春の雨、耳を濡らす

micco

春の雨、耳を濡らす

『あは、私。あなた、あんまりですわ。余りですわ。どうして来て下さらないの。怨んでいますよ。あの、あなた、夜も寝られません』

 泉希ミズキは『春昼しゅんちゅう・春昼後刻』の岩波文庫に顔を突っ込んだままうぅ、とうめき、ゴロリと薄いラグの上に転がった。

「耳が溶けそう」

 何度聴いても『加々見カガミカフェ』の、とりわけ泉鏡花の朗読は凄まじい破壊力だ、と突っ伏したまま唸った。登場する女の色気が加々見の声に乗って耳から入り込み、背筋をツゥ、と降りていく感覚に泉希はふる、と震えた。よく耳が犯される、と揶揄されるがまさにその通り。彼女は火照った頬に手を当てると、続きの朗読をクリックした。

 朗読の前に登場して挨拶する男性アバターをぼんやり眺め、泉希は深く息を吐いた。

『加々見カフェ』の朗読を聞くと、なぜか熱く溜まった肺の空気を入れ換えたくなる。

 無事に息を吐ききって顔を上げると、何の特徴もない──髪は濃い茶色であご髭を生やした男性──アバターが微笑んだり首を傾げたりぬるぬる動いている。量産的なアバターのせいなのか話す内容のせいなのか、この瞬間は何の魅力も感じないのが不思議だ。しかし、では今夜の朗読を始めます、と微笑んで話しているだろう軽快な口調が一拍置いて、

「『なるほど、そう思えば、舞台の前に』……」

 と話し始めた途端、アバターは画面から消え、題名と章の名前の静止画になる。暗い陰湿さを含んだ色気の滲む声に豹変する。そうなると、泉希はもう腰が立たなくなるほど恍惚とした心地になってしまうのだった。


 毎週木曜、『加々見カフェ』は朗読を配信、2週に1度はライブ朗読も行っている。泉希は自他共に認める常連で、「今晩は、加々見さん」と1番にコメントするために、木曜の夜はPCの前にコーヒーと文庫本を用意し30分前から待機するのが常だった。

 しかし今夜は、退勤直前に明日の会議の資料準備を頼まれてしまい、ライブの始まる8時に間に合いそうもなかった。

「今日は『春昼』のラストシーンなのに……絶対聴きたいのに」

 彼女は、苛立ちから何度もオフィスの壁時計とスマホへと視線を揺らしてしまい、作業が全く進まなくなっていた。PCの青白い光が彼女の寄せた眉の影を濃くし、顔色を悪く見せる。

 結局その日、泉希はライブ朗読に間に合わなかった。

 そしてそれきり『加々見カフェ』を聴きに行かなくなってしまった。



 例年より大幅に早まった梅雨は、飽きもせずアスファルトを打ち続けて、傘の影に隠れた白いブラウスをも濡らしてやろう、と躍起になっているようだった。

 泉希はすでにずぶ濡れになっているパンストの水分に顔をしかめつつ、伸びすぎて肩に届いた髪を煩わし気に横に流した。む、とした湿り気がまとわりついて、体中が汗まみれだった。

「夕飯買って帰ろう」

 G.W明けに退職者が出たためか、泉希の仕事は飽和し始めていた。残業が続き、帰りはコンビニのパスタで済ませることが増えていた。今日は何を食べようかでもパスタも飽きてきた、と傘から滴る雨粒に顔をしかめ、眩しすぎるコンビニの明かりを振り返った時、彼女は背中を腰までズ、となぞるような声に、知らず背骨を反らした。

「マルボロのメンソール、ボックスで」

 まさか、と目を剥いた。ポイントカードありますか、「はい、あぁすみません2つお願いします」

 自動ドアが閉まるに閉まれず、ガー、ガ、と戸惑いの声を上げたが、泉希はそれに気づけない。彼女はかすかに揺れながら、すぐそこで金を支払う男から目を離せなかった。

 ありがとうございましたー、と気の抜けた声を背に、男は泉希を気に留めることなくこちらに歩いて来る。

 ──生えっぱなしの無精髭、少しは気を遣っていそうな黒髪、何の特徴もないシャツとジーンズ、その泉希を惚けさせる声。

 チラ、と彼女に目を遣って男は滑るように夜の雨の中に出ていこうとした。逡巡は僅か。

「待って!」

 ひと息の間に、泉希はずぶ濡れになった。バラバラ、とその男の差す傘に当たる雨の音が彼女の鼓動を出鱈目に打って、掴んだシャツの背に酷いシワを作らせた。

「あの……誰?」

「ぁ、」

 泉希はその怪訝にしかめられた顔を見上げ、今更怖くなって手を離した。「あの、その」と、先ほど感じた確信に自信がなくなっていく。そしてつむじに雨が染み込んで、頭を冷やせ、と言われているように感じ、冷静さを取り戻した。不躾なことをまず謝らなければ、と彼女は伏せかけた目を無理に持ち上げた。

 不意に、彼女の額に目蓋に途切れなく訪れていた滴が止み、まばらな無精髭が近づいた。

「ずぶ濡れですよ、どこかで会いましたか」

 ゾク、としたのは雨で濡れたせいか声のせいか。泉希は僅か震えながら今度こそ確信した。

「『今晩は、加々見さん』」

 男の目が驚きに見開いた。



 加々見の自宅はすぐ近くだったが、着く頃にはふたりとも酷い有様になっていた。

 「もしかしてミズキさんですか」と問われ肯いた数瞬後、泉希は加々見に傘を持たせられ、反対の手首を取られた。「風邪を引きますから」と強く手を引かれる。彼女は傘はあるとも言い出せず、これでは加々見がずぶ濡れになるとも言えず、あぁ本人だったという高揚に疑問を抱くことなく、大人しく引っ張られ続けた。


 泉希がこのおかしな状況に気づいたのは、玄関にバスタオルを敷いた上でパンストを脱いでいる時だった。自分がごく自然に上がり込み、着替えをしようとしている軽率さに思い至り、動きを止めた。パンストをくしゃくしゃに丸めたまま途方に暮れてしまった。

「ミズキさん、このシャツに着替え……どうしたの?」

「いえ、あの。私、厚かましくてすみません。もう、帰ります」

「……あー、俺こそ勝手に引っ張って来ちゃってすみません。『ミズキ』さんだって思ったら、その、嬉しくてつい」

「わ、私も加々見さんにお会いできて、びっくりして。すごく、嬉しかったです。でも着替えまでお借りするのは、その……」

 いくらなんでも、と彼女は言葉を飲み込んで、加々見の髭の辺りを見つめた。真っ直ぐ目を見つめることは恥ずかしかったからだ。

「最近、仕事が忙しくて『加々見カフェ』聴けなかったんですけど、久しぶりに聴きたくなりました。私、本当に毎週楽しみにしてたんですよ。自慢じゃないですが、初回からのファンなんです」

 泉希は話の途中から頬が熱くなり、胸が震える心地にパンストを握りしめた。耳朶から滴が思い出したように落ちた。狭く薄暗い賃貸の玄関先で彼女に向かい合う加々見も、ほのかに顔を赤くしている。また拭いきれない水分が、彼の前髪の端からもぽた、と垂れる。

「加々見さんの声が大好きで、特に半端になっちゃいましたけど『春昼』のラストも本当に楽しみにしてました。あの日から残業で聴けなくなっちゃいましたけど、コメントも絶対1番に、って」

「うん、俺もミズキさんのコメント楽しみにしてました」

「ぇ、……あ、ありがとうございます。すみません、最近全然……」

 加々見はゆっくりと首を振り、「仕事なら仕方ないです」と一歩、タオルを片手に彼女に近寄った。それは顔に影が落ちる程の、近さ。

泉希は、彼の持つ真っ白なタオルが自分の肩にかけられた瞬間、思わず目を伏せた。気まずさと、彼との近すぎる距離、そして布一枚ごしに触れた手の感覚。彼女は「ありがとうございます」と胸元のタオルで濡れた耳を拭おうとし、「あっ」と羞恥で眉を寄せた。加々見の声が降る。

「でもその、多分着替えて行った方がいいですし……ミズキさんに、『春昼』の朗読、聴いてもらいたいんです」



 あたたかいコーヒーと岩波文庫、黒いPCにスタンドマイク。テーブルと座布団、本棚しかない部屋。青いカーテンの外はザァー、と雨が降り続けている。蛍光灯に白く照らされていても、どこか水の底に沈んだような湿気と薄暗さに、泉希はマグカップに落ちつきなく手を沿わせた。部屋の中は、外の蒸し暑さと別世界のように冷えていた。

 彼女は、加々見から借りたTシャツと短パンで部屋の隅に正座していた。彼はこれから朗読の録音をしようとしていた、と言葉少なに語った後、シャワーを浴びたようだった。今、ドライヤーの音が途切れた。

「お待たせしました。寒くないですか」

「いえ、大丈夫です。コーヒーであったかいです」

 乾かしたての加々見の清潔な姿に、僅か煙草の鼻に抜ける香りが漂い、泉希は内心緊張を深めた。先ほど「シャワーを」と言った彼の声にはどこか艶があって、思わずあり得ない展開を想像してしまったからだった。

 しかし、加々見はすぐPCの前に胡座になると、何やらカチカチとマウスを操作し始めた。ホッとしたのも束の間、薄く柔らかそうな白いシャツに肩の筋肉の線が透けていて、泉希は目を伏せた。ひとりで何を考えているのか、と彼女が自嘲に首を振った時、

「ミズキさん、こっちへ」

 と加々見が彼の隣を示した。「は、はい」とマグを持ったまま近づき彼女は「ここ見て」と指差された画面を覗き込んだ。

「あ、これって……『加々見カフェ』の」

「そう、ミズキさんが最近来ないって、チャット欄でも話題になったんですよ。その様子だと、ホントに全然最近は聴いてくれてないんですね」

 はは、と物の少ない部屋にちっとも楽しそうでない笑いが響いて、泉希は小さく「すみません」と言った。

「いいんです……あの、『春昼』のラストからですよね、聴いてないの」

「はい、そうです」

「今から読んでもいいですか。実は、そこ、納得した出来にならなかったんです。だから録り直すことに決めて……さっき、ミズキさんに会えたのは何か、あぁ、ちゃんとしたの聴かせろってことかなって」

 思って、と雨にかき消されるような呟きが泉希の耳に届いた。おずおずと顔を上げた彼女は加々見の視線に絡めとられた。探り合うような空気がふたりの間に詰まって破裂しそうになる。

 ふ、と彼が息を吐いてそれを霧消させた。「隣で聴いていて下さい」と彼女にヘッドホンを渡し、彼はすり切れたくたくたの文庫を手に取った。



「『寝衣ねまきにぐるぐると扱帯しごきを巻いて、霜のような跣足はだし、』……」

 始まった瞬間、ぐにゃり、と泉希の視界は目眩で歪んだ。

 泉希は朗読が始まる前にマグを手放したので、情緒の揺れにすがりつく物がない。そうでなくても久しぶりだからか、隣に本人が居るからか、耳に届く声は泉希を文字通り痺れさせた。

 しかし録り直しの現場で邪魔になっては、と泉希は録音ソフトの画面に集中し、鼓膜を食らうような声に身じろぎを我慢した。

「『黒い影で。』」

 低い、刺さるような声。

「『見物がにもいたかと思う、とそうではない。その影が、よろよろと舞台へ出て、御新姐ごしんぞと背中合わせにぴったり坐ったところで、こちらを向いたでございましょう、』」

 歌うように読む。泉鏡花の文章は歌のようだ、音にするとこんなにも心地いいのだ、と加々見から泉希は体の隅々まで教えられていた。その幻想的な夢の場面に引きずられるように、泉希は彼の方を向いてしまった。

 暗記しているのか、途切れなく声を発しながら彼も彼女の目をじ、と見る。

「『真個ほんとうなら、其処そこで死ななければならんのでした、』」

 加々見の手が文庫を反対に持ち替え、泉希に手を伸ばした。カサリ、と紙を繰っていた長い大きな指が彼女の肩を包む。耳に捻り込まれる振動。

「『勿論もちろん、肉はおどり、血はいてな。』」

 引き寄せられた。

 気づくと泉希は加々見の肩に頬を乗せ、彼に寄りかかっていた。ヘッドホンがカチャ、とズレて用を為さなくなった。彼はそれを躊躇ちゅうちょなく彼女の耳から外した。

「『しばらくすると、その自分が、やや身体を捻じ向けて、』」

 泉希は彼の低く震えるような声が、耳に直接送り込まれていると知り背を反らした。しかしどこを這うのか加々見の手がそれを許さず、彼女を彼の方に抑えこむ。

「『指のさきで、』」

 指が背骨をなぞった。

「『薄色の寝衣ねまきの上へ、こう山形に引いて』」

 腰の上まで指が下がる。

「『下へ一ツ、△を書いたでございますな、三角を。』」

 三角を。

「ぁ……」

 瞬間、声を塞ぐように彼の唇が彼女のそれを覆った。遠く煙草の味。



 木曜の夜、泉希は再びコーヒーと文庫を用意してPCの前に座るようになった。

 加々見から睦言で「ミズキのコメントがないと調子が出ないから、最近ライブはしてない」と知らされ、彼女は心底驚き、また意地汚くも頬を緩ませてしまった。

 顔も知らない相手をお互い独占した心持ちでいたのだろう、と仄暗い感慨が胸に広がる。

 彼女は「今晩は、加々見さん」と書き込み、いつの間にか増えている知らないアイコンを眺めた。

 業の深い相手を好きになったな、と彼女は今夜朗読予定の『舞姫』をパラリ、開いた。



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引用・出典

岩波文庫 泉鏡花 『春昼・春昼後刻』

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