エピローグ

エピローグ

――拳の温度、風の行き先


 朝の空気は、ひんやりとして甘かった。

 夜露を含んだ草の匂い。遠くでパンを焼く香ばしい匂い。まだ眠りきらない街の、微かなざわめき。


 シルヴィアは宿屋の裏手、小さな空き地で一人、裸足になって立っていた。

 土の感触が、足裏からじんわりと伝わってくる。


「……今日も、悪くない朝ですわね」


 そう呟いてから、軽く息を吸う。

 肺いっぱいに、冷たい空気。

 吐くとき、胸の奥に残っていた熱が、ゆっくりと抜けていく。


「はぁ……」


 拳を握る。

 開く。

 肩を回すと、関節が小さく鳴った。


「……少し、硬いですわね。昨日、張り切りすぎましたかしら」


 背後で、ぎし、と木の軋む音。


「師範、もう起きてたんすか」


 レオンだった。眠そうな顔で、マントを肩に引っ掛けている。


「ええ。あなたこそ、早いですわね」


「いや……目、覚めちゃって。なんか、音がしたから」


 シルヴィアはくるりと振り返り、彼を見る。


「音?」


「ええ。地面……鳴ってました」


 彼女は一瞬だけ驚いた顔をして、それからふっと笑った。


「まあ。そんなに大きな音、立てていました?」


「はい。……いい音でした」


 レオンは照れたように目を逸らす。


「強い音じゃないっす。なんていうか……落ち着く音」


「そう。それは良かったですわ」


 シルヴィアは再び前を向き、ゆっくりと構えた。

 柔らかく、だが芯のある姿勢。


「レオン。見ていなさい」


「はい!」


 彼女は一歩、踏み出す。

 土が、きゅ、と鳴る。

 次の瞬間、ふっと風が流れた。


 拳は速くない。

 だが、迷いがない。


「……こうして、毎朝、同じことをしますの」


「型、ですか?」


「いいえ。確認ですわ」


 彼女は拳を下ろし、指先を眺める。


「今日の自分が、昨日の自分と、ちゃんと繋がっているかどうか」


「……難しいですね」


「ええ。でも、とても大切です」


 レオンは少し考えてから、口を開いた。


「師範。……あの、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「なんで……全部、手に入れなかったんですか?」


 シルヴィアは首を傾げる。


「全部?」


「爵位も、領地も、名誉も……王都の人たち、今でも師範の話ばっかりです。『聖女』だって」


 彼女は、少し困ったように笑った。


「重たいですわね」


「……え?」


「全部、重たいですの」


 風が吹き、彼女の髪を揺らす。

 朝の光が、道着の黒をやわらかく照らした。


「強さというものは、持てば持つほど、手入れが必要になります」


「手入れ……」


「ええ。権力も、名声も、使い方を誤れば、すぐに錆びる。錆びた力ほど、危険なものはありませんわ」


 レオンは拳を見つめる。


「じゃあ……俺も、いずれ?」


「焦らなくていいですわ」


 シルヴィアは、彼の肩に軽く手を置いた。


「あなたは、まだ伸びる途中ですもの」


 その手は温かく、重すぎない。


「……ありがとうございます」


 沈黙。

 鳥の鳴き声。

 街が、ゆっくりと目を覚ましていく音。


 宿屋の扉が開く。


「おーい! 朝飯できたぞー!」

「肉まん、まだ温かいよ!」


 冒険者たちの声が響く。


 シルヴィアの目が、きらりと光った。


「……肉まん」


「師範、顔変わってます」


「気のせいですわ」


 彼女はさっと足を拭き、草履を履いた。


「行きましょう。空腹は、判断を鈍らせますもの」


「はい!」


 食堂に入ると、湯気と、肉と、香辛料の匂いが混ざり合う。

 木のテーブル。少し欠けた器。

 どれも、彼女には心地よかった。


「師範、ここ」


「ありがとう」


 肉まんを割ると、湯気が立ち上る。


「あつ……」


「ふふ、慌てない慌てない」


 一口。

 噛むと、じゅわっと肉汁が広がる。


「……美味しいですわ」


「でしょ!」


 周囲の冒険者たちが笑う。


「次はどこ行くんです?」

「また森?」

「それとも山?」


 シルヴィアは、少し考える。


「風の向く方へ」


「え、それだけ?」


「ええ。それだけです」


 彼女は肉まんを頬張りながら言った。


「ですが……困っている人がいたら、足は自然と止まりますわ」


 レオンが小さく笑う。


「師範らしい」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 食事を終え、外に出る。

 空は高く、青い。


 シルヴィアは一度だけ、空を見上げた。


「……今日も、良い日になりそうですわね」


 拳を握る。

 温度を、確かめる。


 それはもう、戦うためだけの拳ではない。

 守るため、導くため、生きるための拳。


「さあ。行きましょう」


 誰に言うでもなく、彼女は歩き出した。

 風が、背中を押す。


 その足音は、静かで、確かで――

 どこまでも、続いていく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る