第9話 拳禅一如、極致の戦い
第9話 拳禅一如、極致の戦い
王城の謁見の間は、もはやかつての栄華を留めていなかった。 壁は剥がれ落ち、漆黒の魔力が粘着質を帯びた霧となって床を這い回っている。その中心に、カイル皇太子だった「異形」が鎮座していた。
『……ハハ……ハ。見たか、シルヴィア。これが神の領域、不可侵の権能だ』
カイルの体は、黒い泥のような魔神の肉と混ざり合い、三メートルを超す異形へと膨れ上がっていた。その周囲を、禍々しい紫色の光を放つ「物理無効の結界」が球状に覆っている。
「権能、ですの? ――私には、己を制御できずに溢れ出た、醜い汚物にしか見えませんわ」
シルヴィアは、崩れた柱の影からゆっくりと歩み出た。 彼女の道着は激戦で煤け、腕には無数の擦り傷がある。だが、その瞳には疲労の色など微塵もない。むしろ、極限状態の中で神経が研ぎ澄まされ、周囲の空気の粒子一つ一つ、魔力の揺らぎ一つ一つが「見えて」いた。
『死ね! 塵(ごみ)めが!』
魔神が腕を振るう。 漆黒の衝撃波が空間を削り取りながら迫る。 シルヴィアは動かない。 ただ、深く、深く。肺の底にあるすべての空気を絞り出すように呼吸を吐き出した。
(吸う息は天の恵み。吐く息は地の力。……拳(けん)と禅(ぜん)は、一(いつ)なり)
ズズ……ッ。 彼女が右足を一歩引いた。 その瞬間、彼女の足元を中心に、這い回っていた魔霧が円を描いて霧散した。 魔神の結界が「物理」を拒絶するなら、物理を超えた「理」を叩き込めばいい。
「カイル殿下。……本当の『芯』の通った力をお見せいたしますわ」
シルヴィアが踏み込んだ。 魔神の放つ追撃。黒い触手が四方から襲いかかるが、彼女はそれを「千鳥足」の極致――最小限の体捌きで、まるで幻影のようにすり抜ける。
『無駄だ! 結界はあらゆる衝撃を遮断する! お前の拳など、届く前に消滅するのだ!』
「いいえ。届きますわ。――今(いま)」
結界の目前。シルヴィアは動きを止めた。 いや、止まったように見えた。 彼女の体内では、足裏から吸い上げた大地のエネルギーが、膝、腰、背筋を通り、螺旋を描いて右拳へと圧縮されていた。
ドクン、と鼓動が鳴った。 それは彼女の心臓ではない。彼女の意志が、世界の拍動と同期した音。
「はぁぁぁぁぁッ!!」
――天地拳(てんちけん)、第一系。
放たれた拳。 それは単なる肉体の打撃ではなかった。 極限まで練り上げられた身体操作が生み出す「気」――すなわち、命の振動。 魔神の結界が、シルヴィアの拳が触れた瞬間に「キィィィィン!」という高周波の悲鳴を上げた。
物理的な衝撃は遮断できても、生命そのものの「理」による浸透までは拒めない。 パキパキ、と空間に亀裂が入るような音が響き、不落を誇った紫の光球が、硝子細工のように粉々に砕け散った。
『な……っ!? 結界が……私の神域がぁぁっ!!』
「神を語るには、徳が足りませんわ!」
シルヴィアの追撃。 結界を失い、剥き出しになった魔神の核へと、彼女の左拳が吸い込まれる。 呼吸と打撃が完全に一致した、拳禅一如の境地。
「天に理あり、地に道あり。――人に、拳ありッ!!」
ドォォォォォォォォォンッ!!!
激突の瞬間、王城の天井が吹き飛んだ。 シルヴィアの拳から放たれた衝撃は、魔神の巨体を突き抜け、背後の壁を巨大な円状に粉砕した。 それは魔力ではない。人間の筋肉、骨、呼吸、そして「意志」が一つになった時にのみ生じる、究極の現象。
『ぐ……あ……あぁぁぁ……っ!!』
魔神の肉が、浄化されるように白く弾けて消えていく。 カイルの絶叫が夜空に消え、王都を覆っていた黒い雲が、嘘のように晴れていった。 雲の切れ間から、柔らかな月光が降り注ぐ。
静寂が戻った謁見の間。 シルヴィアは、ゆっくりと拳を引き、深く息を吐いた。 彼女の指先からは、薄い煙のような熱気が立ち上っている。
「……ふぅ。少々、出しすぎましたかしら」
彼女の目の前には、魔神の力を失い、ただの抜け殻のように横たわるカイルがいた。 彼は死んではいない。だが、その瞳にはもはや野心も狂気もなく、ただ圧倒的な「本物」を目にした恐怖と絶望だけが刻まれていた。
「暴力では、何も解決いたしません。……それをご理解いただくのに、少し時間がかかりすぎましたわね、殿下」
シルヴィアは乱れた旅装を整えると、倒れ伏す元婚約者には目もくれず、大きく開いた王城の穴から夜空を見上げた。
「さて。これでようやく、本当の『自由』ですわ」
かつて悪役令嬢と呼ばれた少女は、今、神をも超える理をその拳に宿し、物語の最終章へと歩み出す。 王城の瓦礫を踏みしめるその足音は、勝利の凱歌よりもずっと、静かで力強かった。
第9話 完
「天地拳」という少林寺拳法の代表的な型を、物理無効を打ち破る「気」の描写として表現しました。
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