このストップウォッチは、止めてはいけない
沙知乃ユリ
このストップウォッチは、止めてはいけない
早すぎて、何をしているのかわからなかった。
周りはもう次に進んでいて、私だけが取り残されている。
それでも、この塾では止まってはいけない。何が起こっても。
懲役十四日、お正月なし。お勤め先は冬季講習。
それが受験生である私に課された刑だった。
バン!
ママの軽自動車のドアを後ろ手に閉める。
町外れのビルのワンフロア。
高い実績で人気だが、その指導方法は塾生の親にも知らされない秘密らしい。
サイドミラーに、私の丸顔が写っていた。
「ヒカリ、お友達と仲良くするのよ」
窓を開けて、ママが見当外れなことを言う。
ママ、私、勉強しにきたんだよ?
教室内は塾生でぎゅうぎゅう詰めだった。
なのに無音。
みな、ストップウォッチを握りしめている。
狭い。暑い。ホコリっぽい。
暖房と人口密度と静寂が私の肺を締め付けていた。
ああー、もう辛いかも。
帰りたい気持ちが喉までせり上がる。
机の中に手を突っ込む。丸くて固いものが触れた。
取り出してみると、ストップウォッチだった。
ガラガラ!
痩せた青年が大股で現れ、教壇に立った。
「今日初めての人も居るので、塾のルールを説明します」
「『一度始めたら、止まってはいけません。遅くても良いけど、止まらずに続けてください』」
そう言いながら、分厚い問題集を配布した。
受け取った覚えもないのに、いつの間にか私の机の上にも問題集があった。
「では各自で"はじめ"て下さい」
そう告げると、痩せた青年は巻き戻し再生のように退室した。
え?自習するだけなの?
戸惑っている私を尻目に、周囲は次々と"はじめ"と呟いた。
ストップウォッチを動かして問題集に取りかかっていく。
隣の席の子は、もう問題集の真ん中くらいのページを開いていた。
素直な私は、言われた通りに”はじめ”、と呟いてみる。
そして、ストップウォッチのボタンを押す。
文字盤の数字が動き出した。
なんだか、いつもより数字の動きが遅いようだけど気のせいだろう。
問題集を開く。
見覚えのあるはずの単元が、知らない速度で流れていく。
・・・・・・よし、かなり集中できた気がする。ちょっと疲れたな。ストップウォッチを見てみよう。あれ?まだ三分しか経ってないの?おかしくない?っていうか、やっぱり数字の動きが遅いかも。
顔を上げて周りを見回すと、塾生の数が少し減っていた。隣の子は息苦しそうにしながら、問題集の終わり近くまで進んでいた。ふと私の視線に気づいた彼女は顔をあげ、目が合った。その瞬間、彼女の姿が消えた。
ああ、そうか、私は何もかもがわかった気がした、やろう、勉強の続きを、はやく、次はどこからだっけ、ああもうこの本開きにくいな、いや違う指がついてきていないんだ、まあいいや、なになに、ああもうbeautifulね、これは余裕だ、一年生のときにさんざん練習したからね、次はdictionaryか、なんだろう、目が線の流れを一つずつ追っている気がする、これがボールが止まって見える的なやつなのかな、dictio-naryなんだなあ、dictioが何かわからないけど、それのnaryなんだな、っていうか辞書とか触ったことないし全然使わないから知らないんだけど、寧ろいまはYou-Tube の方があたしの辞書だよね、発想が拡がって拡散して、脳の神経が隅々まで息づいて酸素と血液が巡っているわ、ああ、いつまで続けるのかな、考えるの疲れてきたな、ああ、息が出来ない、いやできてるけどきちんと吸えていない気がする、んん、もうこの問題集終わりそうだ、これで終わりかな、終わりたいような、まだ走れそうな、次は何をやったらいいのかな、うわあ、いつの間にかまた新しい問題集があるわ、これは数学か、ツルツルした表紙がひんやりして気持ちいいね、そうだ、ママの誕生日プレゼント買うの忘れてた!はあ。
……
あ。
止まった。
その瞬間、ストップウォッチの数字が一度止まり、それから狂ったように回りだした。周囲の塾生だけがどんどん加速していき、私だけ水のなかにいるみたいだった。
目を開けると、私はプールに沈んでいた。
水のなかで、私には尾ビレがついて、足の指が増えていき、自由に走り回れた。
掻くたびに、速くなる。
速くなるほど、岸が遠ざかる。
気持ちいい。
オタマジャクシの編隊が踊っている。
一、二、三、四!
五で世界が変わった。
足が重たい。息が出来ない。
プールの縁には無数のカエル。
止まるな、止まるなと鳴いている。
オタマジャクシが足を生やして歩いている。
声をあげようとしたら、口から水が溢れてきた。
止まれない。
止まった瞬間、私はもう数には入っていなかった。
気がつくと私はママの軽自動車の後部座席に座っていた。
ママが言う。
「どうだった?」
サイドミラーに写る私は、少しだけ別人に見えた。
このストップウォッチは、止めてはいけない 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます