第2話 発現

九条は、いつものように、義務としてだけ存在する作業を淡々とこなしていた。


K-23とラベリングされた検体は、地方病院で原因不明の精神異常を呈して死亡した女性から採取されたものだった。脳に器質的異常はなく、死因も明確ではないが、明らかに“普通ではなかった”と主治医が記録していた。搬送時には意味不明な発話、身体の硬直、幻覚症状を呈していた。発熱もなく、感染症としての典型的所見は無かったものの、行政の定めた規定により、彼女の遺体からサンプルを用いた病理学的検査及び微生物学的検査が行われることとなった。


九条の所属する研究室では微生物学的検査のうち、ウイルス学的検査を担当している。

ウイルス学的検査は、既知のウイルスの検出を目的とした検査と未知のウイルスの検出を目的とした検査に大別される。


K-23の臨床所見を見る限り、少なくとも既知のウイルスが原因では無いと考えられた。九条は、行政が作成した様式「既知のウイルスの検出を目的とした検査」の「検査の必要性」という欄の「必要なし」にチェックを入れた。


「未知のウイルスの検出を目的とした検査」。この様式には「検査の必要性」という欄がない。どんなに無意味に思えても、検体が回ってきた時点でやることが義務付けられている。


「未知のウイルスの検出」と言っても、義務付けられているのは古典的なウイルス分離のみ。近年、次世代型シーケンサーを用いた新規ウイルスの発見が相次いで報告されているが、ルーチン作業で行うには時間と費用がかかり過ぎるという理由でそちらは義務とはなっていない。


ウイルス分離は基本的にルーチン作業だ。

標準化されたフローに従い、複数種類の細胞に検体を接種し、1週間観察。

観察後、細胞を培養したフラスコを凍結融解。遠心分離した上清を新たな細胞に接種し、1週間観察。

この操作の繰り返しだ。

この継代を5代目まで行うことがマニュアルに定められている。


観察の結果CPE(細胞変性効果)や細胞内封入体などが認めらた場合、そこから同定作業に移行するが、まあ、そうなることは多く無い。


5代目まで観察して何も変化が認められ無い場合、様式の「ウイルス分離結果」という欄の「分離されず」にチェックを入れる。それで終わり。


K-23も、そのつもりだった。


第5代の継代まで、細胞に変化は認められなかった。すべて陰性。

実験ノートに記す言葉すら同じで、感情の介在する余地はなかった。


いつもなら、これで終わりだった。


「分離されず」にチェックを入れ、検体を廃棄し、次の検体へ移る。

手順は確定しており、判断を求められる余地はほとんどない。


——だが、今回はそうしなかった。


自分でも理由は説明できない。

ただ、どこかに「まだ何かあるのではないか」という感覚が残っていた。


曖昧な不安。

完了したはずの作業に、拭えない“残りかす”のようなものが、指先にまとわりついていた。


それが検体によるものか、自分自身の内側からくるものかも、判断できなかった。



その日の午後、九条はディープフリーザーを開け、初代の凍結サンプルをもう一度取り出した。


それは、再接種の必要のない廃棄を待つだけの検体のはずだった。


だが、指が勝手に動いた。ルールに背いているわけではない。けれど、明らかに「科学の判断」ではなかった。


彼は、再び複数の細胞に検体を接種した。

目的は不明。観察の焦点も不明。けれど、その行為には確かに“目的”に似た輪郭があった。


培養フラスコをインキュベーターに戻し、扉を閉じる。


ふと、背中に何かが触れた気がして振り返ったが、誰もいなかった。


その夜、彼は夢を見た。


初めての、あの夢を。


――場所は山間の集落。木造の民家の縁側。湿った空気と、蝿の羽音。

眼下には棚田のような段々畑が広がり、遠くから鉦のようなものが響いてくる。

どこかの家の中に、人が集まっている。


中央には、白布に包まれた何か。周囲の者たちは喋らない。ただ見下ろし、静かに佇んでいる。

その中に、ひとりの女がいた。顔は見えない。けれど、彼女は確かに泣いていた。


泣きながら、誰にも気づかれないように、小さく手を動かしていた。


何かの“印”を描いているようだった。

その形も意味も、わからなかった。だが、その動きはなぜか、懐かしくすらあった。


次の瞬間、九条は布団の中で目を覚ました。


額が濡れていた。体が冷えていた。心臓の鼓動が、自分の体ではないもののように遠く感じられた。


翌朝、彼は研究ノートの隅に、短くこう書き残した。


《自分がいない夢をみた。》


検体はまだ、目に見える変化を示していなかった。


だが九条は、その日を境に、夢の内容を正確に記録しはじめた。


まるでそれが、科学と呼べる何かに変化する可能性があると、どこかで感じていたかのように。

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