従属することも許すと。
ただしウリエル自身が討たれた場合、天界において従属していた者達がどのように扱われるかは定かではありません。だから離脱は早ければ早い方がいいと」
「なるほどな」
「アミア様たちは一度天界セフィラへ戻られるかもしれません。
ここに残るにせよ、解放され地上に行くにせよ、
アリステア王国の顛末は見届けるおつもりです。【天界セフィラ】の動きも。
その上でどちらかを選ばれるでしょう。
ただしウリエルにも、追従しないことは決められているようですね」
要するにこれからの時を【天界セフィラ】で無限のように生きて行くか、
地上に戻って額面通り、普通の人間として第二の生を生きるだけか。
メリクは彼女達の選択には全く興味はなかった。
リュティスが【天界セフィラ】に留まるのを選ぶのか、
解放されて地上の人になるのかは大いに興味があったが、
いずれにせよ、どちらを選ぼうと自分には関係ないことも分かっていた。
「お前はどうするんだ?」
ラムセスはメリクに尋ねる。
彼の予想に反して、翡翠の魔術師は答えて来た。
「俺は…………【ウリエル】に追従しようと思います」
つまりウリエルに召喚された事実を重んじるということだ。
彼女が呼ぶならば、アリステア王国戦でも戦う。
天界軍相手だ。
半永久的に【天界セフィラ】には留まらず、いずれウリエルの生死に関わらず地上に降り、当然彼女が死ねば地上で消滅するだけ。
【天界セフィラ】にいればとりあえず、魔力の欠乏で精神体を保てず消滅するということだけは免れる。
……こいつは死に場所を探しているのかもしれないとラムセスは思った。
「セス。グリゴーンさんに会わせて下さいよ」
振り返ると、メリクが小さく微笑んだ。
「約束したでしょう。今日はその為に来たんです」
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