仕事の時間だ


 クイーンズ地区、セクター4。

 事象の特異点は、どす黒い噴煙と共に摩天楼の合間から立ち昇っていた。

 天を焦がす黒炎、半壊し鉄骨を肋骨のように晒け出した高層建築。阿鼻叫喚の悲鳴を上げて逃げ惑う市民がいる一方で、その光景をスマートフォンのごとき思念端末デバイズで撮影し、あまつさえ「定期的に起こるイベント」などと称して歓喜する者たちがいる。

 あるいは、少し離れた安全圏とおぼしき場所から、腕組みをして高みの見物を決め込む『異能者ギフテッド』たち。

 この魔都においては、恐怖と娯楽は等価交換され得る。テロリズムという名の破壊活動ですら、力を持つ者、あるいは倫理のタガが外れた者たちにとっては、退屈な日常を彩る余興に過ぎないのだ。

「楽しそうでなによりだな」

 ルビアズは群衆を一瞥し、鼻を鳴らした。

 確かに、この腐敗と混沌に満ちた世の中を、さも清廉潔白であるかのように美化して報じるマスメディアの欺瞞は反吐が出るほど嫌いだ。だが、この混沌カオスをあるがままに享受し、享楽に耽る彼らの姿は、むしろ清々しいとさえ感じる。

 嘘で塗り固められた平和の賛歌よりも、欲望と狂気が剥き出しになったパレードの方が、幾分か健全と言えるのではないか。

 思考操作で『デバイズ』を展開し、現場座標を確認する────までもない。

 眼前に聳える、威容を誇るはずだったそのビルは、今や幾何学的な光の紋様に包まれている。

 魔術防御壁マジック・シェル

 結界の類だ。内部の様子は曇りガラス越しの風景のように歪曲し、判然としない。

 刹那、その障壁の内側から一条の光線が奔り、対面の商業施設を薙ぎ払った。爆発。火災。粉塵。

 追撃の光線が放たれたが、その射線上にいた野次馬の一人────身なりからして一般の『呪術師カース・ユーザー』か『魔術師ヴィザード』であろう男が、懐から取り出した水晶球でその熱量をあろうことか吸収してしまった。

「おい見ろよ! 純正の魔力光線だぞ、高く売れる!」

 仲間らしき数名とハイタッチを交わし、歓喜の声を上げる男たち。

 一般市民の中にすら、兵器に匹敵する力を持つ者が掃いて捨てるほど存在する。これが、この世界の日常だ。

 しかし、視線を足元へ向ければ、そこには肉塊と化した逃げ遅れた住民、交戦の末に全滅したとおぼしき重武装警察隊、そしてNYPDら特殊部隊員の無惨な死体が転がっている。

 力の格差がもたらす必然の帰結。気分の良いものではない。

「とっとと終わらせるか」

 ルビアズの姿が掻き消える。

 縮地フラッシュ・ステップ

 空間を跳躍したわけではない。単なる脚力が、物理的な距離を一足で食い潰したに過ぎない。

 瞬きする間に、彼女は封鎖されたビルのエントランス直前に立っていた。

 『デバイズ』から、みほよの冷静な声が響く。

『対象テロ組織は『赤き暁の牙レッド・ドーン・ファング』。情報照合完了。現地構成員は……全て、人間ヒューマンのようです』

「あ? んだよそれ、『エグジスト』ですらねぇのか」

 ルビアズは心底呆れ果てた。

 たかが『異能者』、それも人間の集団ごときに、国家の治安維持組織が全滅したというのか。平和ボケした公務員たちの脆弱さには開いた口が塞がらない。

「なら楽な仕事かもな。掃除クリーニングの時間だ」

 彼女は無造作に、右手の指先で眼前の輝く防御壁をなぞった。

 触れた一点から、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 パリン、という硬質な音が大気を震わせ、何重にも張り巡らされた高位魔術の障壁が、まるで薄氷のように砕け散った。

 『エグジスト』特有の異能などではない。単なる指先の力、物理的な干渉のみで、魔力の構成式をねじ伏せたのだ。

 障壁の残滓が煌めく中、ルビアズは悠然とビル内へと足を踏み入れる。

 ロビーを占拠していた数十名の武装兵たちが、一斉に彼女へ銃口を向けた。

「なんだ貴様は!?」

「どうやってシールドを破壊した!」

 怒号と共に、空中に魔術式を描き始める者、空間を抉る威力のレーザーライフルのトリガーに指をかける者。

 そんな彼らの敵意など、路傍の石ころほどにも意に介さず、ルビアズは虚空へ問いかける。

「みほよ。不殺じゃなくていいな」

『はい。彼らは無差別な殺戮と破壊を繰り返してきた連中です。情け容赦無用でいい、とのことです』

「了解。なら、楽だ」

 ルビアズの口元に、冷酷な笑みが浮かぶ。

 みほよのような年若い少女ですら、この程度の流血には割り切った反応を示す。

 この街において、敵対者への躊躇は死と同義だ。一瞬の温情が、数百の市民の犠牲を生み、あるいは世界の均衡を崩す引き金となることさえある。

 それに、ここは自己責任の世界だ。

 『エグジスト』や『異能者』が絡む事件、あるいはテロリズムの現場に自ら足を踏み入れた場合、生命の保証は一切なされない。保険の適用外。殺すも殺されるも、全ては個人の力量と運に委ねられる。

 政府の怠慢と、弱肉強食のことわり

「死ねぇッ!!」

 一人の兵士が絶叫し、高出力のレーザーを放った。

 光速で迫る熱線がルビアズの胸部に直撃する────が、彼女は歩みを止めない。

 真紅の衣服がわずかに焦げるものの、その下の皮膚には傷一つ付いていなかった。彼女が纏う服もまた、最新鋭のナノマシン技術で編まれた自己修復繊維オート・リペア・ファブリックであり、瞬時に損傷を塞いでいく。

 ルビアズは、まるで散歩でもするかのように一歩を踏み出し、次の瞬間には兵士の目の前にいた。

 ナノ秒単位の超高速機動。

 兵士が瞬きをするよりも速く、彼女の手が彼の肩に触れる。

 埃を払うような、軽い動作。

 だが、その掌が生み出す運動エネルギーは、トラックの衝突など比ではない。

 ドヂャッ、という不快な破砕音。

 魔術シールドを内蔵した特殊繊維の戦闘服ごと、兵士の上半身がひしゃげ、一瞬にして肉の塊へと変貌した。

「次」

 殺戮の舞踏が始まる。

 一歩進むごとに、死体が積み重なる。


 その光景を、ロビーの奥で見ていた最後の女性構成員の視界が捉える。

 赤い髪の女が動くたび、仲間たちが不可解な死を遂げていく。

 瞬きをした。

 次の瞬間、視界を埋め尽くしていた三十人の仲間は、床と壁を彩る赤黒い染みへと変わっていた。

 地獄絵図。

 彼女が理解できたのは、眼前に立つ、自分より頭一つ分は巨大な、赤い死神の存在だけだった。

「魔術師は何人だ」

 見下ろす視線。絶対強者の冷徹な響き。

「ひっ! ご、五人、ですっ……」

 恐怖で喉が引きつる。

「そうか、なら楽でいい」

 大女は興味を失ったように視線を逸らし、空中の『デバイズ』画面を眺め始めた。

 隙だ。

 女は生存本能に突き動かされ、自身の『超能力』を発動させる。右手の五指が超硬度の刃物へと変形し、音もなく大女の首筋へと迫る。

 殺れる────。

 そう確信した瞬間、世界が反転した。

 蚊を払うような手の甲。

 女の意識は、自身の肉体が霧散する認識すら持てぬまま、永遠の闇へと落ちた。


 ルビアズは疾風のごとく階層を駆け上がった。

 侵入者を阻むためのトラップ、自動迎撃術式、呪いの霧。それら全てが、彼女の圧倒的な生命力の前では意味を成さない。

 五階。十階。二十階。

 途中、三人の『魔術師』に遭遇した。

 男二人、女一人。彼らはルビアズの顔を見るなり、「『鮮血の貴婦人デイム』だ!」と戦慄したが、抵抗も虚しく一瞬で沈黙させられた。所詮は人間、どれほど魔道を修めようと、生物としての格が違う。

 その時、『デバイズ』に通信が入る。女の声。

 依頼元である、連邦超常現象対策局FBPCの担当官からだ。

『ジャスパーさん、聞こえていますか。念のため忠告しておきますが、当該ビルは国の重要文化財指定こそされていませんが、国有資産です。一切の破壊行為を禁じます。もし構造体に著しい損害を与えた場合、成功報酬は前金のみとし、追加報酬は支払われません』

「……チッ」

 事務的な女の声に、ルビアズは舌打ちで応え、一方的に通信を切った。

 もう手遅れだ。『赤き暁の牙レッド・ドーン・ファング』とやらのトラップで、建物内はめちゃくちゃに破壊し尽くされている。呑気すぎる国の役人共に苛立ちが募る。

 四人目の『魔術師』が踊り場で待ち構えていた。

「即死せよ!」

 高らかに呪詛を吐き、生物の心臓を停止させる黒魔法を放ってくる。彼女に命中するが、何ら効果はなかった。

 ルビアズは欠伸を噛み殺しながら歩み寄り、軽くデコピンを見舞った。

 衝撃波が廊下を突き抜け、魔術師は壁ごと粉砕されて空の彼方へ消えた。

 突入から五分とかからず、ビル内のテロリストは壊滅した。

 だが、最後の五人目が見当たらない。

「みほよ、残りは?」

『反応はあります。最上階……ですが、空間位相がズレています。実空間から切り離された亜空間ポケット・ディメンションに潜伏しているようです』

「うわー……だっる」

 ルビアズは天を仰いだ。

 『エグジスト』は万能ではない。『魔法』や『呪術』といった理外の力は、あくまで力無き人間が編み出した創意工夫の産物だ。

 対して『エグジスト』は、細胞や遺伝子そのものが世界を侵食するほどに進化した存在。外部からの魔力干渉を受け付けない代わりに、繊細な術式を構築することもできない。彼らの細胞が魔力や術式を喰らい尽くしてしまうからだ。

「『ルキフェル』の魔術師を連れてくればよかったな」

 ぼやいた直後、景色が歪んだ。

 強制転移テレポート

 気がつけば、ルビアズは無機質な純白の空間に立っていた。

 無限に続く白い床と天井。

 その中心に、豪奢なローブを纏った一人の女が立っていた。

 パチ、パチ、パチ。

 乾いた拍手の音が響く。

「Bravo. Sei davvero un mostro come dicono《ブラボー。噂通りの化け物ね》」

 女が艶然と微笑む。

「Chi sei? Parla una lingua che capisco《誰だお前。わかる言葉で話せ》」

 ルビアズが流暢なイタリア語で返すと、女は眉をひそめ、すぐに英語へと切り替えた。

「失礼。私は『赤き暁の牙レッド・ドーン・ファング』の創始者、エヴァジェリンEvangeline。この腐った世界を浄化するために────」

 高らかな自己紹介と、組織の崇高な理念とやらが語られ始める。

 ルビアズの肌が粟立つ。恐怖ではない。相手から溢れ出る魔力の奔流。こいつは、相当な上位魔術師だ。

「我々の同志にならないか? 貴女のような『エグジスト』がいれば、我々の理想は────」

「悪いが」

 ルビアズは言葉を遮り、腕時計を見る仕草をした。

「家に食べかけのパエリアが残っているんだ。冷めちまう。いや、もう冷めてるけど」

 彼女にとって、テロリストの理想郷よりも、昨晩作りすぎたパエリアの味の方が遥かに重要事項だった。

 エヴァジェリンの顔が引きつる。

「……交渉決裂ね」

 女が杖を掲げ、詠唱を紡ぐ。空間そのものが軋み、悲鳴を上げ始めた。

 多重展開された攻撃術式。人間業としては神域に近い。だが、所詮は人間業。

 そして何より、近接戦闘最強の『エグジスト』である彼女を自身の領域テリトリーに招き入れたことが、彼女の最大の過ちだった。

 ルビアズが地を蹴る。

 防御魔法の障壁が何層展開されようと関係ない。

 紙を破るようにそれらを突破し、ルビアズは右腕を振るった。

 バヂィッ!!

 防護結界が砕ける音と共に、エヴァジェリンの右腕が根元から弾け飛ぶ。

「ぎゃあああああああッ!!?」

 絶叫。血飛沫が白い空間を汚す。

 ルビアズは冷ややかな瞳で見下ろした。

「どんなに高貴に取り繕おうと、所詮は痛がり屋・・・・の人間だな」

 『エグジスト』の感覚すら、人間もとい、哺乳類のそれとは別物である。痛みとは本来、体の危険信号を伝える情報。だが、彼らにとってほとんどのダメージは危険と認識はされないため、出血や、四肢がもげようと、内臓がはみ出ようと、命に別状がないのであれば、それは「修復が必要」という信号でしかないのだ。もちろん、個体差はあるが。

 のたうち回るエヴァジェリンが、残った左手で必死に別の術式を組もうとする。

「しつこい」

 早く帰りたい。パエリアを食べたい。眠くはないが、眠りたい。

 その苛立ちが、彼女の攻撃の威力を過剰なまでに引き上げた。

 右手。

 手刀。

 縦一閃。

 轟音。

 空間結界の崩壊と共に、ルビアズは現実世界へと戻ってきた。

 だが、彼女が放った手刀の余波は、術者を消し飛ばすだけに留まらなかった。

 衝撃波は垂直に突き抜け、ビルの構造体そのものを両断していたのだ。

 ガラガラと音を立てて崩れ落ちる巨大建築物。

 ルビアズは崩落する瓦礫を足場に、ふわりと地上へ舞い降りた。重力を感じさせない、羽毛のような着地。

 背後では、数十億ドルの価値があるビルが、巨大な瓦礫の山へと変わり果てていた。

 幸い、最初に張られていた防御壁の残滓と、彼女が無意識に放った力の余波が相殺し合い、周囲への被害は奇跡的に皆無だった。

 衣服の自動洗浄機能が働き、付着した返り血や塵を瞬時に浄化していく。

「…………やっちまった」

 ルビアズは明後日の方向を見た。

 私は関係ない。これは不可抗力だ。

 どんな力があろうと、不要な破壊を撒き散らすのは三流の証。真の強者は、物理法則すらねじ伏せ、破壊すべき対象のみを破壊する。とてつもない力を持ったものがうじゃうじゃいるこの世界が、崩壊せずにすんでいるのはその為だ。彼らのその、衝撃の余波を抑え、破壊したいもののみを破壊すると言う、物理法則すら無視した、無駄に高められた技術。

 なので、特に『エグジスト』同士の乱戦が起こっても、高位であればあるほど、驚く程に周りの被害はないのだ。

 つまり、これは彼女の制御ミス────というよりは、単なる八つ当たりだった。

 『デバイズ』が震える。FBPCの担当官からだ。

『やってくれましたね、ジャスパーさん』

 氷点下の声。

『テロ組織の壊滅および、指名手配中のA+級魔術師の排除。その功績に免じて、器物損壊罪等の刑事責任は問いません。ですが……』

「ああもう! わかったよ! 報酬は前金だけでいい! 賠償金が必要なら私の裏口座から勝手に引き抜け!」

 ルビアズは怒鳴り散らし、通信を遮断した。

 直後、みほよからの通信が入る。

『やっちゃいましたねー』

 心なしか、その声は弾んでいる。

「うるさい。もう帰る。赤字だ、くそったれ」

 パンパン、と服についた見えない埃を払う。

『いいじゃないですか。ルビさんが派手にやってくれたおかげで、今後出るはずだったたくさんの犠牲者が増えずに済みました』

「どうでもいい。帰って、パエリアを食べて、寝るんだ……」

 威厳も覇気もない、ただの疲れたOLのような声。

 『エグジスト』は水だけで活動可能であり、生存の為だけなら空気中の僅かな水分で事足りる。本来睡眠も必要としないのだが、彼女にとって、食事と睡眠は何よりの娯楽であり、現実逃避の手段なのだ。

『後処理するのは私なんですからね。報告書の作成、賠償金の計算……ああ、頭が痛い』

「Scusa, ti comprerò una torta più tardi《悪い、あとでケーキ奢るから》」

『Non cercare di corrompermi con il cibo... ma accetto《食べ物で釣ろうとしないでください……まあ、受け取りますけど》』

 苦笑混じりのイタリア語が返ってくる。通じないと思い、誤魔化そうと思ったが、彼女には通用しなかった。

 ルビアズは袖口を見た。ナノ繊維の一部が、先程の戦闘でわずかに綻んでいる。それに、人間如きの兵器で傷がついたのも癪だ。

「素材の改良が必要だな」

 独りごちて、彼女は地を蹴った。

 破壊の跡地に残る黒煙を置き去りにして、真紅の影が日常へと帰っていく。

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