REAL.1 ログアウト

 根室恒平は、しばらく呆然と白い天井を見上げることになった。

 その枕もとでは、スマートフォンの目覚ましアラームがけたたましく鳴っている。

 視線をそちらに傾けると、時計は午前の七時十五分を示していた。


(何だよ……本当に全部、夢だったのか……?)


 恒平は目覚ましアラームを停止させてから、ベッドの上にのろのろと起き上がった。

 そのまま、じっと自分の手を見る。

 何のへんてつもない、人間の指先である。

 しかし、それが自分の指先であるということが、なかなかしっかりと知覚できなかった。


(うわ……なんだか、悪酔いしそうだ)


 身体は、どこにも変調をきたしていない。むしろ、普段よりも寝覚めがいいぐらいの心地である。夢の中であれだけ暴れ回っていたというのに、現実世界の疲労はすっかり癒されている様子であった。


 しかし、思考や感覚がそれに追いついてこない。

 一瞬前まで、恒平はバク人間の戦士たる『ネムリ』であったのだ。その身体には、まだ武器や防具の重さや質感がしっかり残されているような感じがした。


「ウィンドウ」と一声つぶやけば、そこに青白い画面が浮かびあがるような気がしてしまう。

 また、白いぬいぐるみのようなコハクタクが、今にもひょこりと出現するような気がしてしまう。


 しかし、現実世界でそのようなことが起きるわけはなかった。

 あれらはあくまで、夢の世界における出来事であったのだ。


(これで次に眠ったときは、また《イマギカ》の世界の中なのか……? そんなの、ありえないだろ)


 そこで恒平は、スマートフォンの中身を慌ただしく確認した。

《イマギカ》のアプリのアイコンは、どこにも存在しない。さらに、アプリストアで検索をかけても、《イマギカ》のアプリはヒットしなかった。


 もしかしたら、あのアプリをインストールしたところからして、夢だったのだろうか。

 恒平は、いっそうわけがわからなくなってしまった。


(でもまあ……ここで悩んでたって、どうにもならないよな)


 恒平はしばらく悪酔いのような感覚に耐えてから、意を決して立ち上がった。

 上下のスウェットを脱ぎ捨てて、高校の制服を着用する。恒平の父親は、だらしない姿でダイニングに下りることを許さない性格であったのだ。

 恒平が通学用のバッグをひっつかんで階下を目指すと、ダイニングでは父親がひとりでコーヒーを飲んでいた。


「今日は遅かったな。寝坊したのかと思ったぞ」


「遅いって言っても数分だろ。これぐらいで遅刻にはならないよ」


 何気なく言葉を返した恒平は、その声が『ネムリ』ではなく『根室恒平』の声であったことに、思わずぎょっとしてしまった。

 そんな内心の動揺を押し隠して、恒平は自分の席に腰を下ろす。

 すると、母親がキッチンからトーストと目玉焼きを運んできてくれた。


「コウちゃんだったら、心配いらないわよ。お姉ちゃんの分までしっかりしてるんだから」


 その姉は、まだ二階の寝室で惰眠をむさぼっているのだろう。姉はせっかく入った大学を半年で中退してしまい、今は気楽なフリーター生活であるのだ。


 厳格な父と、大らかな母と、気ままな姉。これが根室家の家族構成であった。

 長男にして弟たる恒平には、どのような形容詞が相応しいのか。おそらくは、「凡庸な」とか「無個性な」とかいう言葉がチョイスされることだろう。


「でも、今日はちょっとだけ遅かったわね。身体の調子でも悪いの?」


「いや、そんなことないよ」


 身体は健康そのものであったし、トーストの匂いを嗅いだら猛烈に腹も空いてきた。そういえば、《イマギカ》においては水も食料も必要なかったのだ。

 おそらく七時間きっかりをあの世界で過ごしていながら、食事というものを摂取していない。その埋め合わせをするかのように、今日の朝食はやたらと美味しく感じられた。


(だけど、あんなの普通じゃないよな)


 もしかしたら、恒平は心だか精神だかを病んでしまったのだろうか。

 あの奇怪な体験の原因を自分の内側に求めるならば、それぐらいしか解答はないように思われた。


 そんな風に考えながら、恒平は両親の姿をこっそりと見比べる。

 父親は黙然とコーヒーをすすっており、母親はにこやかに微笑みながらその姿を眺めていた。


(……とても親なんかには、相談できないや)


 そう結論づけて、恒平は早急に朝食をたいらげた。

 マグカップの牛乳も飲み干して、通学バッグを手に立ち上がる。


「それじゃあ、行ってきます」


「はい、気をつけて行ってらっしゃい」


 恒平は、速足で玄関を出た。

 急ぐ理由はなかったが、得体の知れない焦燥感に胸の中をかき回されてしまっていた。


 そうして家を出ると、何歩も進まぬ内に蓮田結花はすだ ゆかと出くわした。

 幼馴染である彼女の家は、根室家の三軒隣りであるのだ。


「あ、コウちゃん、おっはよー! 今日もいい天気だね!」


「……やあ。今日は朝練じゃなかったの?」


「うん、朝練は月水金だからね。月曜の朝なんかは、もう最悪だよー!」


 にこにこと笑いながら、結花は恒平と並んで歩き始める。

 高校に進学したことで、ついにこの幼馴染とも通う学校が別々になったが、けっきょくモノレールの駅までは同じ道を歩くことになるのだ。


 結花は今日も朗らかで、元気そうだった。

 朝日を受けて、サイドテールの毛先がきらきらと茶色に輝いている。アバターではない、現実の人間の質感だ。


 もし現実世界にも適応値などという概念が存在したならば、結花はさぞかし優秀な数値を叩き出すことだろう。恒平は、この幼馴染の少女ほど楽しそうに生きている人間を他に見たことがなかった。


 中学時代から所属は陸上部であるものの、スポーツ万能で、球技大会などではいつも目覚しい成績をあげている。誰に対しても親切で、情感が豊かであり、他人の陰口などを叩いている姿は見たこともない。サイクリングやヨガやサボテンの育成など、興味のわいたことには次々とチャレンジして、しかも途中で投げ出したりはしない。なんというか、この世界で生きていくことが楽しくてたまらない、といった様子であるのだ。


 この結花に《イマギカ》のことを相談したら、いったいどんな反応が返ってくるだろうか。

 きっと頭から馬鹿にしたりはしない。まずは恒平の身をめいっぱい案じてから、ともに悩み抜いてくれるだろう。そんな光景を想像するだけで、恒平は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


(……結花にも相談はできないな)


 というか、こんな突拍子もない話を相談できるのは、恒平の身近に一人しか存在しない。

 その人物と顔をあわせるには、放課後まで時間が過ぎるのを待つ必要があった。


                ◇ ◆ ◇


 そうして、念願の放課後である。

 一目散に地元まで戻ってきた恒平は、その足で真っ直ぐ友人の家を目指した。


 恒平たちが暮らすのは、千葉市の桜ヶ原という住宅街である。

 街の真ん中にモノレールの駅があり、それに乗ればJRの駅までは二十分。そこからおよそ四、五十分で都心まで通うことのできる、いわゆるベッドタウンに該当する区域であった。


 人口のほうもそれなりであるので、徒歩圏内に小学校はふたつ、中学校はひとつ存在する。これから会いに行く友人は小学校が別々であり、中学校で初お目見えした相手であった。


 とはいえ、クラスが一緒であったのは一年間だけだ。

 その人物は中学の二年生に進級して以降、ほぼ不登校の状態にあったのである。

 よって、恒平がその人物と交遊関係を維持するには、こうして自分からその住まいに出向かなければならなかったのだった。


 駅を出て、自宅と反対の方向に七、八分ほど突き進むと、友人宅に到着する。

 高台の、高級そうな住宅が並ぶ区域だ。桜ヶ原総合病院の院長が父親である友人の邸宅は、その中でもひときわ立派な造りをしていた。


 高さが三メートルはあろうかという門の前に立ち、呼び鈴ではなくスマートフォンでメッセージを送る。

 すると、すみやかに門が開いた。

 恒平が歩を進めると、門は自動的に閉ざされる。屋内から友人が操作しているのだ。


 敷石を渡って玄関の前に立つと、さほど待たされることなく扉が開く。

 その扉の向こうに、友人――辺見千明へんみ ちあきが立ち尽くしていた。


「やあ。いきなり押しかけちゃってごめんね、千明」


 いちおう昼休みにもメッセージを入れておいたが、まずはそのように挨拶してみせる。そんな恒平のことをじっとりと見つめながら、千明は「ふん」と鼻を鳴らした。


「キミはいつだっていきなりじゃないか。前日にアポを取ることなんて、ほとんどないだろう? まあ、キミにとってはボクなんてヒマつぶしの相手でしかないんだから、当日にいきなり押しかけてくるのが当然なんだろうね」


「そんなことないよ。前日に約束しようとすると、千明のほうが返事をしてくれないじゃないか」


「ふん。悪いのがボクだったらキミが謝る必要なんてないはずだろう? だったら、どうして謝るのさ? 心にもないことで謝るなんて、相手を馬鹿にしているとしか思えないね」


 千明は中学校で孤立して、不登校に陥ることになった。どうして孤立したかというと、おそらくはこの偏屈な性格のためなのだろう。

 しかし何故だか、恒平にはその偏屈っぷりが不快に感じられないのだった。


「とにかく、中に入れてもらえるかな? 今日は千明に相談があって来たんだよ」


「相談? この社会不適応者たるボクに相談? それで何かが解決すると思っているなら、キミも相当におめでたい人間だね」


 ひとしきり非生産的な台詞を吐いてから、千明はさっさと背中を向けた。

 恒平は慌てて靴を脱ぎ、「お邪魔します」と言い置いてからその後を追いかける。


 千明は今日も、黒いジャージ姿であった。

 恒平も小柄な部類であるが、千明のほうはもっと小柄だ。同年代であるから十五、六歳であるはずなのに、身長は百五十センチていどであろう。


 この二年ぐらいはほとんど日光をあびていないので、驚くほどに色が白い。そして、実は女の子のように可愛らしい顔立ちをしているのだが、ぼさぼさの黒髪を目もとまで垂らしており、いつもうつむいているために、陰気なことこの上ない。猫背で、なで肩で、見ているほうが心配になるぐらい痩せ細っており、そこらの女子中学生のほうがよっぽど頑丈そうに見えるぐらいであった。


「えーと、今日も家族のみんなは留守なのかな?」


「……答えのわかりきっている質問をして、何か楽しいのかい?」


「念のための確認さ。いきなり誰かが現れたらびっくりしちゃうしね」


「……父親は仕事。母親は華道の教室。馬鹿はどこかに遊びに行った」


 馬鹿というのは、小学五年生になる妹のことである。

 百奈という名を持つその妹は、偏屈ものの兄にこよなく懐いているはずであった。


「……それで? キミはいったい、どういう用事があってボクなんかのところにやってきたんだい?」


 三階の自室に腰を落ち着けると、千明はさっそくそのように問い質してきた。

 巨大なテレビと巨大なパソコンと巨大な本棚に埋め尽くされた、千明の城である。漫画と小説とアニメとゲームに耽溺する彼の城は、いつもそれらの物資によって混沌たる様相を呈していた。


「……千明って、RPGなんかもけっこうやりこんでたよね?」


 恒平は、まずそのように切り出してみた。

 ベッドの上で両膝を抱え込んだ千明は、長い前髪の隙間から陰気な視線を返してくる。


「今さら何を言っているのさ。キミにMMORPGのなんたるかを叩き込んだのは誰だと思っているのかな」


「ああ、うん、そうだよね。あれってけっこう時間と労力を食うから、僕はあんまりハマらずに終わっちゃったんだ。家のパソコンは、ネトゲをやりこめるようなスペックでもなかったしね」


「……話の主旨がまったく見えてこない」


「うん、ごめん。だから僕は……せいぜい千明の部屋でしか、RPGっていうものに触れたことがなかったんだよ。もちろんRPGが嫌いなわけじゃないけど、そこまで夢中になることもなかったんだ」


 恒平はちょっと呼吸を整えてから、いよいよ本題を切り出すことにした。


「だから、どうしてこんな事態になっちゃったのか、自分でもさっぱりわけがわからないんだけど……実は昨晩、おかしな夢を見ちゃったんだ」


 千明が、「待て」と言い捨てた。

 その目が、食い入るように恒平を見つめ返してくる。


「まさかそれは……《イマギカ》のことじゃないだろうね?」


 恒平は、言葉を失うことになった。

 そんな恒平を見つめながら、千明はぼさぼさの黒髪をかきむしる。


「なるほどね。どうやらアレは、ボクの妄想じゃなかったってわけだ。それにしても、よりによってキミまでプレイヤーに選ばれていたなんて……アレはいったいどういう基準でプレイヤーを人選しているのだろうね」

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