エピソード1 誕生
分娩室の前の空気が重い。
最愛の妻が、呻き声を上げているのにオレには何も出来ない。
分娩室への立ち入りも許されず、指を組み替えて待つしか出来ないこの身がもどかしい。
妻が分娩室に入って、もうすぐ1時間。
初産は時間がかかる、とは聞いていたけど、まだ1時間しか経っていないことに驚く。
時間ってこんなに長いものだっただろうか。
立ち上がり、産院内の自動販売機を探す。
コーヒーのショート缶がもたらす僅かな潤いがちょうどいい。
喉を鳴らして、ただ時間を空費する。
ホ…ギャァ!ホギャア!ホギャア!
泣き声。
それは讃美歌のように、産院の分娩室前の廊下に響き渡った。
コーヒー缶をゴミ箱に投げ入れ、慌てて分娩室へ向かう。
震える手で、ドアをノックする。
すぐに開けられたドアの向こうで、赤子を抱く妻が見える。
「あっ、お父さん!
おめでとうございます、元気な男の子ですよ!」
脚が震える。
産まれたんだ、オレの子供が。
お父さん。
そう呼ばれても、まだ実感には遠い。
妻がオレに顔を向けて破顔する。
「のぶくん……!
ねぇ、見て!
産まれたよ、私たちの赤ちゃん!」
考えるより先に脚が、彼女とその腕の中にいる小さな生命に向かう。
オレたちの…オレの、子供。
言いようのない、不安と喜びがごちゃ混ぜになって、急に肩を押さえつけられたような気がする。
「お疲れ様、里香。
良く頑張ってくれたね…。
本当に顔がくしゃくしゃで赤いんだなぁ、猿みたい。
――可愛いな。」
「ね、のぶくん!
抱っこ、してみてよ!」
助産師がそっと子供を受け取る。
その腕の中の赤子の顔を、間近に覗き込む。
口をもごもごと動かしながら、目を閉じ、腕を上げて――その小さな手をぎゅっと力強く握っている。
これから先の、未来を握り締めるように。
「お父さん、そしたら、こんな風にね、左腕を出して。
そうそう、で、首の後ろをしっかり腕で支えてくださいね。
そーそー、そんな感じ!」
「こ…こうですか?」
「うん、そうそう!
ほーら、パパの抱っこだよ〜!」
腕の中にすっぽりと収まるその生命は――余りにも軽くて。
そして、重かった。
小さな、本当に小さな実感がオレを包む。
「――パパだよ。
はじめまして。
これから、よろしくね。」
顔が綻ぶ。
オレを見る妻の目も、喜びと感動に溢れていた。
この時、オレはただ幸せだった。
間違いなく、新しい生命を授かった喜びの中で、未来はいつまでも輝いて見えた。
生命に対する責任の重さは、まだ見えていなかった。
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