第2話 砂の贈り物
時は最初の実験から少し戻る
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夜の公園は、不自然なほど静かだった。 風もなく、木々の葉もほとんど動かない。空気が凍っているような感覚があった。 洋子は研究所からの帰り道、通い慣れた遊歩道を抜けようとして足を止めた。 街灯がひとつ、消えている。 その暗がりの中に、微細な光が漂っていた。
最初は虫の群れかと思った。夏の名残の蛍かもしれない。だが近づくにつれて、それがもっと異質なものであると気づく。 光の粒が宙に浮かび、一定の形を保とうとしている。 まるで、空気そのものがそこだけ別の密度になったかのように。
「……なに、これ」
思わず声に出た。 瞬間、光の粒たちが反応したようにゆるやかに広がった。 蒼白い光の膜が、波紋のように洋子の周囲を包み込む。 心臓が一瞬、止まったように感じた。視界がぼやけ、耳鳴りがする。 体の感覚が遠のく。 そして、ほんの数秒後——すべてが静止した。
周囲の音が消えている。 風も、虫の声も、遠くの車の音も。 世界が一枚の写真になったような沈黙。 洋子はゆっくりと自分の掌を見た。 そこに、ひとつの砂時計があった。
手のひらにすっぽり収まる小さなもの。 透明なガラスの中で、細かい砂が青く光っている。 青といっても、ただの青ではない。 深海の底に差し込む光のような、冷たく澄んだコバルトの輝き。 まるでそれ自体が、何かの“記録”を閉じ込めているようだった。
「……夢?」
思考が追いつかない。 だが、砂時計の感触は確かにそこにある。 温度を持っていて、指先に伝わる重量も現実そのものだ。 洋子はその小さな物体を両手で包み込み、そっと確かめた。 どこからともなく、声がした。
——“君に返す”。
耳ではなく、頭の奥に直接響いた。 音というよりも意味だけが伝わる。 洋子はあたりを見回した。誰もいない。 ただ、光の粒が再び動き出している。 人の形のようにも、霧のようにも見える。 その中から、ぼんやりとした“輪郭”が立ち上がった。
背の高い影が三つ。 それぞれが輪郭を持たず、光の集合体のように震えている。 視界が明滅する。まぶしさよりも、不気味な静けさの方が強い。 洋子は一歩後ずさった。
「あなたたちは……誰?」
答えはなかった。 ただ、光の影のひとつが、かすかに形を変えた。 指先のような部分が、洋子の掌の砂時計を指す。 そして、再び声が響く。
——“時間は流れではなく、層だ”。
——“君は、その層に触れた”。
意味を理解するよりも早く、洋子の頭の中に強烈な映像が流れ込んだ。 それは過去の記憶の断片だった。 研究所の白い廊下。机の上の石の標本。 コーヒーをこぼして、同僚に笑われた場面。 それらが、青い光の粒となって目の前に漂い、崩れていく。
「やめて……!」
叫んだ瞬間、光の群れが一斉に収束した。 強い閃光。目を閉じても焼き付くほどの輝き。 そして、再び暗闇。
気づくと、公園はもとの静けさを取り戻していた。 街灯は点いている。 風が吹き、木々がざわめいている。 足元には落ち葉が散っていた。 洋子の手の中には、あの砂時計がそのまま残っている。
周囲を見回す。誰もいない。 何かの仕掛け? もしかして催眠? だが、科学的説明が追いつかない。 砂時計の内部の砂は、微かに揺れていた。 それを見ているうちに、身体の震えが少しずつ治まっていく。
「……とりあえず、持って帰って調べよう」
洋子はバッグの内ポケットに砂時計を入れた。 重さは、思っていたより軽い。 ただ、肌の上に乗せたときの存在感だけが、妙に強く残っている。 帰り道の街灯の明かりが、やけに白く感じた。 車の音が戻り、人の話し声が遠くから聞こえてくる。 世界が動き出したのを確認しながら、彼女は研究者の癖で頭の中を整理し始めた。
幻覚の可能性は? 外因性? 疲労による幻視? けれど、物体として手にある以上、それでは説明できない。 夢だとしても、触覚がここまで鮮明な夢は稀だ。 やはり何らかの現実的現象として扱うしかない。 家に戻れば、観測装置で微量放射や磁場の変化くらいは測定できるだろう。
そう考えると、怖さよりも興奮が勝った。 未知の現象に立ち会ったときの、あの理屈抜きの高揚。 幼い頃から、洋子はその感覚に取り憑かれていた。 地質学を志したのも、地層という“時間の記録”を読み解きたいと思ったからだ。 だから、時間そのものを扱うこの出来事は、彼女にとって抗えない誘惑だった。
家に着いたのは二十三時を少し回った頃。 部屋に灯りをつけ、砂時計を机の上に置く。 青い砂は静止している。 ガラス面に指紋をつけないよう、ハンカチで軽く拭う。 表面に傷ひとつない。 製造刻印もラベルもない。完全な無銘品。 どこで作られたのか見当もつかない。
ルーペを取り出し、ガラスの接合部を観察する。 溶着面が存在しない。 まるで一塊の結晶から削り出されたようだ。 しかも内部に気泡もない。 人間の技術でこれほど精緻な造形ができるだろうか。 手に取ると、わずかに温かい。 いや、手の温度に反応しているようにも思える。
「……これは、何者の仕業?」
誰に聞かせるでもなく、独り言が漏れた。 頭の中で、さきほどの声が蘇る。 ——“君に返す”。 返す、ということは、かつて自分がそれを持っていたという意味だろうか。 記憶にない。けれど、なぜかその言葉に奇妙な懐かしさを感じた。
洋子は机の上のノートを開いた。 “未知の青色発光物体。砂時計状。構造:不明。発光スペクトル測定要。” 項目を並べて書き込む。 習慣のようなものだ。 頭の中を整理するとき、彼女はいつもこうして事実を列挙する。 その行為が思考を落ち着かせる。 “入手経路:不明(公園にて)。発光現象を伴う光群体から出現。音声通信ではなく意味伝達。” 書きながら、自分が非現実的なことを淡々と記していることに気づき、苦笑した。
「……まるでSFみたいね」
声に出してみると、かえって現実感が増した。 SFという言葉の裏には、“科学的に説明できないが、それでも真実かもしれない現象”が隠れている。 洋子はその言葉の曖昧さを、子どもの頃から好んでいた。
ペンを置き、砂時計に目を向ける。 光は落ち着き、ただ静かに青い色を保っている。 時間を戻す装置。 あの連中はそう言った。 仮にそれが真実だとしても、時間をどうやって“戻す”のか。 エネルギーではなく構造? 層? 意味不明だ。 だが、その不明瞭さが逆に魅力的だった。 未知の理論ほど、研究者の心を掴むものはない。
深夜零時。 洋子はノートを閉じ、砂時計の隣に小型カメラを設置した。 連続撮影モードに切り替え、レンズを砂に向ける。 発光パターンを記録するためだ。 それから椅子に腰を下ろし、砂時計を見つめた。 一分、二分……何も起こらない。 だが、奇妙な静けさが続く。 まるで砂が息をしているように見えた。
気づけば、眠気が忍び寄っていた。 まぶたが重くなり、意識が揺らぐ。 最後に見たのは、砂時計の内部にゆらりと浮かんだ微光。 それが小さく脈動するように明滅していた。
夢の中で、誰かが言った。 ——“観測者がいなければ、時間は存在しない”。 その言葉を聞いた瞬間、洋子は目を覚ました。 時計は午前二時を指している。 机の上の砂時計が、微かに震えていた。 ガラスの中の砂が、音もなく流れ始めている。
洋子は息を呑んだ。 それが、最初の“零時界”の予兆だった。
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