シーン2
数日あけて、同じ交差点。またも小雨だった。ヘッドフォンは飾りで、耳は外に開放しておく。胸ポケットのZOOMに新規ファイル、時刻を声に落としてから、体内カウントを回す──車道青45、歩行者青30、点滅7。
……が、今夜は青がわずかにのびている。終わり際の青の点滅が、息を吸い直すみたいに0.3拍ぶんだけ粘っている。他に気づいている人はいるだろうか。いや、多分、俺だけが知っている誤差だ。
レコーダに「+0.3?」と囁き、マーカーを打つ。
スペアナを見ると、風でも雨でもない細い帯域──砂音が、前より薄く、でも確かに混じる。人の流れレコーダには乗らない。スマホの光、傘の骨、テールの赤。こういった視覚情報は、ステージでは必要かもしれないが、音を突き詰める音屋の感性には、触れてこない。
白黒の帯の手前、縁石の角でフードの子の姿がちらりと動き、俺の体内メトロノームがひと目盛り、警告に振れた。
縁石に立つ少女は、数日前と同じ制服姿だった。違うのは、フードの影が明らかに濃いことと、両足が硬く地面を捉えていること。呼吸は浅く速いのに、視線は前方──点滅寸前の信号盤へ釘付けだ。左足の先がほんの1ミリ浮いている。30カウントで青が終わるはずの拍で、彼女の身体が前に出る準備をしていた。
(待て──今の拍は32だ)
体内時計が狂っているんじゃない。世界のほうが狂い始めている。世界のリズムがわずかに崩れ、彼女が道に飛び出すのをかろうじて止めていた、護りのタイミングがずれた。
彼女は、道路に『飛び出せてしまう』
俺は先日と同じように地面を蹴った。またも間に合わないだろうとは思っていたものの、そうせざるを得なかった。
その刹那だった。
視界の端から人影が滑りこんできた。──柚希だ。だが、彼女も間に合わない。すべてのタイミングが、悪い形にはまってしまっているのだ。
交差点を車が左折しスピードを緩めずに飛び込んできた。横断歩道があるのも気に留めず、目の前の少女が交差するコースにカーブの膨らみをおさえつつも速度を落とさない。
バン!
衝撃音が響いた。急ブレーキかと思ったが違うようで、車は少女を避けられず。
──しかし。
次の瞬間、交差点の全体に漂う異様な静寂感と共に空間が歪んだように感じられた。
巻きが入った金髪の柚希が突如現れ、左手を伸ばし、まるで糸を引くかのように何かを操る動作を見せたのだ。彼女の腕から伸びた黒い影は幾何学模様のような軌跡を描いて空中を駆け巡り、その先端が車へ接触するかと思われた。
激しい衝突音とともに車は急停車。車の後部には真っ黒な影を纏った一人の少年の姿があった。彼は微かな笑みを浮かべながら右手で空間そのものを操作しているようでもあり……そして何よりも衝突直後にも関わらず無傷である事が異様であった。
「まったくさぁ、……誰が誰に迷惑かけてんだかー」
柚希の声が聞こえる。冷たくもあり優しくもある声音であったが、少年自身もこの事態に対して困惑している節も窺えるようだった……そしてついにはこんな台詞まで口にしたのである──曰く、
「なぁ?お姉さん?こんな時間に一人で外歩いてちゃダメじゃん?事故にあうよ」
車の背後で、制服の少女を抱きかかえるのは、優しく微笑む柚希というギャルで、さらに黒い影のような少年がぴょんぴょんと辺りを飛び跳ねていた。少年──というか、ガキ?──は、あやうく交通事故が起こりかけたのに、なぜか楽しそうだった。で、当然のように、柚希に殴られていた。
先日、都市伝説みたいなものだと、柚希は言っていた。
(なん……だこれ……)
俺は事態を飲み込めず、街のリズムを取り戻すこともできず、呆然としていた。すると、柚希は厚底の靴先でトンと地面を叩いた。それに呼応するかのように、バチンという静電気めいた乾いた破裂音が鳴った。
世界が戻った。少女も車も傷ひとつなく、少女は柚希と並んで縁石に腰を下ろしていた。俺はなぜか二人の前の地面で正座をして呼吸を整えていた。呼吸が整うのと合わせて、少しずつ街のビートを取り戻していく。やっぱり、この交差点は精緻なビートボックスで、柚希というギャルと、黒い少年はそこに現れたノイズにしか思えなかった。
雨脚はさらに弱くなり、歩道のレンガに溜まった水たまりに街灯の光が滲んでいた。正座の膝が痺れてきたところで、柚希が立ち上がった。厚底靴の踵をカツンと鳴らすと、まるでそれが合図のように世界の輪郭が定まった気がした。
「さてと。そこの君は、まずは立つといいよ」
彼女の声に促され、俺はようやく正座から解放された。太腿と脛に残る奇妙な痺れが現実を証明している。車の衝突は確かに現実だったはずだ。車と少女がぶつかる瞬間、黒い影が弾けたあの歪んだ時間感覚も。
「この子の親は、もう帰ってこないわよ」
柚希が唐突に言った。縁石に腰掛けた少女がびくりと肩を震わせる。フードの奥の表情は見えないが、呼吸が浅く速くなった。
「どうして、そんなこと……」
俺が訊くと、柚希は鼻先で笑った。
「簡単なこと。この子の親は『行ってしまった』んだよね。消えたとか死んだとかじゃなくてね。境界を超えちゃったの」
境界。
境界と言うからには、何かと何かの境目であるはずなのだが、それについて柚希は言及しない。だけど、この言葉は、BPMを数え続けた耳には、奇妙に馴染んだ。リズムの変拍子のように世界の理がずれる地点──それが境界なのだろうか。
少女が小さく咳き込んだ。柚希が隣にしゃがみこみ、鞄から小さなハンドクリームを取り出す。
「柑橘系だけど、刺激少ないやつ。匂い強いのは辛いでしょ?」
少女はこくりと頷き、掌に出されたクリームをゆっくり揉みこんだ。微かに甘酸っぱい香りが立ち昇る。柚希はその手を覆うように包みながら続けた。
「この子が飛び込もうとしたのはね、行ってもいい場所、を探してたから」
「行ってもいい場所?」
「そう。どこでもいい。ここでない場所。親と一緒に消えたかったのよ」
少女が震えながら口を開いた。
「お父さんとお母さんが……夜中に、突然……消えちゃって……」
声がかすれて裏返る。言葉は支離滅裂だったが、要点は伝わった。深夜、少女がトイレに立った隙に両親は忽然と家から姿を消した。警察も捜索願いを受理したが成果はなく、親戚との同居も上手くいかず──行き場を失った少女は、街の端境を彷徨い続けたという。
「それで……ここで?」と俺。
少女は俯いたまま指先で石畳をなぞる。
「この場所だけ……違う気がしたんです。音が……なんか……」
そうだ。俺もそれを嗅ぎ取った。精密すぎる信号のリズム。なのにどこかずれている感覚。完璧なリズムの裏側に潜む、わずかな拍のずれ。
柚希が少女の頬に手を添えた。
「この子の背中を押したのは、あのガキんちょよ」
彼女が視線を向けた先には、さっきまでぴょんぴょん跳ねていた黒い影──少年の地縛霊がいた。少年は両手を広げ、大袈裟に肩をすくめている。まるで冗談だと言わんばかりのジェスチャー。
(殺す気だったのか)
心の中で呟くと、少年が俺に顔を近づけた。濡れたコンクリートの匂いと一緒に、古い映画館の焼けたフィルムのような匂いがした。
(殺す? 違うよ。道に出て欲しかったんだ)
少年の声が頭の中に直接流れ込む。低く掠れた電子ノイズのような声。
(お姉ちゃんが迷ってたから。早く帰ればよかったのに)
(帰る……?)
(そう。おうちへ。道が閉じちゃう前に)
この少年が言う“家”とは、何を指すのだろう。両親が消えた先なのか、それとも──。
柚希が突然立ち上がり、傘をくるりと回した。透明な布が風を孕み、微かな波紋が空気を揺らす。
「さ、もう大丈夫よ」
彼女は少女の背中をぽんと叩いた。
「ここにいたら“もっと悪いモノ”に気付かれちゃう。行こ?」
少女は怯えたように柚希の腕を掴んだ。俺も一緒に歩き出すべきだろうか。だが足が動かない。この交差点の音律を放棄することはできない。
柚希が振り返った。
「あんたはどうするの?」
「ここにいる」
即答した。音屋としての本能が命じている。この街の音は俺の音楽なのだ。
柚希は笑った。笑いながら首を傾げた。
「だったらね──」彼女は懐から一枚の紙切れを取り出した。「連絡先。困ったら電話して。あとコレ」
投げ渡されたのは青いヘアピンだった。雨粒を受けてかすかに光る。
「その交差点のノイズ、どうせ直せないんでしょ? でも整えることはできるかもよ。壊すんじゃない。整えるの」
それだけ言うと、柚希は少女の手を引いて雑踏に消えた。黒い少年の影は一瞬だけこちらを振り返り、ぱちんと指を鳴らす仕草をした。乾いた音が尾を引いて空気に溶ける。
残された俺は信号機を見上げた。青が点滅し始めている。正確な30カウント+0.3秒の拍子。
ZOOMのレコーダーを開き、新規トラックを作る。
《交差点BPM整え版》
ヘッドフォンを浅く被り直し、路面に落ちる雨音、車のエンジン、遠くで回る看板の電飾──全ての音を拾い始めた。
ノイズを取り除くのではない。リズムを壊すのでもない。ただ“整える”。街の拍子と少女の呼吸と柚希の傘の音と少年の影の蠢き。それらすべてを含み込み、新しいひとつのリズムに編み直す。
これが俺の音楽だ。クラブでもゲームでもない。この交差点の夜だけのBPM。
レコーディングはまだ続く。終了ボタンを押すのはいつだろう。雨音の合間に少女の啜り泣く声が混じっているようにも聞こえた。それは過去の音の残像か、あるいは未来の兆しか。確かめる術はない。ただ今夜も正確に打ち鳴らされる拍子の中に、その音を溶かしていく。
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