百合花の恋~片想いの人が死んだ後で~
霜花 桔梗
第1話 突然の別れ
花の名前を、いくつ覚えているだろう。
季節が変われば、校舎の裏や通学路の端に、知らない花が増えていく。
私はそれを、前ほど気に留めなくなった。
思い出は、音もなく生活に溶け込む。
教室の窓、昇降口の匂い、放課後のざわめき。
どれもが確かにそこにあるのに、心だけが少し遅れてついてくる。
大切だったはずのものほど、触れないようにして歩く癖がついた。
失った、と言葉にするほど簡単ではない。
ただ、世界の色合いが少し変わってしまっただけだ。
その理由を、私はまだうまく説明できない。
それでも時間は進み、私は今日も学校へ行く。
何もなかったような顔で、何かが欠けたまま。
朝、目を覚ました瞬間から、身体が重かった。
まるで眠っている間に、誰かに体力を少しずつ削られていたみたいで、指一本動かすのにも気力が要る。
布団の中で、天井をぼんやりと見つめる。このまま起き上がらずに、もう一度眠ってしまえたらいいのに、と思う。
正直に言えば。
このまま死んでしまって、瑞菜の元に行けたらいい。
そんな気分だった。
けれど、そんなことは出来ない。高校には行かなければならないし、休む理由も見つからない。
今の時代を生きていくためには、良い大学を出なければならない。
少なくとも、家ではそう教えられてきた。それは私自身の望みというより、家の教育方針だった。
逆らうほどの気力も、今の私には残っていない。
私は重たい身体を起こし、鏡の前に立つ。
寝ぐせで跳ねた髪を手ぐしで直しながら、今日も一日が始まるのだと思う。
母親が作ってくれたお弁当を、無言でトートバッグに入れる。感謝の言葉を言う余裕もなく、私は家を出た。
自転車にまたがり、いつもの道を走る。風が頬に当たる感触だけが、かろうじて現実を感じさせてくれた。
教室に着くと、私は席に座り、スマホを取り出す。誰とも話さず、画面を開いて読書を始めた。読んでいるのは、いわゆるティーンズ小説。
しかも、死んじゃう系と呼ばれるジャンルだ。ヒロインが、最後に死んでしまう物語。
この系統の小説は、作者の大切な人が実際に亡くなっている場合が多いと、どこかで聞いたことがある。
だからなのか、妙に現実味がある。綺麗事だけでは終わらないところが、逆に残酷だった。
まれに、ヒロインが生き続ける小説もある。
私は、そういう結末を、心のどこかで必死に探しながらページをめくっている。この物語のヒロインだけは、生きてほしい。そう願いながら読む自分がいる。
死んでしまった瑞菜が帰ってくるわけでもないのに。
こんな小説を読むのは、正直、辛かった。
それでも。やめることは出来なかった。
心にぽっかりと開いた穴は、今も確かにそこにあって。
何もしていなくても、じわじわと痛みを発している。
会いたい。どうしようもなく、瑞菜に会いたい。
一限の国語の授業が始まると、教室はいつもと同じ空気に包まれた。先生の声、椅子を引く音、窓の外を走る風の気配。
私は教科書を開き、視線を落とす。
その瞬間、ページの隙間に淡い黄色が見えた。タンポポの押し花が挟まっている。
瑞菜が生きていた頃に、一緒に作ったものだ。
放課後、何気なく摘んで、ノートに挟んで、
「ちゃんと乾くかな」なんて言いながら笑っていた。
押し花をそっと指でなぞると、胸の奥が少しだけ緩んだ。ほんのわずかな癒し。
でも、確かにそこにあった。
授業は何事もなかったように進んでいく。黒板に文字が書かれ、ページがめくられ、時間は等しく流れる。
瑞菜がいなくなったことなど、誰も気にしていない。
私はふと考える。まだ、押し花を綺麗だと思う心は残っているのだろうか。
それとも、思い出をなぞっているだけなのか。
答えは出ないまま、チャイムが鳴った。
昼休み。私は机に向かい、各科目の教科書を順番に開いていた。
勉強をする気は、正直あまりなかった。
ただ、ほんの少しの癒しを求めて、押し花を探していたのだ。
生物、数学、世界史。
ページをめくっては、そっと閉じる。
そして、英語の教科書を開いた瞬間。
また、そこにあった。
「……あった」
思わず小さな声が漏れる。
英語の教科書にも、タンポポの押し花が挟まっていた。
同じ花ではない。形も色も、少しだけ違う。
こんな物でも、瑞菜との思い出だ。
そんなことを考えながら、私は自然と口元が緩んでいるのに気づく。
胸の奥が、素直に喜んでいた。
悲しみは消えない。
でも、喜びも、ちゃんと残っている。
私は押し花を丁寧に元の場所に戻し、教科書を閉じた。それから、ようやくお弁当の包みをほどく。
昼の教室は騒がしくて、明るくて、少しだけ、世界が現実に戻ってきた気がした。
グラウンド横のベンチに腰を下ろす。そこは落葉樹の下で、木漏れ日がやわらかく揺れる、気持ちのいい場所だった。
自然の光は、不思議と心に安堵感を与えてくれる。胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていくような感覚。
ここは、瑞菜が生きていた頃も、私が独りになりたい時によく利用していた場所だ。何も言わず、ただ座っているだけでいい。
そして、不思議なことに。
ここに座っていると、決まって瑞菜に呼び出されるのだった。後ろから名前を呼ばれたり、肩を軽く叩かれたり。
そんな、当たり前だった日々。
すると、少し強い風が吹いた。
落葉樹の葉が一斉に揺れ、木漏れ日が囁くように地面を走る。
「うん?」
その瞬間、後ろから瑞菜の声がしたような気がした。
名前を呼ばれた、気がしたのだ。
私は反射的に振り向く。けれど、そこには誰もいない。風に揺れる枝と、光の影だけが残っていた。
胸の奥が、きゅっと小さく縮む。少しだけ、寂しくなる。
それでも私は、何事もなかったように前を向き直る。
ベンチに座ったまま、再び木漏れ日を受け止める。
風はもう弱まり、光は静かに揺れている。
瑞菜はいない。
それは、分かっている。
それでも、この場所は変わらない。
私は、木漏れ日の時間を、しばらくの間、静かに楽しむのであった。
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