なぜ劉邦はわずか数年で中華を統一できたのか


 秦王嬴政が戦国七雄の統一に要した期間は、正確に数えれば26年に及ぶ。紀元前230年、韓を滅ぼして最初の火蓋を切り、趩、趙、魏、楚、燕、斉と順次攻略し、紀元前221年に斉王建が降伏して天下を一統した。


 この長い歳月は、単なる軍事力の差ではなく、六国それぞれが独自の王室・貴族層・軍事伝統を保持し、秦の侵攻に対して粘り強く抵抗した結果であった。


 秦は法家による中央集権を武器に、郡県制を各地に押し付けながらも、六国の旧勢力は滅亡後も地下で息を潜め、反秦の火種を残した。始皇帝の死後、趙高の専横と二世胡亥の愚昧が重なり、紀元前209年の陳勝・呉広の乱を契機に、わずか15年で秦王朝は崩壊した。


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 それに対して、項羽と劉邦の争いである楚漢戦争は、わずか4年(紀元前206年12月~前202年12月)で決着した。


 項羽が秦王子嬰を殺し、関中を三分割して十八諸侯を封じた「鴻門の宴」の直後から、劉邦が垓下の戦いで項羽を自刃に追い込み、漢王朝を建てるまでの期間である。


 なぜ、秦が26年を要した統一を、劉邦は4年で成し遂げられたのか。この問いに答えるには、戦国後期と秦末漢初の時代背景、そして「王族なき時代」の権力構造の変容を深く見つめる必要がある。



 まず、六国の王族・貴族層がほぼ壊滅していたことが決定的な要因である。秦の統一戦争は、六国の王室を物理的・政治的に根絶やしにした。


 韓王安は捕らえられ、趙王遷は幽閉され、魏王假は自殺、楚王負芻は捕虜、燕王喜は殺され、斉王建は騙されて降伏し、後に処刑された。


 貴族層も郡県制の下で地方官に転落するか、咸陽に強制移住させられ、抵抗の拠点を失った。


 秦末の反乱で陳勝が「張楚」を名乗ったが、彼は農民出身で王族の血統を持たず、旧六国の貴族層はすでに存在しなかった。


 項羽が十八諸侯を封じた際も、旧王族の復活ではなく、自身の功臣や地方豪族を充てたに過ぎない。つまり、統一を阻む「正統な王族の象徴」が不在であった。


 次に、軍事力の集中と移動の容易さが挙げられる。


 戦国時代、六国はそれぞれ独自の軍事伝統と城壁都市を持ち、秦の侵攻に対して長期の籠城戦を展開した。


 趙の長平の戦い(前260年)では40万の兵が動員され、楚の巨鹿の戦い(前207年)でも数十万が衝突した。



 しかし、秦末にはこうした大規模な常備軍は存在せず、反乱軍は農民や亡命兵の寄せ集めであった。


 項羽の楚軍は最大時でも20万程度、劉邦の漢軍も同様に10~30万の範囲で、機動力が極めて高かった。


 韓信の「明修棧道、暗渡陳倉」は、わずか3万の兵で三秦を平定し、陳倉から咸陽までの200里を奇襲で制圧した。


 戦国時代なら、こうした機動戦は六国の城壁網によって封じられたであろうが、秦の郡県制が道路網を整備し、軍事移動を加速させた。


 さらに、秦の中央集権がもたらした「統治の空白」が、劉邦の統一を容易にした。


 秦は郡県制によって地方の自治を奪い、咸陽に全ての権力を集中させた。


 始皇帝の死後、この中央が崩壊すると、地方は一瞬にして無政府状態に陥った。


 項羽が十八諸侯を封じたが、彼らは秦の郡県制を継承し、独自の王権を確立する基盤を持たなかった。


 劉邦は漢中を拠点に、蕭何の補給と張良の謀略、韓信の軍事力で、次々と諸侯を吸収していった。


 彭城の戦い(前205年)で劉邦は大敗したが、滎陽・成皐の持久戦で項羽を疲弊させ、垓下で決着をつけた。


 この過程で、諸侯は「漢か楚か」の二択を迫られ、中立を保つ余地はなかった。戦国時代の「連衡・合従」のような複雑な外交バランスは存在せず、勝者総取りの単純な構造が統一を加速させた。



 加えて、民衆の疲弊と「統一への渇望」も見逃せない。


 秦の苛政は、農民を極限まで追い詰めた。始皇帝の阿房宮建設や万里の長城、頻繁な戦争は、人民を疲弊させ、反乱の火種となった。


 しかし、秦の崩壊後、項羽の無秩序な分割統治はさらなる混乱を招いた。


 劉邦は「約法三章」(殺人・盗賊・傷害以外は罪とせず)を掲げ、民心を掴んだ。


 戦国時代、六国はそれぞれの文化・言語・貨幣を持ち、統一を拒むアイデンティティがあったが、秦の15年間でこれらは強制的に均質化され、人民は「統一された秩序」を求めるようになった。


 劉邦の漢は、秦の法家を緩和し、儒家的な仁政を打ち出したことで、民衆の支持を得た。


 最後に、項羽の戦略的失敗が劉邦の勝利を決定づけた。


 項羽は鴻門の宴で劉邦を殺さず、関中に封じ、自身は彭城に拠った。


 これは、関中の戦略的価値を軽視した結果であった。韓信が三秦を平定し、関中を漢の補給基地に変えると、項羽は後方から脅かされる形となった。


 垓下の戦いで項羽は四面楚歌に囲まれ、孤立無援で自刃した。戦国時代の王は、滅亡しても子孫が各地で復活を試みたが、項羽には後継者がおらず、楚の正統は一瞬で消滅した。


 結論として、劉邦が4年で統一できたのは、王族なき時代の権力真空、軍事移動の容易さ、秦の中央集権の遺産、民衆の統一への渇望、そして項羽の戦略的失敗が重なった結果である。


 秦の26年は、六国の王族・貴族・軍事伝統を一つ一つ粉砕する作業であったが、楚漢戦争は、すでに「王なき世界」で、軍事力と補給力、外交手腕を競う単純な勝負であった。


 劉邦は、沛県の亭長という下層出身でありながら、この新しい時代のルールを誰よりも早く理解し、韓信・蕭何・張良という「チーム」を率いて、歴史上最も迅速な統一を成し遂げたのである。

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