トムズベル

渋紙のこ

第1話 コンコン探偵

 アンと共に生きていこうと決めたとき、俺は確かに幸せだった。誰かに指図されたわけでもなく、自分で選んだ道だ。アンを一点の迷いもなく、愛していた。問題は、そのあとだ。俺はいつだって短距離走者だった。ジョギングも三日で、ダイエットも五日で挫折するような男だ。アンと幸せで居続けるためには、きっと苦手な続ける努力というやつが必要だったのだ。そのことに気づけなかった。自分のことほど色メガネをかけてしまうというだろう。自分のことが見事に把握できたなら、それだけで人生は成功に近づく。いくつもあった分岐点で、多くの人がそうであるように、俺も間違ったんだろうな。アンとの幸せを一番に選び取ることもできたはずだった。選ばれなかった命に、俺の求めるものがあったかもしれないのだ。縁がなかったと簡単に割り切れない。それが誰にも気づかれたくない俺の弱さだ。

 俺が器用なさよならなどできるはずがない。俺にはアンをすぱっと刀で切り落とすことなどできない。アンとの愛はいつ終わっていたのだろうか。冷たい男ではないと自分では思っている。見たこともない厚い段ボールを小さなハサミで、導きもなく、アンの姿をジョキジョキと切るようになんとか終えようとする。切り口は醜い。

すがるように文房具屋の店員さんに

「よく切れるハサミはありますか?」

と聞いたなら、きっとこう言われるだろう。

「普通のハサミでいいですか?」

 そうだ。切れないハサミなど売ってるはずがないのだから。ずっと続いてきたアンとの関係を切り離して後悔はないか。未練はないか。こんなにぐずぐずと悩んでいるのをアンが知ったら、アンはなんていうだろう。理詰めのアンには、いつも口げんかで負けた。俺は独りよがりで考えてるふりしかしてこなかった。悩むのは得意じゃない。それでもこの決断には、俺の人生がかかっている。決断しなければ生きていけない。珍しく俺の頭の中で思考が終わっては始まるを繰り返した。俺はやり遂げる。大きな敵に向かう戦士になるのだ。強い意志に全てをかけて。終わりについて考え始めてから、俺は周りの音が聴こえにくい。この決断のために多くの時間を浪費した。選んでも、選ばなくとも、楽な道はない。さまざまな苦悩が俺の中を駆け巡った。ポジティブな考えを、楽しむ方を、アンの笑ってる姿を選び取れる男であったなら、答えは違っていただろう。うまくいかないときは、何をしてもダメなんだ。自分で選択した道であるはずなのに、全ての確信が揺らぐ。

「ほら、この曲わかる?」

 アンが、俺のコートの裾を引っ張り、俺の反応を覗き込むように待っている。

「あぁ」

 俺は力なく答える。

「ほら」

 そう言って、健気に俺の反応を待っている。アンはまだ何も知らない。アンは、いつでもポジティブだった。アンが落ち込んでいるところを見たことがない。その明るさに救われたときもあった。クリスマスイブの町に流れるご機嫌なクリスマスソングは、今日の俺の耳に届かない。だめみたいだ。身体の内側で、ガンガンに鳴り響く悲鳴が大きすぎる。あぁ、金だ。金さえあれば、俺は救われる。俺の周りを歩くクリスマスイルミネーションに群がる恋人たちに、金がなければ、俺の状況が良くならないと知らせて回るか?それとも金を恵んでくれるように頼むか?そうだ、とりあえず仲の良さそうなカップルの間をわざと歩いて邪魔してやろう。俺の人生は、どこから狂ってしまったんだ。金のせいでなければ、アンのせいだ。しらふで考えても、酒を飲んで考えてみても、金とアンから逃れられないという思いが強くなるだけだった。

 もう嫌だ。俺の身体がちぎれそうだ。頭と心がちぐはぐだ。救済を求める悲鳴が鳴り響く。「もう限界だ」それが、今日、二十回目の独り言だと気づいて、ぞっとした。今、クリスマスイルミネーションの中をアンと腕を組んで歩く俺は俺じゃない。もう身体から魂が抜け出てるんだ。

 除夜の鐘や園児の声がうるさいと言うやつがいるらしいが、そんなものじゃない。そもそも俺は、自分の悲鳴が身体中を支配し、周りの音が聴こえないんだ。今の俺にとっては、世界平和より自分の悩みが重要なんだ。俺はアンの隣で、同じ思考をぐるぐると繰り返していた。

 アンがまた口を開く。

「ほら、この曲も」

 アンと付き合って、初めてのクリスマスに二人で肩を寄せ合って聞いた曲だった気がする。そんな大切な曲でさえ遠くで鳴るだけなんだ。今の俺には聞こえない。

 アンが、二人の思い出話を続ける。俺は、今後の金のことを考えていた。一人で生活するための金だ。高いコートは諦めよう。食事は、インスタントラーメンでも構わないさ。でも、早急に必要となる引っ越し代をどう捻出しようか。貯金は、雀の涙ほどしかない。アンから逃げても、地獄。逃げなくても、地獄というわけだ。

 アンが、「寒いね」と言って、俺の顔を見る。俺は、こわばった顔で、アンを見た。

「あら、かわいい」

 今度は何だ?

「ほら、見て」

 アンがまた俺のコートの裾を揺らす。俺は、終わらせるための勇気を振り絞って言った。

「別れてくれないか?」

「いいわよ」

 実にあっけない幕切れだった。えっ?と俺の方が、口を開いたまま、止まってしまった。俺が別れを切り出した後も、アンは変わらなかった。俺にはそう見えた。

「ほら、見てかわいい」

 乳母車に乗せられた赤ん坊を見て、俺に同意を求める。俺は苦笑いで返した。大学卒業と同時に結婚して、二十年。この茶番劇に付き合ってきたのだ。家でのアンは、赤ん坊には見向きもしない。赤ん坊が出るたびに、チャンネルを変える。ママタレなど大嫌いだと言い放つ。それなのに、どうしてだ。外出した途端、赤ん坊を見ては、「かわいい、かわいい」と繰り返す。女の気持ちなんかわからないが、誰のための言葉なんだろう。赤ん坊が好きなアンを誰に見せたいのだ。俺にはわからない。

 俺は、アンを本当に愛せていたのだろうか。アンと意志疎通ができていただろうか。俺は、そのための努力をしただろうか。アンの「いいわよ」に込められた言葉の意味をかみしめていた。アンに対する俺の本当の気持ちを伝えられていただろうか。

今日、俺は、アンを幸せにするという責任を放棄したのだ。アンは今、何を考えているのだろうか。俺は、まじまじとアンを見た。それに気づいたアンが言った。

「三か月よ。三か月待って。私に新しい彼氏ができるまで」

 アンは、「慰謝料はいらないわ」と続けた。

 俺は、ますますアンのことがわからなくなった。俺は、アンに本当はなんと答えてほしかったんだろう。拍子抜けしてしまった。別れたくないとすがってほしかったのだろうか。離婚を重大なことと考えていたのは、俺だけだったんだろうか。全て俺が間違っていたという気持ちになった。いたらなかったのは、俺の方なのか。アンは完璧な妻だったのではないか。俺はアンにとって最初から重要な存在じゃなかったのだろうか。それだけのことか。

 実際に離婚で困るのは、圧倒的に俺の方だ。俺はしがない探偵。アンは、資産家の娘で、今や会社の副社長だ。全ておんぶにだっこだった。俺は、たまに高いところのものを取ってあげるぐらいで、家事もほとんどしたことがない。アンは、俺のことをボランティアで夫にしてくれていたのだろうか。子供もなく、アンは、これから俺という足かせがなくなって、どこまでも自由を手に入れることができるのだ。そりゃ、「いいわよ」と答えるだろう。アンの夫は、センスの良い男でなくてはならなかった。それが、常にプレッシャーだった。アンの友達に会うたびに、セミオーダーのスーツをオーダーメイドで作ったとウソをつき、やり手で、何人も雇っている探偵事務所を経営してるふりをしなければならなかった。本当は、バイトを雇う金もなく、ぼろぼろの事務所で、ひっそりとアンのコネで舞い込む仕事をこなしているだけなのに。

 俺は、自分で言い出したことなのに、とてつもなく寂しくなっていた。この五分くらいで、もう後悔していた。ろくでなしの証拠だ。この先、切り詰めた生活が待っているだろう。安定した生活をかなぐり捨てても、これ以上耐えられないと。そう思ったことに間違いはない。アンとの離婚を本格的に考え始めてから、アンが何かするたびに、ストレスで身体がかゆくなった。結婚生活の末期には、全身をかゆみが暴れまわった。全て嫌になっていたのは、間違いない。だが、確信がまた揺らいでいる。畜生。

 いつの間にかアンがいないと、何もできない男になっていた。だから、俺は、アンと別れることを決めたんだ。俺が俺らしく生きるための選択だと疑わなかった。アンに伝えるまでは。

 アンは、毎年一緒に行くレストランを出ると、

「ホテルに泊まるわ」

 と言って、去っていった。そのまま着替えも持たずに、家に帰ってこなくなった。

 俺は、アンと暮らしていた高級マンションで、年越しも一人、細々と暮らした。相当な覚悟を持って言ったことだけども、アンがいないだけで、部屋にからっぽを感じた。

 コンビニで酒とつまみを買い、レシートをポケットに入れた。すると、リップクリームが出てきた。俺の唇が、かさかさになってるのを見て、アンが選んでくれたものだった。「そうか」かさかさな唇に、そのリップクリームを塗った。何度か重ね塗りをすると、唇がよみがえった。「そうか」とまたつぶやいた。風呂場には、毛髪が薄くならないように、アンが選んでくれた育毛シャンプーがぽつんと置いてある。唇がうるおっても、毛髪がふさふさになっても、誰に見てほしいと言うのだ?

 アンと付き合い始めた頃、俺の見た目がそこそこ良かったから、アンは俺に振り向いてくれたのだと思っていた。付き合った後に、アンの叱咤激励のおかげで警察官にもなった。アンにプロポーズした。有頂天にもなった。もちろん俺たちは、幸せの絶頂にいて、アンは俺をまっすぐに見てくれていた。アンのとてもきれいに巻かれた髪に俺は触れるのが好きだった。しかし、今はどうだ?とても老けた。歯を磨こうとして、鏡に映った自分を見て思った。そこには、生きる希望を失った男の顔があった。さらにまじまじと自分の顔を見た。もう俺に興味を持ってくれる女性なんて見つからないだろう。そう感じて、仕方なく寝酒を飲み、眠りについた。

 目覚めると、またアンのことを考えていた。アンとのいい思い出と苦い思い出が交互にやってきて、俺は混乱した。アンをあんなに華やかなイルミネーションの中で傷つける必要があったのだろうか。最後に別れを告げたとき、アンは俺の方を見なかった。

 どこまでも未練たらしくて、見苦しい男だなと思った。アンのことを考えるのを止めようと思いながら、どうしても考えてしまう日々が、アンとの離婚が正式に決まるまで続いた。

 約束の三か月の間、電話に手を伸ばし、アンに、

「別れずに、またやり直せるか?」

 と何度言ってしまいそうになったかわからない。自分で言い出したことを撤回する格好悪さに気づいて、とうとう言い出せなかった。俺はプライドを捨てきれなかったんだ。

 その日、アンは、新しい彼氏を連れて、事務所にやってきた。アンより年下だと言う彼氏の名刺には、「情報統括本部部長」と書かれていた。俺に会いに来るだけなのに、きちんとスーツで、小さな柄の入ったシャツに、高そうなネクタイを身に着けてくるようなやつだ。アンは、髪を少し切っていて、パーマをかけ、ふわりとした雰囲気になっていた。やけにおしゃれをしていた。

「この人と付き合うことになったから」

 アンは、そう言った。

「そうか」

 言われた通りに、アンの持ってきた離婚届にサインをした。

「じゃ、さようなら」

 書類を書き終えると、すぐにアンは立ち上がった。

「それだけか?」

 俺は、そう言った。

「それ以外になんて言うの?」

「何かあるじゃないか。今までありがとうとか」

「そんな言葉必要?」

 アンの言葉に情報統括本部部長が笑った。二人でこれから俺を笑うんだなと思ったら、悔しくなってこう言った。

「元気で暮らせよ」

「言われなくても、そうするわ」

 また小さく情報統括本部部長が笑った。

「少し片づけなさいよ」

と最後に俺に言って、アンと情報統括本部長は腕を組んで事務所を出ていった。とてもアンらしい俺への向き合い方だった。別れ際に俺の心配をかろうじてしてることを感じて、せつなくなった。

「新聞ぐらい読みなさいよ」

とアンは言った。アンが、油ものの料理をするときに使いたいからと、購読を決めた経済紙を六か月先までの支払いを済ませてくれたらしい。アンが帰った後、机の上やソファーに積み上げられた新聞紙を見て思った。捨てるのがめんどうくさいから、新聞を読まなくなったやつもいるんだろうよ。「めんどうくさい」ってなんだろうな。

「人間関係がめんどうくさい」

「恋をするのがめんどうくさい」

「新聞を捨てるのがめんどうくさい」

 じゃ、これから俺のありあまる時間を何に使えば良いのだろうか。俺はもう人間でさえないのかもしれない。人間なら、きっとそのめんどうくさいものの中で生きてるはずだ。もはや人間以下になってしまったかのように感じた。アンも俺を家にいるペットか何かと思っていたのだろうか。仕事とアンを通じて、かろうじて世間とつながっていたのだ。仕事もアンから紹介してもらったものばかりだった。

 アンは俺が離婚届を書いてるときに言った。

「これまで契約した仕事は、これからも変わらず続けて」

 数社の企業から依頼された身上調査は、続けられることになった。俺は、それもクビになってしまうのだろうかと恐れていた。そんなこともアンに見透かされていたのだ。俺は、アンの人生から追放されたんだと思った。いや、俺がしたのか。

 アンと別れて、三日後のことだ。アンが置いていった高い紅茶を飲みながら、新聞を読もうと準備していた。紅茶の茶葉が開くまでの時間に香りを楽しみつつ、新聞を開いた。

突然、事務所のベルが鳴った。

「どちら様ですか?」

 事務所を訪ねてくる人などいないので、誰だろうと思いながら聞いた。

「仕事を依頼したいんですが」

 飛び込みでやってくる依頼人などほぼいない。

「ほぅ、仕事ですか」

 俺が扉を開けると、細身で背が低く、若くて美しい女性が立っていた。紺色のコートがよく似合っていると思った。

「こんにちは」

 その女性は、そう言って、にこりと笑った。こんなに若くて美しい女性と話すのは、久しぶりで慌ててしまった。

「こんにちは」

 とあいさつを返すしかできなかった。本当に仕事の依頼なんだろうか。半信半疑の俺は、戸惑い、うまく頭が働かなかった。

「入ってもいいですか?」

 そう言われて、我に返った。

「ちょっと待ってください」

 と言って、慌ててソファーやテーブルに置かれた新聞紙を片付けて、女性が座るための場所を確保した。女性は、ぴくりとも動かず、俺の動作を見守っていた。

「どうぞ」

 俺が座るように、女性にうながすと、女性はそれに従った。女性がコートを脱ぐと、テレビで昨日知った今年の流行色だというピンク色の女性らしい服を着ていた。

「今、淹れていたんですが、紅茶でいいですか?」

「はい」

「少しぬるくなってしまったんですが」

 紅茶をアンが選んだカップに入れて出すと、女性は砂糖を二つ入れて口をつけた。

「かわいいカップ。それに、おいしい」

「ほぅ、ありがとう」

 俺と女性は、お互いに様子をうかがいながら、本題に入るタイミングを探った。俺は、サーシャと名乗る女性をつぶさに観察した。カップを持つ手がとても美しく、はりがあり、すべすべしていて、若さを感じさせた。

「今回はご依頼ということですが、どういったご用件で?」

「鐘を盗んで欲しいんです」

「ほぅ、金ですか?」

「そうです。鐘です」

「すいません。ここは探偵事務所で、犯罪を請け負うわけにはいかないんですが」

 そう告げると、サーシャは、目をぐっと見開き、目の奥にとても強い意志を見せた。

「依頼人は、その鐘を盗む相手の母親で、警察沙汰にはなりません。保証いたします。誓約書も書かせていただきます」

「ほぅ、そもそもどうしてお金を盗むなんてことを依頼なさるんですか?」

「お金?」

「そうです。お金」

「違います」

「えっ?」

「鐘です。チリンチリンと鳴る方です」

「ほぅ。鐘ですか」

「そうです。私の言葉足らずでした。そうですか。お金と勘違いなされたんですね。噛み合わないわけです」

「ほぅ、そうですね。噛み合いませんでしたね。どういったものなのでしょうか。その鐘というのは?」

「特別な鐘です」

「どう特別なのですか?」

「世界で一つしかありません」

「ほぅ、世界で」

「でも、世界中を探しても、持ち主以外には、その鐘はがらくたのように意味をなしません。ですが。」

「ほぅ、ですが?」

「ですが、その鐘の秘密によって、将来もっと大きな宝物を見つけることになるかもしれません」

「かもしれません?」

「そうです。可能性の話になってしまうのです」

 俺は、サーシャの話をさっぱり理解できなかった。

 さらに俺は、質問を続けた。

「依頼人はあなたではないのですか?」

「私ではありません」

「ほぅ、それは詳しく知りたいですな。詳しく説明していただけますか?」

「説明には時間がかかると思うのですが」

「ほぅ、それではこうしましょう。お腹はすいていませんか?」

 俺がそう尋ねると、サーシャのお腹がきゅるきゅると鳴った。サーシャは、照れ臭そうに言った。

「すいているようです」

 お腹を押さえて、恥ずかしそうに俺に笑いかける様子を見て、この子は悪い子ではなさそうだと思った。

「ほぅ、それでは、隣に喫茶店があるので、そこで食事をしながら、お聞きするのはどうでしょうか?」

「はい。そうしていただきたいです」

「ほぅ、マスターも信頼のできる男なので、情報が洩れることはないでしょう。奥の席を使わせてもらいましょう。俺は、そこのナポリタンが好きなんですよ」

 そう言って、サーシャをココナケに案内した。店内に入ると、コーヒーと食べ物の匂いがほんわりと香った。

 ココナケのマスターが、俺に気付いて話しかけてきた。

「あれ?コンちゃん、新しい彼女かい?」

「違いますよ」

 その一言で、ここにサーシャを連れてきたことを後悔した。余計な詮索をされたからだ。三日前に離婚して、新しい女性とやってくる軽いやつだと思われただろうか。誰もそこまで俺のことを気にしてないとは思ったが、ささいなことに敏感になった。ココナケは、アンのお気に入りの喫茶店で、アンが事務所にやってくると、よく二人で訪れていた場所だった。

 そして、注文の卵サンドが来る前に、サーシャは語り始めた。

「私がここにやってきたのは、ある方に頼まれたのです。その方と私は、ある施設で出会いました。その方は、入院されていて、私は、そこでその方の介護を担当しています。その方のお名前は、メリーさんと言います。そのメリーさんにはお子さんがいらっしゃいます。とても優しい方ですわ。そのお子さんの大切にしている鐘を盗み出していただきたいという依頼でやってまいりました」

「それって探偵の仕事になるのかな?」

 俺の受けるべき仕事なのかどうかがわからない。それに、サーシャはあまり話が上手な方ではなさそうだ。話を聞けば聞くほど、探偵の仕事ではないような気がした。

「メリーさんは、どこで俺のことを知ったのかな?」

「わかりません」

「メリーさんは、今、どこにいるのかな?」

「病院に入院されています」

「どこにあるのかな?」

「山奥の病院です。ここから電車とタクシーを乗り継いで、三時間ほどのところにあります」

「ほぅ。ますますわからないな。俺が受けるべき仕事なのかな?」

「わかりません。詳しいことは、メリーさんに聞いていただきたいのです」

「俺にその病院まで来いと?」

「その通りです」

 やっと話が通じたと思ったのか、サーシャは、目の前の卵サンドを大きな口を開けて、おいしそうに食べ始めた。俺は、運ばれてきたナポリタンに手をつける気にはならなかった。とても嫌な予感がしたからだ。

「そうです。忘れていました。前金として五十万をここに預かってきました」

「ご、五十万?」

「はい。前金としてメリーさんから預かってきました」

「明日行きます」

 即決だった。これで引っ越し代が出る。俺の豹変ぶりを見たサーシャは笑った。

「明日は、私が休みなので、今日は、都会で、観光してきていいとメリーさんもおっしゃってくれたので、ひさしぶりに買い物がしたいのです。今週の日曜日でいいですか?」

 とサーシャは、ココナケ名物の卵サンドを口いっぱいにほおばりながら嬉しそうに話した。

 俺は、知らず知らずに誰かの思惑に巻き込まれていく渦を感じた。俺の意志で決まっていくものだけではない。俺の知る術もない何かが始まろうとしてるのだ。

 その後もサーシャは、

「詳しいことは、メリーさんに直接聞いてください」

 と湯気のあがる卵サンドを「おいしい」と言いながら食べるだけだった。自分の役目は終わりだと安心したようだった。若い女性の無邪気さをそこに感じた。

 日曜日、駅に着くと、アンが隣にいない状況で、遠出することがなかったものだから、全てのことに俺は戸惑った。自動改札を入ると、そこには「とびらにご注意ください」と書かれており、アナウンスでは忘れ物をしないようにと呼びかけられていた。切符はちゃんと忘れないよう鞄のポケットにしまった。五十万。結構な金額だと思った。まだ依頼の細かいことはわかっていないが、今の俺には稼ぐのに苦労しそうな額だと思った。

 なぜ俺が数いる探偵の中から選ばれたんだろう。車窓から見える景色がビル群から畑に移り変わる景色を見て考えた。だが、考えてるより、聞いた方が早いと思い、頭に浮かんだ疑問をとりあえずメモした。

 俺は、その景色を見ながら、どうしてもアンと一緒に訪れた場所を思い出してしまった。俺は一番になれなかったんだなと。アンの一番になるための努力を俺は怠ってはいなかったんだろうか。こちら側から少しでもアンを理解しようと歩み寄っただろうか。別れを選ぶ以外に、何か方法があったのではないだろうか。

 今頃、アンは何をしてるだろうか。あの情報統括本部部長とおしゃれなカフェで、アンの大好きだったロイヤルミルクティーでも飲んでいるだろうか。愛の言葉を交わし合いながら。

 三か月前まで確かに、俺の横にはアンがいた。あのかゆみはウソのように消えていた。逆に別れを告げてから、好きでたまらなかったアンのしぐさや匂いばかりが思い出された。俺って勝手だな。アンは、今、幸せだろうか。不幸せであってほしいとさえ思ってしまう。俺のいないところで、笑ってくれるなと。

 電車を降りて、タクシーで病院へ向かった。タクシーが、どんどん山奥に行くので、どこに連れて行かれるのかと途中で不安になった。

 サーシャに教えられた病院は、新しいようだった。ローマ字で「アガミルホスピタル」と書いてあった。

「すいません。サーシャという介護士さんにお会いしたいんですが」

 と受付嬢に言うと、

「しばらくそちらにおかけになってお待ちになってください」

 と言われ、テレビがかかった待合室で待っていると、サーシャがやってきた。

「コンコンさん、本当にいらっしゃってくれたんですね」

 と言われて、来いと言ったのは、そっちじゃないかと不安になった。介護士のユニフォームを着たサーシャは、最初に会ったときよりも、とてもしっかりして見えて、やはり美しかった。懸命に仕事をこなす凛とした女性であるように俺の目には映った。

「ところで俺の依頼人は?」

「そう急がないでください。今は、食事の時間なんです。一時半になりましたら、ご案内いたしますわ。メリーさんも喜ぶと思いますわ。それまで隣のレストランでお待ちになられてはいかがでしょうか」

「ほぅ、隣にレストランがあるんだね。何がおすすめかな?」

「うにのクリームパスタです」

「ほぅ、それでは、一時半に」

 俺は、この若く美しい女性にもてあそばれているのではないだろうか。手のひらで転がされているようだ。

「トビラ」という名前のレストランは、田舎にしては、木目の外観がおしゃれで、値段が気になったが、周りを見渡しても、休める場所は、ここしかないようだった。それに、今の俺には金がある。値段を恐れる必要はないだろう。

 広々とした店内に入ると、少し腰の曲がった初老の店員さんが、

「おひとり様ですね」

 と言うので、

「そうです」

 と答えた。渡されたメニューを開くと、山奥のレストランのはずだが、なぜか海鮮のメニューが多かった。この近くには、海もあるだろうか。地理は苦手だった。そういえば、電車の窓から海を見た。

「シーフードグラタン」

 そう注文すると、すぐに初老の店員さんが、ランチセットのサラダとスープを運んできた。スープの一口目を食べ終えての感想は、「うまい」だった。少し間をおいてシーフードグラタンが運ばれてきた。ぐつぐつと音が聞こえてきそうなシーフードグラタンを口の中を火傷しながら食べた。

「おっ」

 声を出すと、初老の店員さんが、すぐにやってきて、

「何か入っていましたか?」

 と心配そうに聞くので、

「ホタテが入っているんです」

 と俺が答えると、

「そうです。他にエビも入っております」

 と言って、安心したように元の位置に戻っていった。

 ホタテを見つけて、アンを想った。アンは、俺が食べているものの中にホタテが入っていると、すぐに、

「ちょうだい」

 と俺から奪い取った。俺はそんなアンとのやり取りが嫌いじゃなかった。食事の終わりには、セットの珈琲も出てきた。全部で二千五百円だった。

 そして、ゆっくりと病院とレストランの周りを散歩した。病院の周りには、特に何もなかった。空がやけに広く感じられた。よく晴れていた。

 さきほどの待合室にいると、サーシャが俺を見つけて、近づいてきた。

「どうでした?」

「ん?」

「隣のレストランおいしかったでしょう」

「ほぅ。おいしかったよ」

「良かった」

 サーシャが嬉しそうに笑ったので、無邪気さを感じて、こちらも嬉しくなった。

「それでは、いきましょ。いきましょ」

 サーシャは、俺をメリーさんのいる部屋に案内した。扉を開けると、白髪の女性が車いすに座って、窓の外を眺めていた。とても清掃の行き届いた病院だった。

「ここは、面会室ですので、好きなだけ使ってください」

 そうサーシャが説明した。

「初めまして。メリーと申します」

 やわらかなおそらくカシミヤのバーガンディ色したセーターを着たメリーさんは、そう俺に優しく話しかけた。俺は慌てて、名刺入れを取り出し、

「私、探偵をやっております。コンコンと申します。仕事相手には、コンコン探偵と呼ばれております」

 と挨拶した。メリーさんは、車いすのまま机に移動し、隣にサーシャが座った。俺は、向かいに座って、メリーさんを観察した。着ているものから推測するに、俺に五十万をすぐに払えるぐらいにお金は持ってるようだった。それにこの病院の設備などを考えてみても、お金はあるのだと思った。年齢は、かなり高いと思う。うちのおふくろぐらいだろうか。顎からのどにかけて、すごくやせ細っているように見えた。この女性が、この謎の依頼を俺にした人物なのだ。

 俺は、電車の中でいくつか質問を書き留めた小さなメモ帳を取り出した。

「依頼内容を詳しくお聞きするためにやってまいりました」

「そうね。依頼を受けてくださるのね。まぁ、そう急がずに、ゆっくり話しませんか?時間はおありになるんでしょう?」

「ほぅ、そうですか。サーシャさんがホテルを取ってくださいましたので」

「お昼は食べられた?」

「えぇ、隣のレストランで」

「それは、良かったわ、あとで経費は請求してくださいね」

 そう言われて、レストランで領収書をもらわなかったことを後悔した。

 メリーさんは、唐突に語り出した。

「トムとサムはね、とても仲良くてね」

 登場人物の説明もなしに、名前を出して早口で話し始めた。俺は、そうだ、ここで急ぐ必要もない。話の要領を得ないのは、メリーさんでもサーシャでも一緒なのだ。この二人のしゃべりたいようにしゃべらせて合わせるしかないと思った。頭をフル回転させて話を聞いた。

「お兄さんのサムはね、とても頭の良い子です。親が何も言わなくても、率先して勉強もしたし、スポーツも陸上部に入って、長距離走を走っていたんですよ。自慢の息子です。機械を分解するのが好きで、すぐ機械の構造を知りたがって、古くなった電化製品は、ほぼサムによって解体されてしまったのよ。家の電化製品の修理もしたわ」

「ほぅ、凄いですね」

 時々、相槌を打ちながら、どこにつながるかわからない情報をメモ帳に書き留めた。それは、警察時代からの癖だった。

「弟のトムはね、とてもいい子。本当にとてもいい子なの。サムが大好きでね。機械を解体するサムの隣で、にこにこしながら、サムの作業してる姿を見ているのがとても好きだったのよ。トムはね、とてもいい子なの」

「ほぅ。二人は、あなたの息子さんですね?自慢の息子さんですね」

「そうなの。今でもとても仲良しなの。私を訪ねてくるときは、サムとトム、ニーム、リーナの四人でやってくるのよ」

 また登場人物が増えたが、話を止めずに最後にまとめて質問することにした。出てくる名前をメモに取りながら、メリーさんの話に耳を傾けた。俺の様子を見ていて、サーシャは、

「メリーさん、ニーム、リーナと言っても、コンコンさんには、誰だかわからないわ」

 と笑いながら言った。

「そうね。そうだったわ。ニームは、サムの息子で、小学四年生。リーナは、小学二年生のサムの娘よ」

「ほぅ。そうですか。仲良しのご家族なんですね」

 そういうと、メリーさんは、急にきょろきょろと目線を動かし、サーシャの方に目を向けた。その様子を見て、俺は何かまずいことを言ったのかと心配になった。俺の動揺を察したサーシャが口を開いた。

「私が説明しましょうか」

 だが、俺はサーシャの申し出を断った。

「まず依頼主のお言葉でお聞きしたいです」

 サーシャは、メリーさんの方を見た。

「どこからお話すれば良いかしら」

 困惑したように、メリーさんの目がまた左右に動いた。

「それでは、私が質問するので、今度は答えていただく形でよろしいでしょうか?」

「いいわ。そうしていただきたいわ」

「まず、サーシャさんから鐘を盗む依頼だとお聞きしましたが、どなたがお持ちのものなのですか?」

「そうね。そこから説明する必要があるわね」

 メリーさんは、少し力が入ったようで、両手をぎゅっと握った。

「鐘の存在は、家族しか知らないの。鐘の音は聞いたことがあっても、どんなものかを知る人は、家族以外にいないと思うわ。トムの持ち物よ。トムが誰かに鐘の説明するようには思えないのよ。とても素晴らしいものよ。作ったのは、サムなの。トムを守るための鐘よ。トムは、とてもいい子だとはお話したでしょ。だけど、少し注意力が足りないことがあってね。普通に生活するには、少しだけ工夫が必要なの。トムが普通に生活できるように助ける目的が、その鐘にはあるわ。普通という言葉が私は嫌いですけどね」

「ほぅ」

「サムはね、今は、企業の研究室で、エンジニアとして働いてるわ。とても有能だと思うわ。社長賞も何度ももらっているの。さきほど機械を解体するのが好きだと言ったでしょう。必要なものは、自分で作ってしまうのよ。そのサムが特別にトムにだけ必要な鐘を作ったの。どこにも発表はしていないわ。家族だけが、その存在を見たことがあり、機能の意味を知っているのよ。トムは肌身離さず持ち歩いているわ」

「とても素晴らしいものだわ」

 サーシャが相槌を打った。

「ほぅ。サーシャさんは見たことがあるのですか?」

「トムさんが見せてくれたの」

「ほぅ。そうですか」

「トムさんは、今、大人気の不機嫌の王女が好きなんですよね」

 サーシャがトムの話題になると、嬉しそうに話し始めた。

「そうなの。トムが大好きなドラマよ。毎日見てるわ。サーシャ、よくご存じで」

「ほぅ。話題の不機嫌な王女ですか。私は、見たことはないですけども」

「御覧になってみてはいかが?」

 とメリーさんが言った。暇を持て余しているところだし、家に戻ったら見てみようと思った。調査対象の好きなものを知るのも立派な任務の一つだ。

「トムさんは、どういう方なのですか?」

「トムさんは、とても優しい方です」

 サーシャがまたしても口をはさんできた。どうしてもトムの話をしたくて仕方ないようだ。

「トムはね、トムは何という会社だったかしら」

「ポルムというパン工場です」

「そうね。サーシャ、よくご存じで」

 そう言ってメリーさんは、サーシャの方を向くと、にっこり笑って続けた。

「トムは、幼い頃からサムの後をくっついて歩くのが好きでね。サムがついてくるなと言っても、トムはにこにこしながらついてくるものだから、ある時から仕方ないと諦めたのね。段々、サムは同級生と遊ぶより、トムと一緒にいることが多くなったのよ。トムは、サムが大好きなの」

「とても仲良しの兄弟ですわ」

 メリーさんの家族の話なのに、サーシャが嬉しそうだった。

 俺は、その話を聞いているうちに、自分もその家族の一員であるかのような気分になっていた。俺は時間が経つのを忘れていた。そして、気づけば、四時を回っていた。

「すいません。四時を回りましたが、まだ依頼の意味がわかってないんですが」

「明日にしますか。メリーさんもお疲れになったでしょう」

 サーシャが、そう言うと、メリーさんも同意した。

「そうね。明日にしましょう」

 俺は、心の中で勝手なものだなと思った。俺に理解させる気がないのかもしれない。

「コンコンさん、明日もいらっしゃっていただけるかしら」

 俺は、明日も家族の話をひたすらに聞かされるのだと思ったら、複雑な気持ちになった。だが、すぐに脳裏に五十万円がちらついて、

「はい。もちろんです」

 と答えていた。

 サーシャが、見送りに来てくれて言った。

「今日は、楽しいお話が出来ましたね」

「本題にはいつ入れるのかな?」

「明日には明らかになりますわ」

 と言って、サーシャは俺に向かって大きく手を振った。

 ホテル近くのコンビニで買った弁当を部屋で食べながら、家族について考えた。

 俺にはもうおふくろしかいない。メリーさんのように、おふくろは俺の話を嬉しそうに話すだろうか。心配ばかりかけている。俺を誇りだと思ってくれるだろうか。難しいだろうな。一年前に会ったおふくろは、会ってない間に、ぐっと年を取って、同じ話を繰り返した。一年で様子が変わってしまう年なんだなと実感した。

 アンとの離婚を電話で報告したとき、おふくろは、

「あんたが決めたことなのね」

 と俺を責めたりはしなかった。おふくろの声には力がなかった。都会へ出ることも許し、父を亡くし、お金に余裕もない中で、なんとかお金を工面して俺を大学に進学させてくれたおふくろには感謝しかない。

 結婚式で、俺の幸せを本当に喜んでくれていた。メリーさんの話を聞きながら、俺はメリーさんに自分のおふくろの姿を重ねていた。いくつになっても、子供の心配をするのが親なんだろうなと思いながら聞いてた。今日の話を聞きながら、なぜかもっとよく依頼を理解して、メリーさんの力になろうと心に誓っていた。

 俺も自慢の息子になりたかった。欲を言えば、ちゃんとアンを幸せにして守り続けたかった。簡単なことのように思えるが、普通のことが難しい場合がある。自分が家庭不適合者のように感じた。普通と思われることができないだけで、こんなに負い目を感じるものなのだと思った。でも、普通ってなんだ。普通なんか誰かの決めた基準にすぎないじゃないか。でも、俺がプロポーズした以上、アンに対してももっと幸せにしてあげる責任があったのではないかと今なら思う。それだけ愛していた。アンは、普通の幸せを俺といるときに感じたことはあったのだろうか。

 アンを幸せにすることもできず、はみだしてしまった俺だからわかることがある。それは、普通でいることが、時に安心を他人にも自分にも与えていたものだということだ。

 周りや集団の中で、はみ出さずに生きられたら、余計なことは考えなくていいのかもしれない。テレビドラマも何も考えずに、楽しめるかもしれない。だが、その中に閉じ込められたら、俺は、やはりアンに感じたように窮屈さを感じてしまう人間なんだ。

 あのかゆみが常識ってやつだと思った。俺は社会的常識に屈することを拒否したんだと思った。「こうしたらいいよ」「こっちの方がいいよ」言われ慣れた言葉だ。他人から見れば、それが正しいということになるのだろう。社会的常識は常に俺の悩みの種だった。すんなり受け入れられない。自分がどうすれば幸せかなんて他人に決められるわけがないだろう。人に気を遣い、同じに感じるように心を砕き、時に諦め、自分を変えたり、上手に気持ちを伝えたりすることが自然にできるようだったら、何か変わっていただろうかと考えることもある。それもわかって、俺は今の人生を選択したんだ。人間なんて理想通りいかないのはわかってるじゃないか。他人だって、思うように動かせないんだ。何も考えずに生きられたらと思う一方で、流されるだけの生き方が出来ずに、俺は一人になった。一人になったからこそ、誰かのために生きる胸の高鳴りを探したいと思うようになった。もう遅すぎるってことはないと祈るしかない。

 悩みなんてない方がいいさ。だけど、悩みのない人間なんているのか。誰かに頼られ、頼り、自分以外の他人と生きていく道を模索しなくなったら、人生はつまらないだろうな。あんなにアンと離れたいと思ったのに、離れた途端、退屈しているように、生きる目的や愛なんてものを悩み始めるのさ。

 さきいかをつまみに日本酒を、ちびちび飲みながら、柄にもなく、人生について考えていたら、いつの間にか眠っていた。

次の日、「アガミルホスピタル」に着くと、サーシャが、待合室に座っていた。最初に会ったときのようなやわらかな薄いピンク色のセーターがよく似合っていた。

「今日は仕事じゃないの?」

「昨日、さぼっていたと、同僚に怒られちゃって、今日はお休みをもらったんです」

「君も大変だね」

「なんで大変なんですか?」

 そう言うサーシャの笑顔は、人の心を明るくするものを持っていた。それにしても美人だ。そして若い。

 昨日の面会室に入ると、サーシャは、

「今日は一日中、ここの部屋を使っていいと許可は取ってあります。メリーさんの体調は私が、責任を持つことになっています」

 サーシャは、とても責任感の強い女性なのだと思った。揺るぎない信念がサーシャの中にあるのだろう。介護士は、生半可でできる仕事ではないさ。

 メリーさんは、車椅子に座り、今日も外の景色を眺めていた。だが、昨日と違ってることが沢山あった。

 まず面会室には、ホワイトボードが用意され、資料やお茶、軽食までがすでに用意されていた。長時間ここで過ごすためのものだろう。メリーさんは、昨日のセーターとは違い、グレーのパンツスーツだった。まるで本当の探偵との打ち合わせに来たかのようである。

「おはよう、コンコン探偵さん、気持ちの準備はよろしいかしら?」

「ほぅ。気持ちの準備ですか」

 俺は力ない声を出した。驚いていたのだ。俺は、この二人をなめていた。今日も要領の得ない話をずっと聞かされると思っていた。どうも違うようだ。

 面接室の机の上には、三部の資料が置かれていた。同じ部屋なのに、昨日とまるで違う雰囲気になっていた。俺が戸惑っているのが伝わったのか、メリーさんが言った。

「今日から本格的な仕事ですわ」

 そう言った目の奥が、きらりと光ったように感じた。昨日、俺が見たメリーさんの自信のなさそうな姿は仮の姿だったのだ。ある決意を胸に俺と対峙しようとする母の姿があった。

「サーシャ、例のものを」

「はい。わかりました。メリーさん」

 そう言って、サーシャは、面会室から出ていった。

「コンコン探偵さん、サーシャが来るまでに、心の準備をしておいた方がいいわ。私たちは、本気よ」

 そう言われて、後ずさった俺を見て、

「この依頼を受けないと、きっとあなたは後悔することになるわ」

 と意味深なことを言った。俺は、

「ほぅ」

 と言うのが、精いっぱいだった。心がざわついた。

「ドタン」

 面会室の外で音がしたので、びっくりして、扉を開けると、サーシャがいた。

「これ、机まで持って行ってもらえますか?」

 とサーシャが言った。段ボールが二つ置いてあった。試しに一つ持ってみると、かなりの重さだったので、一つずつ運んでいると、「男なのに、二つぐらい同時に持てないの?」とサーシャの目は言いたげだった。俺は、二つの段ボールをどこからか運んできたサーシャのたくましさに感心していた。介護士として、日頃から体力勝負で仕事している様子まで想像ができた。

 二つの段ボールの中身を覗くと、沢山の機械が入っていた。重いはずだ。

「さぁ、始めましょう」

 サーシャも席に着くと、メリーさんが言った。

 俺は、ここに来たことを後悔していた。俺の席に置いてある資料をぱらぱらとめくってみると、サムやトム、家族のプロフィール、会社名、行動パターンなど、メリーさんとサーシャが知りうる全ての情報が書かれていた。俺が資料を作ったとして、こんなに細かく作れる自信はない。

「この資料は、どなたが作ったのですか?」

 俺は、資料を指さしながら、驚いて聞いた。

「私の話を聞いて、サーシャが作ってくれました」

 サーシャの底知れぬ能力を感じた。メリーさんへの思い入れの強さとサーシャの感覚の鋭さ、的確な判断力を見せつけられた。サーシャは、メリーさんと仕事以上の関係を結んでいる。

 メリーさんは続けた。

「十二ページをご覧になって。これが家の見取り図ですわ」

 指示されたページを開くと、赤いペンで監視カメラの設置場所と担当者が割り当てられていた。

「いつ設置するのですか?」

「私たちが、ほとんど設置いたしますわ。再来週、自宅でホームパーティーを開きますわ。コンコン探偵さんは、私の古い友人の息子さんとして、長野からやってくることになっておりますわ」

 とメリーさんは、これは決定事項だと言うかのように俺の方を見た。全て計画済みのようだった。俺はまだ馴染めずに、

「ほぅ」

 とため息をもらした。

「来週中に、コンコン探偵には。引っ越してもらいます。もちろんかかった費用は全てこちらで負担いたしますわ」

 メリーさんは、当然のように言った。そして続けた。

「報酬はいくらお支払いすればいいかしら。三百万ではいかが?」

 俺には、この練りに練られた計画を前に、それが適正価格なのか、高い仕事なのか、相場がわからなかった。仕事の全体像がつかめずに、困った顔をしたまま、何も言わずにいると、メリーさんは依頼を受けたと理解したようだった。

 引っ越しできるのは、願ったり叶ったりだが、本格的な探偵のようでもあるし、盗むことなどできるのか?と自分に問いかけた。こんなに仕事らしい仕事は、初めてのような気がした。

 この二人を信用していいのだろうか。そんな俺の不安げな表情を見て、

「私たちはあなたを騙したりしないわ」

 とメリーさんが笑いながら言った。俺の考えそうなことは、なんでもお見通しというわけだ。

 俺の雇い主は、肝が据わっている。タダモノじゃない。資料、必要な機械、全て計画は、練りに練られている。俺は、その計画の一部になるのだ。メリーさんが考えたジグソーパズルの一ピースに。

「コンコン探偵の使命は、トムの鐘を盗むことですよ」

「その鐘についてもう少し説明していただけませんか?そんなに素晴らしい鐘なのですか?」

「トムにとっての宝物ですわ」

「でも、息子さんのものですよね。わざわざ探偵を雇ってまで、奪い取る必要があるものなのですか?」

「息子のものだから、頼むのよ」

「どういう形をしてるのですか?写真はないのですか?ここまでする必要があるのですか?」

「ホームパーティーのときに、トムに見せてもらうといいわ。トムにとって、とてもとても大切なものよ。だから、いつも肌身離さず持ち歩いているわ。この任務はとても大事なのよ」

 そのまま、数時間に渡り、三人でホームパーティーの行動の段取りを打ち合わせした。

「コンコン探偵さん、そろそろ帰らないと電車の時間がおありでしょう?」

 メリーさんにそう声をかけられるまで、段取りを頭に入れることに集中しすぎて時間を忘れていた。それぐらい仕事量があった。

「他に疑問や質問、問題が起ったら、サーシャと連絡を取ってくださいますか?」

 とメリーが言った。

「いつでもお待ちしております」

 とサーシャが不敵な笑みを浮かべて言った。俺は、二人の勢いに押されっぱなしのまま、「アガミルホスピタル」を後にした。

 自分の荷物の整理などに手間取って、引っ越しは、結局ホームパーティーの前日になってしまった。引っ越しが完了して、インスタントのそばを食べ終わり、サーシャに準備ができたという報告のために連絡すると、

「こちらも全て順調です」

 と返事が来た。いよいよだ。事前に家族のプロフィールなどを頭に叩き込み、段取りを把握していた。

 ホームパーティー当日、指定された最寄り駅の改札で、メリーさんとサーシャが到着するのを待った。休日で家族連れの多い人ごみの中、人をかき分けて、サーシャと車いすのメリーさんがやってくるのが見えた。。サーシャは、改札を出るときに、俺を見つけると、こちらに笑顔で手を振った。

「おはようございます。ご苦労様です。今日はよろしくお願いします」

 と軽く挨拶をすると、即座に、

「こちらがコンコンさんの担当分です」

 と今から持参するプレゼントの箱を渡された。サムの二人の子供とトムに俺が渡す予定になっている。三人が大好きなドラマ「不機嫌の王女」に出てくる人形だと言われていた。中身は見ていない。しかし、リサーチ中に、「不機嫌の王女」のことも頭に入れておいたので、あの人形だと予測はついた。もちろん三体には、それぞれに小型カメラが仕掛けられている。

 メリーさんの自宅には、サムの家族とトムが住んでいると聞かされていた。俺は少し緊張していた。何か悪いことをするときのように、そわそわした。俺はどこまでいっても小心者だ。

 家に着き、インターフォンを押すと、リーナが出迎えてくれた。

「おばあちゃん、おかえりなさい。サーシャ、お元気?お隣は誰かしら?」

 かなりのおすまし娘だとは聞いていたが、年齢よりずっと年上であるかのような口調で話す少女だと思った。俺は、胸の高鳴りを鎮めるように言った。

「はじめまして。コンコンと申します」

 膝をかがめて、挨拶すると、

「ご職業は?」

 リーナが俺を品定めするように聞いてきた。鋭い質問に俺が言葉を失っていると、隣からメリーさんが、

「会社にお勤めよ。私の大事な古い友人の息子さんなの。失礼のないようにね」

「わかってるわ」

 とリーナは、不服そうに大人ぶった答え方をした。

 家に入ろうとすると、玄関には、子供や大人の靴が散乱していた。そんなに掃除をこまめにやっている家ではないようだった。メリーさんが、玄関にあるリースを指差し言った。

「あれは、私が作ったのよ」

「ほぅ。そうですか。立派なものですな」

 と俺が感心して言うと、リーナが、

「おばあちゃんは、器用なのよ」

 また大人たちの会話に懸命に入り込んできて言った。

 玄関に無造作に置かれた寂しそうなピアノがあった。なんとなく気になって聞かずにはいられなかった。立派なピアノなのに、追いやられたように見えたからだ。

「誰かピアノをお弾きになられるのですか?」

 と俺が聞くと、リーナが、

「それは、おばあちゃんのよ」

 と言った。

「今は、調律もされず、誰にも見向きもされないピアノよ」

 とメリーさんは、伏し目がちに言った。続けて、リーナが言った。

「ママがピアノは、うるさいって」

水色のワンピースを着たリーナの先導で、リビングに入ると、ニームがプラレールで遊んでいた。ニームの周りにはおもちゃが散乱していた。

「おばあちゃん、サーシャ、いらっしゃい。誰?」

 俺の存在にニームが気づいて、質問してきた。すると、メリーさんが、

「おばあちゃんの古い友人の息子さんなの」

 とリーナに言ったのと同じようにニームに言った。

「お母様。サーシャ、いらっしゃい」

 厚塗りの化粧と赤いセーターを着た女性が、サムの妻のアーリーだろう。家の中なのに、とても派手な服装なのが気になった。

「確か、コンコン様とお母様からお聞きしております」

「はい。コンコンと申します。ある会社で働いております。メリーさんには、父がとてもお世話になりまして、お礼を申し上げたいと申しましたところ、本日ご招待いただきまして。ありがとうございます」

「いえいえ。こんな家で良ければ、いつでもいらしていただきたいわ」

 とアーリーが言うと、そばにいたリーナが、アーリーを不思議そうな目で見ていた。

 テレビの前のソファーには、男性がいて、

「どうぞ」

 とソファーに座るように声をかけてきた。落ち着いているので、なんとなくプロフィールからこちらの男性が、サムなのではないかと思った。

 雑然としたリビングだった。物も多い。お世辞にも、きれいに掃除の行き届いた家だとは言えなかった。それに家族がみんなばらばらに動き回っていた。リーナは、サーシャになついていて、サーシャとカードゲームを始めた。

 俺は、家の様子を細部に至るまで観察した。

突然、ドタドタドタドタと大きな音を立てて、ある人物が階段を下りてきた。

「トムさん!だから階段は静かに下りてきてっていつも言ってるでしょ!」

 アーリーが、家中に響き渡るかのような大きな声で怒鳴った。そこにいた全員がその声に凍り付いた。

「まぁまぁ、アーリー、お客さんが来てるから」

「あなたはいつもそう言うわ」

 となだめるサムまでアーリーににらまれて、その場にいた全員が何も言えなくなってしまった。

 俺は反射的にメリーさんを見た。すると、俺と話すときとは、まるで別人のように、メリーさんの顔は醜く歪み、アーリーを見る目は鋭く、憎しみを隠していなかった。俺は、嫌な胸騒ぎを隠すために、今度はサーシャを見た。すると、サーシャは、みんなの様子など気にならないのか、トムの方へ駆け寄って、

「トムさん」

 と声をかけた。

「サーシャ、こんにちは。僕は元気です」

「トムさんが元気で、サーシャは嬉しいです」

「僕も嬉しいです」

 アーリー以外のそこにいた全ての人が、その言葉を聞いて笑った。サーシャのおかげで空気が和んだ。

「トム、ここさ、どうやるの?」

 ニームがトムに声をかけた。サーシャと遊んでいたリーナは、その輪の中に入りたそうな表情で、トムとニームが遊んでいる場所を見ていた。

 父親のサムがそれに気づいて、

「リーナもあっちに入ったらどうだい?」

 と声をかけると、

「そう?パパがそう言うなら、遊んであげてもいいわ。サーシャ、ごめんなさいね」

 と高飛車に言うリーナに、サーシャは、

「ぜんぜん大丈夫よ。私もトムさんたちと遊びたいもの」

 と言った。それを聞いたアーリーは、

「サーシャ、こちらを手伝ってくださる?」

 と命令した。サーシャは、嫌な顔ひとつせずに、アーリーに従った。アーリーの口調は召使いに命令する女王様といったところだろうか。

 ニームとリーナは遊びに飽きて、

「トイレ!」

とニームが言うとリーナも競い合うようにトイレに向かった。

 すると、廊下の方から、

「ニームがトイレの扉開けっ放しでしてる!」

「うるさいな!」

 と兄妹げんかが始まった。

「二人とも来なさい!」

 とアーリーが怒鳴って言うと、二人は怯えながらやってきた。

「バチン!」

「バチン!」

 アーリーは、思いっきり二人の頬にビンタをした。

 メリーさんが、

「アーリー、子供のけんかですよ。そこまでしなくても」

 と言ったが、アーリーは、

「いつものことなんですよ。もうこうでもしないとわからないんです。お義母さんには、わかってないんですわ。入院されているんだもの」

 と反論した。その言葉を聞いて、メリーさんが強くこぶしを握ったのを、そこにいた全員が目撃した。サーシャはすぐにそばにあったタオルを濡らし、ニームとリーナの頬を冷やした。

 そんなことをしてると、音が鳴った。トムはその音を聞いて、大きな声で叫んだ。

「不機嫌な王女の時間だ」

 すると、ニームとリーナ、トムは、テレビの前に集合した。三人は、きらきらした目で食い入るようにドラマを見始めた。俺は、この家での日常が、いつもこのように進んでいるのだと理解した。そして、俺は、家族の様子、部屋の配置、片付き具合をつぶさに観察した。不機嫌の王女の内容は大体把握していたが、今週の内容を教えてもらおうと、ニーナに近づいたが、メリーさんが、

「今はだめよ」

 と言うので、俺は仕方なく三人のそばに座り込んで、一緒に見ることにした。ジイタ家に静寂がやってきた。資料によると、アーリーは、特に仕事をしているわけではないが、実家の名字にこだわり、「コタ・アーリー」と旧姓を今でも名乗っているということだった。その意味も少しわかる気がした。

 三人が夢中で見ているドラマ「不機嫌な王女」は、十九歳で、ある国の王女様となった女性が、内外の混乱を押さえ、国を統治しようとするのだが、特に内部に、王女様をよく思わない者がおり、日々いろんな策略が巡らされている。そこで王女が、信頼のできる部下の力を借りて、部下に暴力をふるう者、規律の守れない者、金のために汚職に手を染める者を、毎回一人ずつ焦点を当て、やっつけていく勧善懲悪のドラマだ。

 ニーム、リーナ、トムが、あと十五分でドラマが終わりそうなところまで来ると、三人で目配せをして、目を輝かせた。

 王女の部下の一人が言った。

「この者をどうなされますか、王女様」

「追放よ!」

「追放よ!」

「追放よ!」

「追放よ!」

 とテレビの王女、ニーム、リーナ、トムの声が一斉に部屋中に響き渡った。

「うるさーい!」

 アーリーは、それを聞いて怒鳴った。部屋の中は、また静かになった。メリーさんの顔は、暗い表情から変わることはなかった。

 俺に興味があるのか、俺のそばをうろうろするリーナに聞いた。

「お母さんは、いつもあんな感じなの?」

「あんな感じってどんな感じ?」

 リーナは、大人の女性の口調で話すのが本当に好きなようだ。全くませている。

「怒ってばかりで怖くないか?」

「いつもよ」

 リーナはなんでもないことのように答えた。

「おじさん、怖いの?」

「おじさんは、怖いなぁ」

「おじさんは大丈夫よ。怒られないわ」

「なぜだい?」

「だっておそとの人だもの」

「おそとの人?」

「そう、おそとの人には怒らないわ」

 俺は、リーナのその言葉で、この家の秘密の一つに触れたような気持ちになった。このリーナをなぜか抱きしめてあげたくなったのだ。ここの子供たちは、アーリーの被害者のようだと感じた。そして、それが恐ろしいほど日常だということも感じ取れた。

 サーシャが、一人忙しくキッチンで動き回っている。俺は、それをただ見守っているだけのアーリーの様子を見て不自然さを感じた。この家の人はどっちなんだろうと疑問を持たずにはいられないほどだった。サーシャは、家の皿の場所も調理に必要なものの場所も、全てを知り尽くしているようだった。

 食事の準備ができるまでの間、ふと庭を見ると、雑草一つ生えていなかった。

「あの庭は誰が?」

 と隣にいたサムに聞くと、

「トムですよ。俺が作った草刈り機が好きで、いつもきれいにしています」

 と答えた。

「草刈り機を作るのですか?」

 と聞くと、

「まぁ、機械を作るのは好きです。トムが喜んでくれるので」

 と嬉しそうにサムが話した。俺には、ごちゃごちゃしている家の中と整えられた庭とのギャップが奇妙に感じられた。

 サーシャによる食事の準備が終わり、テーブルの上には、一人ずつにサラダとスープ、パン、大皿に、パエリア、ローストビーフ、からあげ、グラタン、ブロッコリーのパスタ、フライドポテトなどパーティー料理が並んだ。

 これだけの料理を、アーリーは、ほぼ口出すだけで、食材の調理はサーシャがほとんどやっていた。サーシャは、お料理の手際が良かった。普段から料理をしているのだろう。

 トムは、途中でつまみ喰いしようとして、

「トムさん!やめて!」

 とまたアーリーを怒らせていた。そんな時もサーシャは、笑顔を絶やさず、

「もう少しで出来ますから、トムさん待っててくださいね」

 と優しくトムに話しかけた。

「はい。サーシャ、僕は待てます」

 とトムが言うと、リーナが、

「トムは子供ね」

 と言うものだから、アーリー以外のみんなが笑った。

 全員が食卓に着くと、俺はプレゼントを子供たちとトムに渡した。

 すると、

「コンコンさん、ありがとう」

 とトムは丁寧にお礼を言い、部屋に置くと言った。ニームは、ぐちゃぐちゃに包装紙を破り、中を確認し、

「人形かよ」

 と言いつつ、喜んでいるようだった。リーナは、

「部屋に飾ってあげてもいいわ」

 と答えた。アーリーはそれを見て、

「お気遣いいただかなくて、結構でしたのに」

 と言った。サムは、どの会話も見守っているだけで、口数は少なかった。

 食事中は、アーリーが、食材の説明を始めた。

「ここのお肉は、質が良いことで有名ですの。テレビでもよく取り上げられますのよ」

「このオイルは、とても良いものを使っておりますの」

 食材の説明をアーリーがしている間、他の人たちは会話に混ざらず食事に夢中だった。アーリーの話には誰一人として関心を示さなかった。サーシャが作った料理たちは、どれもおいしかった。からあげも外側がカリカリしていて、フライドポテトの揚げ具合も絶妙だった。オリジナルのスパイスがきいたフライドポテトにつけるディップまであった。俺は、短時間でここまで作れるサーシャに驚いた。

 食事を終えると、トムが、

「今日のもう一回見ていい?」

 と言い出し、

「トムさん!お客様が来られているのよ。一度ならまだしも、二度も見るなんて黙っていてくださる?」

 とちくりと釘を刺した。トムは何を言われても、優しい微笑みを崩さなかった。

 食事開始から一時間を過ぎた頃、どこからか、

「チンチンチロリン」

 と鐘の音が鳴った。

 俺は、電話の音かと思ったが、みんなは慣れている音らしく、

「トム、食事終わりだよ」

 とニームが言っただけだった。メリーさんが、助け舟を出してくれた。

「トム、コンコンさんにも鐘を見せて差し上げたら?」

「うん。はい」

 と鐘をサコッシュから出して、見せてくれた。案外盗むのは、とても簡単なことのようにそのときは思った。

「トムさん、触っていいかな?」

 俺はトムに尋ねた。

「うん」

 俺は、鐘をまず撫でてみた。俺は心の中で、「これを盗むんだな」と思って、じっくりひっくり返したり、なでてみたりした。スノードームのような球体で、その中は、差し込む光によって多彩な色に輝いて見える。こんな素晴らしい鐘を見たことがなかった。でも、この鐘にどんな秘密があるのか全く見当がつかなかった。

「ほぅ、とても素敵だね。これ、どうやって動かすんだい?」

「サムに聞いて」

 トムは、そう言って、サムを見た。サムを見ると、

「たいしたものじゃないですよ」

 とはぐらかされてしまった。俺は、トムの鐘をこのまま持ち続けたかったが、

「はい。終わり」

 とトムにすぐに取り上げられてしまった。トムに俺の鐘への興味が見透かされてしまったかと思って焦った。

 トムは、自分のサコッシュに鐘を戻し、俺に笑いかけた。

 トムは、パーティーの最中、ずっと俺に優しくにこやかな笑顔を向けたが、鐘をもう一度見せてくれることはなかった。やはり俺が思ってるより、難しい仕事なのだと思った。

 メリーさんは、鐘をどうしてトムの元から盗もうとしているのか俺にはさっぱりわからなかった。とても大事にしているのが伝わってきたし、このままでいいのではないかという思いが強くなった。

 帰り道で、俺はメリーさんに聞いた。

「なかなか難しい仕事になりそうですな。なぜ鐘を盗む必要があるのですか。今のままで十分幸せじゃないですか?」

「あなたにはあの家族が幸せそうに見えたのですか?」

 そのように真っすぐにメリーさんに言われると、アーリーの様子が気になったなと思った。

「家族の幸せと鐘がどうつながっているのか知りたいですな」

「そうおっしゃるなら、その答えを探してお探りになられるといいわ」

「自分で謎を解けと?」

「そうですわ。あなたは探偵でしょ」

「はい。そうです。一応」

「私たちもあなたの活躍を大変期待しているわ。ねぇ、サーシャ」

 メリーは、サーシャに同意を求めた。

「はい。私も楽しみにしております」

 最後にメリーさんは言った。

「あなたはこの仕事を引き受けた以上、この仕事に責任があるのよ」

 二人は、謎を謎のままにして、俺に沢山の仕事を残し、山奥の病院へ帰って行った。

 俺は、翌日からジイタ家を本格的に調べ始めた。俺は、一番大事なトムについて調べることから始めた。

 サーシャの作成したレポートから、トムが大体何時に家を出るのかはわかっていたが、トムが起きる二時間前から俺は起きて待ち構えた。

 毎朝七時、例の鐘が鳴ると、トムは起きた。その様子は、トムにプレゼントしたぬいぐるみのカメラから確認出来た。メリーとサーシャと俺がそれぞれ設置した監視カメラや盗聴器は、無事に設置され稼働していた。全て俺のパソコンで管理している。

「トムさん!」

 アーリーが怒っている。監視カメラから推察すると、どうやらトムが牛乳をこぼしたようだった。アーリーが怒るたびに、ジイタ家の人々は、みんな一斉に下を向き、自分にとばっちりがこないようにしているようだった。

「アーリーごめんなさい」

 トムはペコリペコリと頭をさげ、何度も謝った。

「謝っても何度も同じことをするでしょ」

 とアーリーは怒った。何も言わないことがこの家の中では得策だと俺は思った。

 トムは午前八時になると、

「いってきまーす」

 と言って、家を出た。俺は、物陰に身を隠しながら、トムの後をついていった。

 しばらく歩くと、トムの鐘が鳴った。サーシャによると、予定の行動の十分前になると、予備の鐘が鳴るしくみになっているらしい。寝る時間になると、鐘からは子守歌も流れた。

 今の鐘の音は、おそらく駅に到着まであと十分と言ったところだろうか。

 トムは毎朝、会社に行く時には、最寄り駅発の同じ電車に乗る。車両は、先頭と決まっていた。必ずポルムに着く前に自販機で同じ飲み物を買う。自販機でお気に入りが売り切れていても、トムは笑顔だった。トムは近所の人に愛され、トムもにこやかに挨拶を返した。近所の人たちは、トムが毎朝、定時に自分の家の前を通るのを楽しみに待っている。トムは、規則正しく生活している。

 だが、知っているだろうか。トムが毎朝通る道を五十メートル寄り道しただけで、全国ネットで取り上げられるようなたこ焼き屋さんがあることを。俺は知っている。そのたこ焼きがうまいことを。俺は、この町のこともこれからもっともっと詳しくなるだろう。トムのような住人にはならず、浅く広く、おそとの人としてこの町に滞在するだろう。任務が完了するまで。

 今日、トムは、駅前で、男性化粧品のサンプルを配る男性に出会った。初めてのことだったんだろう。戸惑っていた。トムは、近所の人に愛され、不器用ながらも生きていくのだ。この町で。

 俺、大絶賛できたてたこ焼きの味をおそらく知らずに。

 数日、トムを尾行しただけで、トムの規則的な生活に現れる人物たちが、トムをいかに愛しているかがわかる。

 定時にトムが家を出ると、他にも自分の家から、同じように定時に出る人がいることがわかった。トムは今日もその人たちに挨拶を欠かさなかった。

「おはようございます」

 トムは、ミニチュアシュナウザーを連れた老人と毎日すれ違う。すれ違うたびに、名前も知らないその老人に対して、にこりと笑顔で挨拶する。近所で、同じ時間に不思議と出会い、挨拶を交わし合う。互いの名前一つ知りはしない。不思議な関係だなと思った。

 駅員さんにも、駅の清掃員さんにさえ挨拶を欠かさない。

 まず、トムが家を出ると、トムは、お向かいのシーゲーさんに、

「おはようございます」

 と挨拶する。すると、朝ドラを見てるシーゲーさんは、テレビのリモコンを右手に持ち、トムに手を振る。

「いってきます」

 そう言って、トムは歩き始める。

 数十メートル歩くと、今度は、ももばあちゃんが、庭先を竹ぼうきで掃いてる。

「おはよう、トムくん、調子はどうだい?」

「いつもありがとう、ももばあちゃん、僕は元気です。いってきます」

「気を付けていってらしゃい」

 それだけの挨拶を交わすだけなのに、ももばあちゃんは、トムと挨拶がしたくて、雨でも合羽を着て、トムを毎朝待っている。

 風が強い日だと、

「トムくん、大丈夫かい?電車走ってるかい?」

 と心配してくれるのが、ももばあちゃんだ。

「ももばあちゃん、トムは大丈夫です」

 とトムは笑顔で答える。

「気をつけていってらっしゃい」

 トムの笑顔が見たくて、ももばあちゃんは掃除してるのだと思う。まるでその儀式が終わらないと一日が始まらないみたいだなと俺は思った。

 俺はももばあちゃんに何度も不審者のような目で見られた。こういう近所の人の目が一番の防犯になるのかもしれない。おそとの人のままの俺は、トムの尾行をしていることをももばあちゃんには告白しなければならない。警察にでも駆け込まれたら困ると思った。

 そこで、俺は、ももばあちゃんに身分を明かし、協力をお願いしようと考えた。ウソの名刺でもいいかと思ったが、なぜか俺の良心がウソをつくことをよしとしなかった。正直にサーシャに連絡を取り、ももばあちゃんに事情を話していいかと告げると、メリーさんの直筆の手紙と俺の名刺を渡していいと連絡があった。

「私、探偵をしておりまして、ただいま、トムさんの日常をメリーさんが知りたいというので、報告書を作るために、トムさんのご様子を、本人に見つからないように見させていただいているところです。ご報告が遅れて申し訳ありません」

 ももばあちゃんは、じろりと俺の全身を見て言った。

「本当に探偵かい?」

「はい」

「トムくんを傷つけたら、私が許さないからね」

 と持っていた竹ぼうきを高く掲げた。俺は、少しひるんで、

「大丈夫です」

 と答えるのが精一杯だった。

 トムは、家ではほぼ不機嫌な王女を見ていた。とても気に入ってるようだった。

 リーナが言ったように、アーリーは、表面上は近所の人たちとうまくいっているようだった。外でのアーリーの態度は、家の人たちへの態度とは正反対だった。家では、サムのいないときは、ほぼトムと子供たちを怒っていた。時に、暴力をふるった。一方、ももばあちゃんとは、仲が良いようで、ももばあちゃんがジイタ家に回覧板を持って来ると、アーリーは楽しそうに世間話をしていた。アーリーは、おそとの人には決して悪い人間ではなかった。たまにやってくる訪問者たちと、とても愛想よく話し、社交的であると言えるだろう。なぜ近所の人たちと接するように家族に接することができないのだろうと俺はアーリーに腹を立てていた。

 トムは、それでもにこにこと暮らしているように見えた。一方、子供たちは、アーリーの前ではほとんど言葉を発しなかった。

 子供たちは、トムにほんとうによくなついていて、

「トム、遊ぼうよ」

 と時間が空くと話しかけるが、すぐにアーリーが、

「トムさんと遊んでる暇はないでしょ。トムさんみたいになってしまうわよ。早く勉強するのよ」

 と言った。ニームは黙っていて、リーナは、

「ママ、私はわかってるわ」

 と答えた。マイクで拾えないほどの声で、ニームとリーナが言葉を交わして、二人とも部屋に戻った。

 トムはアーリーに、

「トムさんいつまでドラマを見てらっしゃるの?」

「はい。僕は、不機嫌な王女が好きです」

「だから役立たずなのよ」

アーリーの虫の居所が悪いのに、さらに、定番のセリフで、

「追放よ!」

 とトムが大きな声を出して、アーリーは、

「出て行って!」

 と声を荒げたが、トムはまだ笑っていた。

 トムは、言葉の意味を理解しているのだろうか。アーリーに何を言われても、にこにこと笑っていた。「不機嫌な王女」を見ていないときは、庭で草刈りをしていた。トムのおかげで庭だけは、いつもキレイだった。

 家の中のアーリーは、毎日不機嫌で怒りに満ちていた。何に怒ってるのかはわからないが、アーリーの人生がうまくいってないと思ってるというのは明らかだった。かわいい子供たちがいて、なぜ不幸せと言えるだろうか。なぜアーリーは怒ってばかりいるのだろうか。サムの給料だって、あんな大企業だったら悪くないはずだ。アーリーは何に腹を立てているんだろうか。余計なことかもしれないが、もうちょっとアーリーは自分が手にしているものについて考えてみてもいいのではないかと思った。アーリーは、見なければならないものに目隠しをして、大事なことを見落としているとしか思えなかった。俺は、アーリーにものすごく腹を立てていた。

 俺は、子供たちに、鐘を盗むことを手伝ってもらえないかと考えて、子供たちのことも調べ始めた。

 息子のニームは、アーリーから何を言われても、すぐ従った。しかし、アーリーはそういうニームにさえ冷たくあたった。ニームは、トムを遊び相手だと思っているが、同時にばかにもしていた。トムと遊んでいても、見下したような物言いをした。

「トム、それは違うよ。トムはばかだな」

 ニームの態度も、アーリーがトムに対して邪険に扱う様子を見ているからだ。もちろんアーリーほどではないが。一方で、ニームは、妹のリーナのことは、とてもかわいがったし、リーナが大好きなようだった。

「リーナ、お菓子半分にしよう」

「そう?ならもらってあげてもいいわ」

 ニームに言われても、リーナはいつも気取ったしゃべり方をした。

 リーナのことを調べると、意外なことがわかった。リーナには、友達がいなかった。リーナの高飛車な話し方が嫌われているのか、学校への行き帰りもいつも一人だった。学校では、うまくなじめないが、家では男たちにかわいがられていた。家の男たちは、皆、リーナを女王様のように扱った。そのおかげで、リーナはわがまま放題だった。アーリーに怒られる以外は。

 他にもいろいろわかってきた。家でトムが留守番していると、お向かいのシーゲーさんがたびたびやってきた。そういうときは、必ずトムに少ないお金を貸してもらいに来た。

 お向かいのシーゲーさんは、今にも壊れそうな金色の指輪をしていた。その金色の指輪をすりすりさすりながら、

「トムくん、元気かい?」

 と聞いた。

「はい。元気です」

「トムくん、悪いんだけどね、明日、牛乳代の集金が来るんだよ。あいにく持ち合わせがなくてね。トムくん、ちょっと貸してもらえないかね?」

「はい。僕は千円貸します」

「ありがとうね」

 また金色の指輪をすりすり触りながら、お向かいのシーゲーさんは帰って行った。

 お向かいのシーゲーさんは、絶対に家にトムしかいないことを確認しているようで、必ずトムが家に一人でいるときに、お金を借りに来た。

 トムは、どこかに障害があるのだろうか。メリーさんは、医者に診てもらうことはしていないようだった。トムには病名はついていない。しかし、普通にしては、人が良すぎるし、いつもにこにこしている。少しばかり俺には、トムには注意力が欠如しているように思えてならなかった。

 トムには、守ってくれる人が必要だ。人が良いだけで、この世を渡っていくのは、過酷な世界だ。それにトムは、誰でもファンになってしまう優しさとにこやかな笑顔があった。それを俺もできることなら守ってやりたいと思った。アーリーにあんなに怒鳴られる人生でなくてもいいいのだ。

 俺がそれだけ優しいと認めるトムから大事にしている鐘を盗み出すのが、俺の仕事だという事実は、俺を後ろ向きにさせた。

 サーシャから電話があった。

「アガミルホスピタルに中間報告にいらっしゃいませんか?」

 という誘いだった。俺は、まだ何一つ期待に応えられてないのだとサーシャに伝えると、

「そんなことないですわ。大丈夫です」

 と何か知ってるような含みのある言い方をされた。俺は、しぶしぶアガミルホスピタルに中間報告するために行くことを承諾した。俺もメリーさんに聞きたいことがあった。

 サーシャは電話を切るときに、

「メリーさんからの伝言です」

 と言うので、

「怒られるのかな?」

 と聞くと、

「カレーパンを買ってきてくださいとのことです」

 と言われて、ずっこけた。トムの家から五分ほどのところにある普通のパン屋さんの普通のカレーパンを買うために、朝七時の開店と同時に並んで、カレーパンを五つ調達して、電車に乗った。電車の中で、焼き立てのカレーパンの油の匂いがしていた。到着すると、またお昼の時間だった。俺は、サーシャに言われる前に、トビラでまた食事を取ることにした。

 その日は、俺の他に三組の客がいた。その中の男女の一組の客がこないだの初老の店員に話しかけていた。

「この店は、隣の病院の医者とか看護師がよく食事に来るんだろう?」

「そうですね、その通りですね。いらっしゃいますね」

「どうなんだい?こないだの不思議な事件の話を知ってるかい?」

「どんな事件でございますか?」

「医者が一人失踪したという事件だよ」

「初耳です。朝から晩までテレビも見ずに働いておりまして」

「そんなことないだろ?」

「私は、ただのレストランの店員ですから、お客様のことには詳しくありません」

「そうか」

 五十代ぐらいの男性は、連れの婦人に、

「知らないんだってよ」

 と言って、サラダを食べ始めた。俺は、そんなこともあるのかと何も気に留めることなく、初老の店員が注文を聞きに来てくれるのを待っていた。なかなかこちらの気持ちを汲み取ってくれない店員さんのようで、俺の次にやってきた人に注文を先に聞きに行ってしまった。

今度は、扉から入ってきた人物が、初老の店員さんに聞いた。

「黒いコートを着た七十代ぐらいの女性は来なかったか?」

「来ないよ。ここにいるお客さんだけで、トイレにも誰もいないよ」

「なんだよ。俺のバスに乗るから、五分待ってくれと言ったまま、いなくなっちまったんだよ」

「ドボさん、まだ五分じゃないか」

「もう五分だよ」

「まぁまぁ、バスに戻って待っていたらいいじゃないか。きっと戻ってきてるさ」

「そうか」

 と言って、おそらくバスの運転手をしているドボさんと呼ばれる男性は去っていった。

 ようやく俺が待っていることに気づいた初老の店員は、

「すいません」

 と言って、オーダー表を持ってやってきた。

「シーフードグラタン」

「はい。シーフードグラタンですね」

 と言って、厨房に入っていった。俺は本当に冒険しない男だと思って、少し自分にがっかりした。こないだもシーフードグラタンじゃないか。今日は、うにのクリームパスタでも食べてみればいいじゃないか。だけど、やはり俺は、シーフードグラタンの男なんだと思った。浮気はしない。一途じゃないか。俺が、冒険せずに選んだシーフードグラタンを食べながら、またホタテを探し当てて微笑んでいると、初老の店員が、にこにこ笑いながらこちらを見ていた。俺は、アンからも浮気しなかったからなと思って、一人で笑った。帰りに、

「ここのシーフードグラタンおいしいですな」

 と言ったら、

「ホタテも新鮮ですから」

 と言うので、初老の店員のお客さんの顔を覚える技を見た気がした。前に一度しか来ていない俺を覚えていているのか?と思った。気のせいかもしれないが。

 午後二時になったので、病院に入ると、すぐにサーシャが俺を見つけて駆け寄ってきた。

「探してたんですよ。もうそろそろ来るかな。来るかなと思って」

「来たよ」

「メリーさんと話したいんだが」

「お待ちですよ。案内します」

 二度目だが、病院がキレイすぎて、一人だと迷子になるだろうと思った。俺は方向音痴だからな。

「今日は仕事中かい?」

「そうです」

「今日は、メリーさんと二人きりで話したいんだ」

「私には内緒の話ですか?」

「そんなこともないんだが、申し訳ないね。個人情報が含まれているからね」

 そういうと、サーシャの顔に寂しそうな影ができた気がした。

「そういうことでしたら、メリーさんの病室で、お二人でお話した方がいいかと思います」

「それでいいかね?」

「はい。それでいいと思います。メリーさんが依頼主ですものね」

 メリーさんは、ベッドの上にいて、また窓の外を見ていた。

「あら、よくいらっしゃってくださいました。待っていましたよ」

「二人きりで話したいことがあるのですが」

 と俺が切り出すと、サーシャは、

「私には言えない話だそうです」

 と言って、病室を出て行った。

 サーシャが病室を出ると、すぐにメリーさんは言った。

「コンコン探偵さん、まずは、話の前に報告書を見させていただこうかしら。持って来ていただけたかしら?」

「ほぅ。もちろんです。カレーパンも買ってきました」

「ありがとう。あたしは、ここのカレーパンがとても好きなのよ。先にカレーパンをいただいてもよろしいかしら?」

と言うメリーさんに笑顔がこぼれた。その笑顔を見ていたら、このカレーパンは普通に見えるけれども、メリーさんにとっては特別なカレーパンなのだと思った。おいしそうに食べ始めた。

「カレーパンが来ると思って、昼食を少し減らしたのよ」

 とメリーさんは、また嬉しそうに笑った。

 カレーパンを食べ終えると、A4用紙五枚に横書きで俺が書いた報告書をメリーさんは読み始めた。読んでいる間に、俺はどこを見ていいかわからずに、外を見たり、メリーさんの顔色を見たりして、メリーさんが読み終えるのを待った。メリーさんは、顔をしかめたり、微笑んだりしながら、その報告書を読んでいた。読み終えて、俺を見たので、

「どうですか?」

 と聞いた。

「よくまとまっているわ」

「ほぅ。良かった。いくつか質問があります」

「それは私が先にすべきなのでは?まぁ、いいわ。おっしゃって」

「アーリーさんは、昔からあの感じなのですか?」

「そうね。その話ね。新婚三か月目ぐらいまでは、とても気の利くお嬢さんだったわ。私の知り合いの方の紹介なの。そうね、子供を産んで、ちゃんとやろうとし過ぎてるのかしらね。サムもあの通り、部屋にこもって出てこないし、アーリーに誰も注目しなかったのね。責任感なのかしらね。とても気性が荒い部分が出てきてしまって、今では私にも手が付けられないの。ここへもお見舞いに来ることもないわ。私のことが大嫌いみたいだし。自分を認めてくれない家族を恨んでるのかもしれないわ。感情の表し方を知らないのかしらね。本当にお見合いで、紹介されたときは、サムより私の方が気に入ったぐらいに、おしとやかで、控えめに見えたのよ。私に人を見る目がなかったのね。家族写真も私の分だけ飾られていないのよ」

 そう言うメリーさんは、ひどく落ち込んで、狼狽したように見えた。

「ほぅ。そうですか」

 それ以上、アーリーのことを聞くことが気の毒に思えたので、話題を変えた。

「ほぅ、あとは、提案なんですが、お孫さんたちに、鐘を盗ませてみたらいかがでしょうか?」

「あなたが努力しないで?」

「そうは言っていません。ずっとトムさんを見ていて思ったんです。トムさんは、あの鐘をとても大事にしていると」

「そうね。とても大事にしているわ。宝物よ」

 メリーさんの真剣さが伝わってきた。わかりきった答えなど必要としていないこともわかった。少しメリーさんは、興奮しているようだった。

「それでもあなたは依頼を受けたのよ。対価分の働きをしてもらわないと困るわ。この依頼はそれぐらいとても重要なことなのよ。あなたが思っている以上にね」

 勢いに俺は圧倒された。

「ほぅ。そこまで言われるなら、続けましょう。私にも言わせてください。私は、トムさんが大好きになってしまいました。彼には優しさが溢れている」

「そうなのよ。トムは、とても優しい子よ。よくご存じで」

 興奮ぎみのメリーさんの血圧が高くなりすぎていないか心配になった。

「ほぅ。これも提案なのですが、リーナが学校になじむ得策はないでしょうか?私には、子供がいないもので、どうしてあげるのがいいのかわからないのですが。メリーさんなら、得策が浮かぶのではないかと思いまして」

「あの子には、家族がいるわ」

「ほぅ。そうですか。学校でも友達と遊ばせてあげたいですな。時々、部屋で泣いてるようでしたので」

「リーナのことも引き受けてくださるの?」

「いやいや。私には何もできません。ただリーナは、きっともっと素直になれば、いい子なのではないかと思ってですね。余計なことでしたね」

「人見知りなのかしらね。そうね、口調は、大人を意識しているけど、私のお見舞いのときには、小さな花束を持って来てくれたり、シールのついた手紙もくれたりするわ。きっと自己表現が下手なのね。サムに似てるのかしら。大人の様子にすごく敏感で、感受性の強い子よ」

「ほぅ。サムさんのことは、よくわかりませんでした。家でもとても口数が少なくて、すぐに自分の部屋に戻ってしまわれて、何か作業をひたすらにしてるようだぐらいしかわかりませんでした」

「いいのよ。サムは大丈夫よ。サムは、幼い頃から、とにかく何かをひたすら部屋で作っているのが好きなのよ。気にしなくていいわ。サムの心配はしていないの」

「ほぅ。そうですか。余計なことでしたね」

「いいのよ。余計なことで世の中はできているのだから」

 メリーさんにもいろいろ考えがあるようだった。

「ほぅ。報告書には載せ忘れてしまったんですが、ももばあちゃんが、アーリーさんにメリーさんが変な探偵を雇っているというのを告げ口しているのを盗聴器で聞いてしまったのですが」

「それで?」

「ほぅ。それだけです」

「そういうことをちゃんと報告書に書かないで何のための報告書なの?」

 メリーさんは興奮しているようだった。

「ほぅ。その通りです。すいません」

 俺は、何の仕事をさせられてるのかわからなくなった。

「あなたにはとてもとても期待してるのよ。だから、口調が厳しくなってしまって、申し訳ないわ」

「ほぅ。全然構いません」

「そうそう、忘れていたわ」

「ほぅ。なんですか?」

「銀行の口座番号を教えてくださる?」

「えっ?お金はもういただいておりますが」

「必要経費分がまだでしょ?」

「ほぅ。お金はもう十分に」

「いいから。暗証番号は聞いてないわ。私を疑うの?口座番号を教えてくださる?」

 俺は、嫌な予感がしながら、しぶしぶ手帳を破り、銀行口座の番号をメモし、メリーさんに渡した。

「ところで、サーシャには、今、話したことを話してもいいわね。彼女は家族のようなものよ」

「ほぅ。そうですか」

「頑張って。探偵さん」

 と無理に笑っているようで、メリーさんの顔から力を感じなくて、俺は不安になった。そして、俺の心は、なぜか重く沈んだ。

 メリーさんの部屋を出て、サーシャを見つけて話しかけた。

「帰るよ。メリーさんと話したことは、メリーさんから説明があるみたいだよ。ごめんな。のけ者にしたようになってしまって」

「気にしてないです。お気をつけてお帰りになってください」

 サーシャが、明るい表情で対応してくれたので、俺の沈んだ気持ちが少し回復した。

 俺は、帰りの電車に揺られながら、トムにお金を借りに来るシーゲーさんが、玄関の前で、アーリーと話しているのを見かけたことも報告した方が良かったのだろうか。メリーさんは、とても細かいことまで知りたがっているように感じた。この仕事は、鐘を盗むだけの目的ではないのだろうか。まだ腑に落ちないことが多すぎると思った。そのうちに、景色を見ながら、うたた寝してしまって、気づくと、目的の駅に着いていた。

 俺は、メリーさんと会って、なぜかやる気がよみがえり、本当に一人でいろいろ計画を考えた。その中で、すぐに実行できそうな計画が思いついた。

 それは、トムだけが家にいる日を狙って鐘を盗みに行くというものだった。アイデアはこうだ。俺が東京へ来る予定があったので、トムの家に寄った。こないだご馳走になったので、お土産を持参して鐘を預かるというものだ。

 しかし、トムだけが家にいる日がなかった。土日は、子供たちもサムも休みだった。なぜ向いのシーゲーさんは、トムだけが家にいるときがわかるのだろうか。俺はまだトムに関することの修行が足りないのかもしれない。だから、依頼主のメリーさんも怒らせてしまうのだ。

別な計画を立てようかと迷っていると、突然、その日はやってきた。トムが風邪をひいて、会社を休んだのだ。俺は、すぐに長野の手土産を用意して、ジイタ家に向かった。

 インターフォンを鳴らすと、トムが、

「どなたですか?」

 と聞くので、

「こないだお世話になったコンコンです」

 と答えると、

「ほんとうにコンコンさんですか?」

 と聞く。

「そうです。こないだの不機嫌な王女の人形は気に入ってくれたかな?」

 と探りをいれると、

「ちょっと待ってください」

 と言って、扉を開けてくれた。

「今、誰も家にいないので、家には入れられません」

 と言うので、俺は言った。

「いいんだ。手土産を持ってきただけだから」

「そうですか。ありがとうございます」

 とトムが言った。手土産を受け取ると、すぐに扉を閉めようとするので、

「あっ、トムくん、もう一度、鐘を見せてくれないか」

 と本題を切り出した。すると、トムは、

「ごめんなさい。見せられません」

 と言って、にこにこと俺に笑いかけた。俺は、がっかりして、

「突然ごめんな。また会えるかな?」

 と言うと、

「今度は、家族がいるときに来てください」

 とトムは言った。俺はなす術がなくて、トムに別れを告げた。

 とっておきの計画のように感じていたが、俺には物を盗むという才能が、まるでない気がした。もしかしたら、探偵という仕事にも向いてないのかもしれない。直接奪うことは、もう叶えられそうにないので、新たなもっと綿密な計画を実行しようと思った。

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